福岡、博多の人々は祭り好きで一年を通して様々な祭りが開催されています。中でも三大祭りと呼ばれる「どんたく」「山笠」「放生会」は博多の人々の心のよりどころになっています。
筑前国続風土記(貝原益軒著)によると、「博多どんたく」の起こりは、「博多松囃子」が源流で約800年前の治承3年(1179年)に始まったとされています。その後、幾多の歴史の変遷に乗って、シャレッ気の多い博多町人が無礼講の挨拶回りとして発展・定着させたものです。「どんたく」の名称は、明治時代に一時禁止されていた「松ばやし」を復活させる際に呼ばれ始めたものです。「どんたく」とはオランダ語で休日を意味する「ドンターク」が語源で、一般にも土曜日等で半分休日の事を「半ドン」というのはその名残です。その昔より、「どんたく」をしている姿、即ち、祝って歩く姿・型を「通りもん」といっておりました。昭和21年5月24日、焼け野原の博多を「復興しようや!」の掛け声に瓦礫の道を6キロ、厚紙や新聞紙に色を塗った肩衣や、疎開先から借りて来た三味、太鼓を集めて「通りもん」を行いました。この時の祝って歩いた「通りもん」の三味や太鼓の響きが、大きな復興への勇気を与えました。以来、今日に至っており、今ではゴールデン期間中の人出では日本一の祭りとなっており、3万人のどんたく隊がおもいおもいの道順で、どんたく広場や市内の本舞台5カ所・演舞台29カ所で芸を披露するのをはじめ、市内を祝って巡ります。他にも市内各ホールでは様々なコンサートが行われたり、会場でも巡視船が市民をのせての巡航があったり、夜は花火大会ととにかく街はお祭り一色になります。
博多祇園山笠
博多祇園山笠とは、毎年、7月1日から15日早朝にかけて行われる七百五十余年の歴史をもつ博多の祭りで、櫛田神社(福岡市博多区上川端町)の氏子による奉納行事です。福岡の祭りではなく、博多の祭りで、市内を流れる那珂川の東側、旧博多部でその大半が行われます。市内中心部のいくつかの町が「流(ながれ)」とよばれる自治組織をつくり、山を運営しています。山には2種類あり、飾って祭りの華やかさを高める「飾り山」と、実際に市内を走り回る勇壮な「かき山」があります。福岡市街各地には「飾り山笠(かざりやま)」や「舁き 山笠(かきやま)」が飾られ、櫛田神社境内では 露店などが開かれ、沢山の見物客 で賑わいます。祭りは、まず、1日に「飾り山」が公開され、10日の「流れがき」から「かき山」が一般に公開され、15日早朝、博多の町は一気にヒートアップし、「追い山」で終了する。
放生会
延長元年(923)年に起源を持つ放生会は正しくは「ほうじょうえ」といいますが、博多では昔から「ほうじょうや」と呼び親しんでいます。いわれについては定かでありませんが七日七夜にぎわうので『や』になったともいわれています。放生会は、九州の秋祭りのトップを飾る獣、鳥、魚、虫等、ありとあらゆる生命をいつくしみ、加えて、海の幸、山の幸の豊穣に感謝する祭りです。七月に行われる祇園山笠が男中心で女性が裏方を努める祭りであるなら、この放生会は女子供の祭りといえます。現在では少なくなりましたが、女性は最も楽しみな"放生会ぎもん"という、晴れ着を新調してお詣りし、着物をそれとなく自慢しあって楽しんだそうです。この、放生会ぎもんを着て、ごちそうや炊飯道具を長持ちにいれ、 松原に幕を張って 、町内ごとや、家ごとで飲み食い騒ぎ、一日を楽しみ、子供は、七〇〇軒にもおよぶ 露店商で、イカ焼きやカルメラを腹一杯に食べ、 見世物小屋やお化け屋敷で、見物したりなどして遊んんでいました。露店では、放生会名物の チャンポンや新ショウガが売られ、お詣りにきた人の手は、必ずと言っていいほど、その商品を握っていました。昔と比べ現在は、露天商でのバナナのタタキ売りや、見世物の蝦蟇の油などの興業を伝承する人達が減ってきており、腕のいい大道芸人も少なくなり、お客との買う買わないの駆け引きが見られなくなりつつあるのは、さみしいことでありますが、今でも放生会は福岡、博多の街に秋の訪れをつげる博多三大祭りの一つであります。