わが国は人口減少時代に突入したが、すでにさまざまな理由で人が住まなくなった集落、すなわち「廃村」が全国に数多く点在している。私は1981年3月、旅先の新潟県で偶然角海浜(かくみはま)という廃村に出会って以来、廃村への旅や調べ物を継続している。
2001年2月、私家版の冊子『廃村と過疎の風景』を出版した頃には、「これはライフワークになる」と確信した。大阪で生まれ育ち、東京で書籍の編集業務に就き、埼玉に住む私にとって、廃村は非日常の場所であり、そこには「わびしさ」「さびしさ」とともに「のどかさ」「おどろき」があふれている。そして掘り下げていくごとに、その魅力を強く感じるようになった。
15年間継続した廃村を訪ねるライフワークは、常に新たな目標を見い出してきた。2004年頃から、廃村における学校の存在を強く意識するようになった。学校は集落の文化の中心であり、学校の閉校とともに集落が閉ざされた例も数多い。
翌05年からは国会図書館に幾度も足を運び、全国の学校跡がある廃村(ごく少数戸が残る過疎集落を含む)を県別にまとめ、「廃村千選」という資料集を作成した。これによって「日本のどこにどのような廃村があるか」が一目でわかるようになった。
さらに、「全県踏破の道」と銘打って、県単位で全国の廃村に足を運ぶ旅を続けた。この目標は2013年8月、宮崎県の廃村 寒川(さぶかわ)を訪ねることで達成することができた。
ただ足を運ぶだけではなく、多くの元住民の方々にお話をうかがい、往時の写真をお借りして、2011年からは「集落の記憶」というタイトルで文章をまとめるようになった。
今年8月末時点で、訪ねた廃村の数は「廃村千選」のうち467ヵ所である。
長崎県大村市にある長崎空港は、かつては箕島(みしま)という13戸66名の農家が暮らす有人島だった。空港建設の決定から3年後の1972年、全島民は先祖代々の土地を手放し、大村市内などに移転した。こうして日本初の海上空港は1975年5月に開港した。
私は、昨年4月末、元島民の方を訪ねて大村に出かけた。久保勘一・長崎県知事(当時)と膝を付き合わせて交渉した当時の総代大島誠さんは、「島を離れるにあたり、ご先祖様に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった」と話された。この声に久保知事は、「空港の敷地に慰霊碑を建ててはどうか」と答えたという。翌5月1日は、年に一度空港内で行われる箕島の慰霊祭に同行させていただいた。慰霊祭は併せて空港の安全と発展を祈るため、開港記念日に行われている。大切に祀られている慰霊碑には、元島民の故郷への想いが凝縮されていると感じた。
長崎市の端島(はしま)炭鉱(軍艦島)が7月、世界遺産に登録された。私の眼には、箕島と端島はともに高度経済成長期に生じた廃村と見える。その歴史はさまざまだが、「今はなき故郷にかつて暮らしがあったことを後世に伝えたい」という想いは、全国の廃村に共通している。
近年、わが国ではさらなる科学技術の発展を望む声は薄れ、昔ながらの心豊かな暮らしを求める声が強くなったように感じられる。廃村は、多かれ少なかれ、失われた時代の匂いを残す「タイムカプセル」の要素を併せ持っている。私は、都会と廃村を含む過疎の地を何度も行き来して、この匂いを肌で感じられるようになってきた。
生物生態学、農政、国土保全など、幅広い分野の研究者とのやり取りが活発になってきた昨今、私の当面の目標は、「廃村千選」の半数となる500ヵ所の訪問達成である。