上手な廃村の廻り方 教えます
上手な廃村の廻り方 教えます
和歌山県中辺路町兵生,
___________________________________________大塔村西大谷,平,九川,長瀬,
__________________________________東伏菟野,原,五味,木守
九川の旧集落の廃屋と雑草に埋もれた表通り。香り良くキンモクセイが咲いていました。
2003/10/3 中辺路町兵生,大塔村西大谷,平,九川,長瀬,東伏菟野,原,五味,木守
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# 22-1
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打田行きのレポートまとめのため「角川日本地名大辞典 和歌山県」を調べていると,南紀の大塔(Ootou)村に,大字西大谷(Nishiootani),古屋(Furuya),佐田(Sada),中ノ俣(Nakanomata),長瀬(Nagase),原(Hara)といった廃村がまとまって載っているのが見つかりました。
「角川日本地名大辞典」は全51巻。各都道府県のものがあり,市町村別に大字まで世帯数や人口を含むデータが載っているので,基礎資料として有用です。先に挙げた6つの大字は,人口ゼロと記されている上,郵便番号の末尾も00なので,間違いなく廃村です。
さらに,地形図と住宅地図の調べから,大字面川(Mengawa)の中に大熊(Ookuma),平(Taira)という廃村らしき集落が見つかりました。
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# 22-2
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中辺路(Nakahechi)町,古座川町,那智勝浦町,熊野川町,本宮(Honguu)町と,近隣の町村をひと通り角川の辞典で調べると,中辺路町兵生(Hyouzei),道湯川(Douyukawa),那智勝浦町高野(Takano),本宮町平治川(Heijigawa)が廃村の様子です。地形図,住宅地図を組み合わせると,那智勝浦町奥中野川(Okunakanokawa)が廃村で,大塔村九川(Kugawa),東伏菟野(Higashifudono)が高度過疎集落の様子です。
さらに「へき地学校名簿」(教育設備助成会刊)で,へき地級数の高い学校(昭和34年)を調べると,兵生,大塔村五味(Gomi),熊野川町滝本(Takimoto)に3級校,大塔村木守(Komori),古座川町樫山(Kashiyama),熊野川町畝畑(Unehata)に4級校が所在したことがわかりました。
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# 22-3
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廃村が13か所,興味深い過疎集落が7か所ということで,これほどまとまった数が浮かび上がったのは丹後半島以来のことです。
調べが終わったのは9月中旬。「陽が高いうちに行かねば!」ということで,10月初旬に2泊3日で,これらの廃村・過疎集落を巡るツーリングを実行することになりました。問題は廻り方です。たくさんの数を限られた時間で巡るには,ある程度絞り込みをしなければいけません。
数の多さから,大塔村を旅の中心に持ってくることにして,古屋,佐田,中ノ俣は,昭和30年代に日置川中流にできた殿山ダム(合川ダム)による水没集落なので,除外することになりました。あと,廃村時期の古い道湯川と地理的に離れた平治川も除外となりました。
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# 22-4
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旅の予定は,1日目が大塔村を中心に巡って,宿泊は串本町 紀伊大島の民宿。2日目が古座川町,那智勝浦町,熊野川町を巡って,宿泊は本宮町 川湯温泉の民宿。宿はネットで調べて,値段が手頃で食事や風情が充実していそうなところを選びました。
前日は,定時まで仕事をした後,大阪・堺の実家に移動。翌10月3日金曜日(旅1日目)は,秋雨前線が活発な季節にして幸いにも快晴。
実家発は8時半。近畿道を美原南ICから入り,湯浅御坊道路の終点の御坊ICまでは110km,1時間40分。海沿いのR.42を旅の気分に浸りながら紀伊田辺まで走り,朝来からR.311に入り,熊野古道の入口 滝尻に着いたのは午前11時30分でした。
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# 22-5
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滝尻は三差路になっていて,R.311をそのまま進めば,中辺路町の中心 栗栖川を経て14kmほどで廃村 兵生。R.371に入れば西大谷から始まる大塔村の廃村・過疎集落群。地図で見る分には兵生には行かないほうが余裕ができることは明らかなのですが,学校があった廃村は兵生だけということから,しばし考えた結果,R.311をそのまま進むことになりました。
