四国の山の銅山跡を訪ねて
四国の山の銅山跡を訪ねて
愛媛県別子山村旧別子,
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高知県大川村大北川,船戸,土佐町井尻
旧別子の小足谷接待館跡のレンガ塀です。大正時代に廃墟となった遺構です。
2000/8/18 別子山村旧別子,大川村大北川,船戸,土佐町井尻
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# 12-1
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海辺の廃村に行けて,廃都市にも行けたということで,十分な成果はあったのですが,四国にもそう簡単には足を運べないということで,「長崎・四国ツーリング」の計画通り,「もうひと頑張り・・・」と愛媛の別子銅山の跡を回ることになりました。
別子銅山は,元禄の頃(1691年)から採掘が始まり,廃鉱は1973年(昭和48年),300年の歴史は住友が財閥として繁栄する基礎を作りました。
銅山の嶺北の新居浜市は今も人口13万人の四国屈指の工業都市として栄えています。これに対して嶺南の別子山(Besshiyama)村の人口はわずか300人余り,徳島に注ぐ吉野川水系(銅山川)の源流部ということもあって,とても山深い村です。
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# 12-2
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長崎から新居浜までは,途中久留米で1泊し,佐賀関−三崎間の国道フェリーを使って走りました。久留米−新居浜間は実績で360km。久留米出発は朝の9時だったのですが,高速なしで,佐田岬などを経由して行ったもので,新居浜着は夜の11時。駅前のビジネスホテルに飛び込んで,1時間後には寝ていました。途中,佐田岬半島の伊方町で見た瀬戸内海の夕景は,とても穏やかでやさしい景色でした。
別子銅山巡りは,鉱山跡の廃村探訪ということで,別子山村の旧別子(Kyuu-Besshi)という,明治の頃には1万人を超える人口を擁したものの,1916年(大正5年)に主要な鉱山施設が新居浜へ移動するとともに廃墟となった,とても古い鉱山町の跡に的を絞ることにしました。
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# 12-3
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新居浜市街から別子山村までは35kmほどですが,10年ほど前に大永山トンネルができる前はクルマが通れる道はなく,新居浜市と別子山村のつながりがそれほど強くないことが伺えます。調べるとトンネルの標高は1000m台,旧別子への峠道(銅山越)は1300mもあります。
この日(四国2日目)の天気は,あいにく小雨混じりの曇です。ビジネスホテルを朝8時に出て,別子ラインと呼ばれる渓谷沿いの道に向かうと,入口のあたりの山根には,住友が設立した別子銅山記念館と銅山に由来する大山積神社があります。神社は大正までは旧別子にあった山の守護神で,山根への移転は1928年(昭和3年)とのこと。ともにずいぶん大規模で,綺麗に整備されています。
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# 12-4
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山根から少し山に入った端出場(Hadeba)は,元の鉱石の集積地で,マイントピア別子という大規模な観光施設があります。赤レンガ作りの端出場記念館は,今も残っている往時の変電所を模したデザインで,周囲の森ともよくなじんでいます。
「別子はな街道」という小冊子によると,もう少し山に入った東平(Tounaru)にも歴史資料館があり,記念館・資料館の充実ぶりは驚くものがあります。さらに,大永山トンネルを越えて別子山村に入った中七番には,住友の森フォレスターハウスという住友林業の公共向けの施設がありました。これらの施設は外から見ただけだったのですが,住友が別子銅山に持つこだわりを感じさせられました。
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# 12-5
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県道から旧別子に向かう道は,別子山村役場の手前4kmほどのところにありましたが,いきなり階段になっていて,バイクはここまでです。この道は登山道として整備されているようですが,ほとんど人気はなく,私が滞在した3時間ほどの間に出会ったのは登山の方は1組2人だけでした(村役場でもらった案内図でも,旧別子を探訪する人は年間1000人くらいとあります)。
入口から10分ほどで円通寺というお寺の跡。ここには基礎の石垣とともにいくつかの墓石が残されていました。案内の看板も立っているのでたどるのは簡単であり,よく往時の雰囲気もわかります。
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# 12-6
