西彼の小島の旧炭鉱町を訪ねる
西彼の小島の旧炭鉱町を訪ねる
長崎県高島町高島,外海町池島
高島の五階建てアパート前で見かけた,人なつっこいネコの群れです。
2003/3/24〜25 高島町高島,外海町池島
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# 19-1
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春の長崎の旅のもう一つの目標は,軍艦島(端島),高島,池島,崎戸(蛎浦島)といった西彼の小島の炭鉱跡,旧炭鉱町の探訪です。
宿泊予定は池島。平成12年11月に一度訪ねているのですが,その1年後(平成13年11月)に池島炭鉱は閉山。2か月後(平成14年1月)に北海道釧路市の太平洋炭鉱も閉山となり,日本から炭鉱はなくなりました。ひとつの時代の終わりを告げる大きな出来事のように思います。
旅の1週間前,前に泊まった「美松旅館」に連絡すると,転居されたとの電話案内。もう一軒の「福屋旅館」に連絡をすると,営業中とのことで,まずは一息。赤ちょうちんの居酒屋「やきとり江夏」を再訪するのも楽しみで,お母さん(夏子さん)に便りを出しました。
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# 19-2
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24日月曜日(旅5日目)の朝は7時頃起床。軍艦島行きは規制の厳しさからあっさり却下。まずは高島へ向かうことになりました。海上タクシー(というよりは準定期船)「美津丸」に乗って,香焼−高島間は10分ほど。天気はうす曇です。
高島到着は午前9時10分。船長さんにお礼を言って別れて,しばらく歩くとレンタサイクル「橋口自転車」の看板が目に入ったので,これを使うことになりました。港のほど近くの4月開業という海水温浴施設「いやしの湯」や町役場は真新しく綺麗な施設でしたが,百万地区の八階建て鉄筋コンクリート(RC)造アパート(昭和40年建立)は,五階よりも上の窓の多くが閉ざされており,その明暗は好対照です。
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# 19-3
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高島は面積1.17kuに対して人口は920人(平成14年)。いちばん人が多かった昭和43年には18,000人もの人が住んでいました。
「高島町町制要覧」によると,高島で石炭が発見されたのは元禄時代(1693年)のことで,明治14年(1881年)に炭鉱が三菱に譲渡されてから「石炭の島」として発展しましたが,昭和61年11月27日に炭鉱は閉山となり,閉山からの1年間で約3000人の方が島を後にしました。
近年は,行政単位の町としては全国最小の町,廃墟フリークには軍艦島(端島)を町域に持つ町として知られる高島町ですが,企業誘致,水産業の復興,トマトなど特産物の生産,海釣りなどの観光で,積極的に新しい顔を作り出そうとしている様子が伺えます。
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# 19-4
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日吉岡地区の社宅(炭住)跡地を過ぎてから,権現山の展望台に行くために自転車を降りました。展望台の標高は115mあり,良い運動です。三分咲きのサクラが咲く公園からは,ぼんやりと中ノ島と軍艦島が見えます。
三階建ての旧高島高校(平成元年閉校)はそのままの姿で閉ざされており,隣りの高島小中学校ではちょうど終業式が行われている様子です。さらに歩いて本町地区(古くからの町)に足を運ぶと,狭いコンクリートの階段がうねるように続いており,大破した廃屋があちこちに見られます。古いタバコ屋の看板や地味なカトリックの高島教会に,歴史の長さが感じられました。
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# 19-5
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1時間ぶりに自転車に戻って,立ち寄った外海の近くの五階建てRC造アパート(昭和42年〜44年建立)の入口には,人なつっこいネコが四匹。みんな体格が良く,なかなか良い暮らしをしていそうです。
商店跡が目立つ蛎瀬地区を過ぎると,主に六階建てRC造アパート(社宅)がたくさん建っていたという山手地区。石垣とコンクリートの階段の間の緑地には「山手18号跡」といったアパート跡の標柱が立っています。写真集も出されている元炭鉱マン 柿田清英さんの「池島.高島.軍艦島」Webの「高島のページ」には,閉山の頃の高島の様子を撮った写真が数多く掲載されています。
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# 19-6
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パラパラ降り出した小雨の中,西浜地区の七階建てRC造アパート(昭和45年〜48年建立)や「いやしの湯」開業で3月末に閉ざされる公衆浴場を見ながら,時計と反対回りで港に戻ったのは11時30分頃。さらに石炭資料館と市場を回ったので,自転車を返して12時40分発の長崎行き高速艇に間に合わせるのはひと苦労でした。
初めて回った高島は,予想よりも活気があり,軍艦島と比べるとはるかに広く,池島と比べるとはるかに歴史があるという印象を受けました。また,坂が多いのは三つの島に共通する特徴です。時間が許すならば,一泊してじっくり回りたかったところです。
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# 19-7
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高速艇は30分ほどで長崎・大波止港に到着。セルフ讃岐うどんを食べて,大波止バス停から外海町の中心地 神ノ浦までは1時間半の長丁場。神ノ浦からのフェリーは5便あり,所要は30分。午後4時半,池島に到着しました。