R.311は熊野古道,熊野本宮,川湯温泉といった観光地へ向かうメインの路線で,快適な2車線道路。手前の集落 福定の分岐には兵生に向かう道を示す古びた看板がありました。福定からは,別世界のような静かで狭い舗装道に変わり,6kmほどで兵生に到着しました。
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# 22-6
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兵生は29戸・192名(明治24年)が昭和49年には26戸・75名。この年,町の集落再編事業で町内高原字川合に集団移住されたとのこと。
たどり着いた兵生には,石垣以外に集落の跡らしきものはなく,辺りの人気は皆無です。廃村後に植林されたスギ林から洩れる陽の光が,コントラストを示すばかりです。いわゆる「鼻」がまったくきかないため,後の行程も考えて,5分ほどで兵生を後にしました。
旅の後で見る機会を得た和歌山県の廃校をまとめた写真集「さらば学舎」(中川秀典さん写真,宇江敏勝さん文,求龍堂刊,平成2年発行)には,兵生小中学校跡の写真が載っており,「とてつもなくさびしい所」と紹介されています。
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# 22-7
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滝尻の三差路に戻ったのは午後12時55分。兵生はその様子を見ることができたということで納得して,R.371を大塔村に向かいました。秋の山里は刈入れの終わった黄色の田んぼに赤いヒガンバナが咲いていて,青空や川の青さとともにとても綺麗です。
R.371から少し山に入った西大谷に到着したのは1時45分。大字西大谷は字千ノ垣内,中村,西垣内からなり,32戸・157名(明治24年)が,昭和45年では17戸・62名。乳大師という奉られた大木があり,兵生と比べると整備されている印象がありました。
西大谷では,古い作業小屋,多くの石垣に加え,植林されたスギ林の中に朽ちた廃屋の屋根,風呂の跡を見つけることができました。
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# 22-9
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旅の後で調べた日本財団Webの「大塔村の集落再編整備事業」には,「急激な過疎化の進展に伴い,共同体としての機能維持が困難な集落を対象に,住民の意向を尊重しながら,生活環境の充実,福祉水準の向上を図るため集落再編整備を行った」とあり,西大谷では,この事業計画によって村内下附団地,向山団地に集団移転され,昭和48年に無人になったとのこと。集落跡は林業用地として活用されていました。
大塔村に多数の廃村があるのは,村が集落再編事業を積極的に行っていることと関係するようです。「大塔村の集落再編整備事業」には,西大谷の林地の間伐・枝打ちが行き届いている理由として,「住民の先祖代々の土地を愛する心の表れ」と記されていました。
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# 22-10
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西大谷から旧三川村(昭和31年の合併により大塔村)の中心の合川を経て,面川に到着したのは2時40分。豊原小学校跡の石碑前で住宅地図を確認して,大熊,平への道をたどると,予想通り車道はなく,バイクは終点の車庫で足止めとなりました。
住宅地図には大熊,平ともに数戸の空家が記されているのですが,農作業をされている方がいたので尋ねたところ,何も残っていないとのこと。それでも念のため,距離の近い平に向かって山道を登ると,車庫から10分ほどでコケの生えた石垣が確認できました。
平では2戸・8名が,昭和46年に集落再編事業によって村内下附団地に集団移転され,無人となったとのこと。
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# 22-11
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山間部の秋の陽は短く,3時過ぎにはすっかり傾いてしまいました。前の川に沿ったR.371を走るクルマはほとんどありません。
四番目の目標の九川は16戸・95名(明治24年)が,昭和45年には9戸・36名,さらに平成13年にはわずか1戸・2名。九川の旧集落は,山の緩斜面の旧道沿いにあり,住宅地図には数戸の空家が記されています。これが気になった私は,R.371から林道へと入り,クルマは通れるものの傷んで土砂と枯葉だらけの古びた舗装道にバイクを走らせました。この道には,兵生や平とは対照的に「鼻」が感じられました。途中でバイクをおいて,緩やかな上り坂を歩いて行くと,数戸の廃屋が見え始めました。
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# 22-12
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そこには集落からそのまま人が居なくなったような,リアルな廃村の風景が広がっていました。十数戸ある家々は崩れてはいないものの手入れされている様子はなく,集落内の表通りはススキなどの雑草で埋もれています。私はしみじみと,キンモクセイの甘い香りが漂よう集落跡を,陽の光が西に傾いてなくなるまで探索していました。