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次には接待館という要人の宿泊や宴会に使われたという施設の跡があり,特徴のある模様の入った赤レンガの壁や,規模の大きな石積みの階段が,往時の華やかさを想像させます。レンガの壁の中は平らなのですが,植林されていて,遺物はレンガや石垣ぐらいしか見あたりません。建物は朽ちてなくなったのか,撤去されたのかはわかりませんが,どちらかといえば撤去された感じです。
接待館の周りの集落跡は小足谷(Koashidani)で,往時には銅山の責任者の屋敷や料理屋,精米所,醸造所があったそうです。案内板には醸造所跡のレンガ煙突があると記されていたので,谷沿いの道を入ってみたのですが,屋敷の土台の石垣を見つけるに留まりました。
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# 12-7
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さらに歩くと,測候所跡,小学校跡,劇場跡が続けさまにあって,石垣と階段が並んでいました。劇場は1889年(明治22年)の建立で,案内板には「5月の山神祭の3日間は,歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで数千人の観衆をうならせた」と大袈裟なことが記されているのですが,この傾斜地にして広々と残る敷地を見ると,「そんな時代もあったのかな」と思えるところです。
小足谷小学校は1873年(明治6年)設立で,1916年(大正5年)閉校とのこと。旧別子も,鉱山の撤退とともにすべてが廃墟となったようで,このあたりは長崎の端島と同じです。くしくも1916年は,端島で最初の鉄筋コンクリート造の高層住宅(30号棟)が建った年ですね。
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# 12-8
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まだ先には,鉱山の遺跡や往時の別子山村役場や大山積神社があった目出度町(Mettamachi)があるのですが,天気が悪いことと,泊まりが淡路島は洲本の親戚の家ということを考慮して,またの機会とすることにしました。
旧別子入口の駐車場でお昼のおにぎりを食べ,別子山村役場に立ち寄り資料をいただきました。
高知県に向かう林道に入ったあたりから雨が強くなり,カッパを着ることになりました。高知県大川村に入って最初の集落の大北川(Ookitagawa)にはまったく人気はありません。公民館として使われているらしい小学校跡には,大きなスズメバチの巣がありました。
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# 12-9
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大北川から細い道を下ると,ほどなく早明浦(Sameura)ダム(1973年完成)のダム湖に沿った県道に突き当たり,大川村役場のある小松に着きました。元の大川村役場は少し下流の船戸(Funato)にあり,ダムによって旧村役場などの村の中心施設は全部水没しました。この旧村役場は取り壊されておらず,渇水のときには顔を出します。現在の船戸は,県道を走っていても存在がわからないほどになっています。
ダム湖のほとりで一服していると,岐阜県旧徳山村や福井県旧西谷村のように,完全に村がなくなるケースと,大川村のように半分以上の人口(3212人(1965年)→933人(1975年))が流出した状態で村が存続するケース,いずれにしても辛いものだとしみじみ感じました。
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# 12-10
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ダム湖沿いを下って土佐町に入りしばらく走ると,電話ボックスの隣に建物があり,看板を見ると大川内公民館とあります(地番は井尻(Ijiri)と古味(Komi)の真ん中あたりです)。一見平凡な建物ですが,隣の由緒のありそうな神社があります。
後の調べで,大川内(Oogauchi)は,土佐町の吉野川沿いの五集落(大渕,古味,井尻,下川,上津川)の総称で,早明浦ダムによってこれらの集落の中心は水没してしまったことがわかりました。現在,井尻は廃村に,古味はほとんど人気のない状態になったようです。神社も元は水没部分にあったとのこと。記念碑も家屋も見当たらなかったのですが,残った家屋は全部県道から入ったところにあるそうです。
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# 12-11
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やや人気のある早明浦ダムの堰堤で一休みして,本山町からR.439に合流。「ヨサク国道」といって,田舎の代表のように言われる道ですが,新居浜の市街地以来の賑やかさを感じました。
大豊町でR.32に合流し,徳島県に入ると池田町でものすごい夕立に遭遇。開き直って井川池田ICから高速(徳島道)に入ると,吉野川SAのあたりで雨は上がりました。大鳴門橋で淡路島に渡り,洲本の母方の実家に着き,夕立の話をすると,淡路島は水不足で困っているとのこと。
翌日はちょうど10年前(1990年のお盆頃)に亡くなった祖父の墓参りに行くことができました。
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