港地区のアパート(下請け企業の方向けを主とする)のほとんどは四階建てRC造。ベニヤ板に閉ざされた窓もあるけれど,それほど寂しいという印象は受けませんでした。ただ,貯炭場からは石炭はなくなっていて,トロッコの線路も切られていました。高島との大きな違いは,真新しい施設がないことと,町役場がない(外海町役場池島支所しかない)ことです。
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# 19-8
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池島は面積0.92kuに対して人口は700人弱。昭和26年頃には350人程度の人口が昭和34年の営業出炭開始で急速にふくらみ,昭和46年には7500人を超えました。炭鉱の閉山は平成13年11月29日。閉山時の人口(約2800人)は,1年間で4分の1以下になりました。
池島の元住民の裕壹さんの「U1」Webの「池島のページ」には,新旧の池島の様子が詳細にまとめられています。
港地区から歩いて行った郷地区(古くからの町)の街並みには人気はなく,パチンコ店はなくなっていました。スナックの看板は五つほど。「福屋旅館」は郷地区のいちばん奥の目立たない海の近くにあり,仕事の方の常宿ということが想像されました。
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# 19-9
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陽が暮れるまでの間,島の様子を伺おうと歩き回りました。郷地区の坂道を登って,交番の前から鉱業所の様子を伺うと,立坑やトロッコなどの施設がそのまま残されていました。「Dilarang masuk」,「CAM VAO」という横文字が併記された立入禁止の看板が目立ちます。
池島では,平成14年4月から5ヵ年計画で日本の炭鉱技術を海外に伝えるための研修が国により行われています。島の西端の第二立坑に足を運ぶと「慈海の像」の横には日本の国旗の左右にインドネシアとベトナムの国旗が掲げられていました。「炭鉱夫と子供の像」を見ると,土台に記された社名は「松島炭鉱株式会社」から「長崎炭鉱技術研修センター」に変わっていました。
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# 19-10
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鉱業所地区のアパート(社員の方向けを主とする)のメインは四階建てRC造。半分以上の窓がベニヤ板で閉ざされていて,丸ごと無人の棟もあります。島内の公衆浴場は3ヶ所(閉山当時は4ヶ所)。うち1ヶ所は無人の27号棟(八階建てRC造,昭和38年頃建立)の一階にあり,100円を払って入って,番台のおばさんにお話を伺うと,3月いっぱいで閉鎖されるとのこと。
風呂あがりの頃にはもう陽暮れ。売場面積が3分の1ぐらいに縮小された池島ストアに立ち寄ってから,郷地区の坂道を下って「やきとり江夏」に向かいました。真っ暗闇の中,ポツリと灯る赤ちょうちんは風情満点です。
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# 19-11
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「やきとり江夏」到着は午後7時ちょうど。「いらっしゃい!」と夏子さんは二度目の客を迎えてくれて,常連の元炭鉱マン,現在郵便局勤めという上原さんとともに話が始まりました。食事は夏子さんお勧めの山芋ステーキです。
夏子さんは福岡(北九州市)出身,上原さんは沖縄(沖縄市)出身ということで,旅の初日に行った小倉の沖縄居酒屋の話が出たり,三線の話が出たりで,その話の広がり方はある種都会的です。「炭鉱町には全国各所から労働者が集まり,そして去っていく・・・」 この日の池島の夜には都会の暮らしの匂いが感じられ,人口では同じ規模の2日目の久賀島の夜との違いが際立ちました。
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# 19-12
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酔いが回った頃には,夏子さん,上原さんとともに「スナックマキ」に繰り出して,カラオケに突入。誘われないとちょっと行けない雰囲気のお店の中には,意外な賑わいがありました。3日目に行った細石流がなつかしいツワのおひたしを食べながら,さんざん飲んで,歌って,お話をして,店を出たときには午前様になっていました。
明けて25日火曜日は,旅も6日目 最終日。崎戸行きはあっさり見送り。旅館のお母さん(タエさん)のお勧めで,旅館のすぐそばの山の斜面にボタ(石炭)拾いに出かけました。にぎりこぶしぐらいのボタがあちこちに落ちていてびっくり! 良い池島土産になりました。
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# 19-13
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その後,選炭場や春休みに入った学校,池島神社などを見て回りましたが,天気は良いのに黄砂のせいか景色は霞んでいました。神社の境内のサクラ,学校のグランド沿いのスイセン,郷地区の丘の上の黄色い花の群生はとても綺麗で,春の訪れを感じさせてくれました。
興味がつきない池島からの出発は,午後1時38分の佐世保行き高速艇。うまい乗継ぎの空港行きバスがなく,JR佐世保駅から大村駅に出てタクシーで長崎空港へ。何とかフライト18分前に空港に到着して,午後8時には南浦和に帰っていました。
軍艦島と崎戸行きはあきらめたものの,振り返れば「それでも欲張り過ぎたかな」と思えるぐらい,収穫満載の5泊6日の旅でした。
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