九川では,昭和46年に集落再編事業によって3戸・13名が下附団地に移転されたとのこと。旧集落が無人になったのは,建物が比較的新しいことから昭和60年代頃かと思うのですが,公共の建物はなく,推測の域です。
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# 22-13
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九川の先にも長瀬,東伏菟野,原,五味,木守といった廃村・過疎集落があるのですが,陽が暮れてしまってはゆっくりとはできません。
五番目にたどり着いた長瀬には,傷んで通れなくなった石段の上に神社があり,神社の反対側の川の近くに2戸の廃屋が見られました。また,六番目にたどり着いた東伏菟野には,閉ざされているが手入れされている家屋と,人気のある家屋がありました。
長瀬は9戸,47名(明治24年),東伏菟野は12戸,63名(明治24年)で,昭和45年には両集落あわせて3戸,11名。昭和46年に集落再編事業によって1戸・3名が下附団地に移転されたとのこと。なお,長瀬と東伏菟野は,統計上ではあわせて東長と扱われているようです。
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# 22-14
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七番目にたどり着いた原には,家屋を改造したような作業小屋があり,手入れがなされていました。原は21戸・110名(明治24年)が昭和45年には8戸・24名。昭和46年に集落再編事業で全戸が下附団地に移住したとのこと。住宅地図には,数戸の空家が記されており,時間が取れなかったのが残念なところです。
八番目の五味は,5時ちょうどに到着。合川からの距離は22km。平地の少ない集落の真ん中には「思い出の里 三川第二小学校」という石碑があります。五味は45戸・226名(明治24年)が平成13年では16戸・28名。集落再編事業では4戸・17名が離村されたとのこと。
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# 22-15
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最後にたどり着いた木守は,前の川最上流部,合川から30kmもの距離にあり,地図では最も不便に見えますが,小さな盆地となっていて,山中としては土地の広がり,空の広がりがあります。木守は68戸・294名(明治24年)が平成13年では44戸・71名。福祉関連の施設があり,平成7年には「ふるさと定住促進住宅」が建設されるなどで,近年人口は微増している様子です。
昭和54年まで存続した小学校跡に到着したのは午後5時15分。集落の中心部,福祉施設「木守の園 シオン」の隣にあり,「心のふる里 大塔村立木守小学校」という石碑の後には,往時の赤い屋根の木造校舎が残っていました。
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# 22-16
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校舎の様子を伺うと,ちょうどご主人(管理人さん)に遭遇しました。ご挨拶をすると,小学校跡は「あすなろ木守の郷」という福祉施設として使われているとのこと。夏はキリスト教関係の方の研修などで,宿泊施設としても使われているらしく,「一般の者も泊まることができますか?」と尋ねると,自炊という形でなら可能で,今晩も構わないとのこと。
「できればここに泊まりたい!」と衝動が湧いたのですが,すでに紀伊大島で宿の予約をしています。木守から紀伊大島までは約60km。ちょうど古座川町へ入る峠であたりは闇に包まれました。この約2時間の走りはとても長かったです。この日の走行距離は326kmでした。
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# 22-17
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さて,「上手な廃村の廻り方」ですが,「兵生には行かないほうが良かったかな?」,「宿は予約しないほうがよかったかな?」など,いくつか課題は残りましたが,予定通りに展開しないのは旅の醍醐味であり,大塔村の廃村・過疎集落の様子をひと通り知ることができたということで,まずまずだったのではないかと思います。特に九川の集落跡が醸し出す朽ち行くものの存在感は圧巻でした。
再訪が可能ならば,季節は夏頃,大塔村だけに焦点を絞って,大熊に行ったり,西大谷,九川,原を再訪したりしながら,弁当とお酒持ち込みで木守小学校跡の宿に泊まってみたいものです。廃村巡りの旅の宿は,質素なほうが似合いです。
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(追記) 平成18年1月の「廃村と過疎の風景(3)」の調査で,平と九川の間で通り過ぎた谷野口(Taninokuchi)が戸数4戸の「学校跡を有する廃村」であることがわかりました。
「廃村と過疎の風景(2)」ホーム
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