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滋賀県の「学校跡を有する廃村」

                 ◇月刊誌「民俗文化」の記事より◇   浅原 昭生

 日本は2005年より「人口減少時代」に突入したが、すでに様々な理由で人が住まなくなった集落が全国に点在している。私はこうした廃村に足を運び、写真を撮ったり地域の方に話を聞いたりして記録に留めてきた。

 全国の廃村の様子について、広範囲でまとめられた資料はほとんどない。県の廃村の様子を記した書籍は秋田県と富山県のみにあり、前者は「秋田・消えた村の記録」(佐藤晃之輔著、無明舎刊)、後者は「村の記憶」(山村調査グループ著、桂書房刊)である。滋賀県では「脇ヶ畑史話」(多賀町史編纂委員会編、多賀町公民館発行)という一つの行政村の廃村(犬上郡旧脇ヶ畑村)について記された冊子があるが、県内の廃村を網羅して記した書籍はない。
 脇ヶ畑村は、私にとって印象深い廃村のひとつである。私は2000年7月、永源寺町茨川など滋賀県内のいくつかの廃村を巡るバイクでの旅をした。このとき訪ねた旧脇ヶ畑村保月では、無人のお寺さん(照西寺)、往時の郵便局跡、村役場跡、教員住宅跡の建物などがそのままに残されていた。郵便局跡、村役場跡はその年の秋に取り壊されたが、昭和四十年代にタイムスリップしたようなその姿は、今も深く記憶に刻み込まれている。永源寺町蛭谷の筒井神社で、滋賀民俗学会の菅沼晃次郎さんと偶然お会いしたのもこの旅のときである。
 その頃から私には全国にどのような様子(場所、規模、数など)で廃村が分布しているかということに強い関心があったが、全国に数多く存在する廃村をひとりで調べることは不可能ではないかと思われた。その後、北海道から沖縄まで、全国の廃村を巡る旅を重ねるうちに、「存在がはっきりしている学校跡がある廃村に的を絞れば、全国規模での追跡ができるのではないか」と思い付いた。

 全国の「学校跡を有する廃村」のリスト作りは2005年の春から始まった。取り上げる学校は、小学校(分校、冬季分校、夏季分校を含む)とした。集落跡だけではなく、五戸以下程度の過疎集落(高度過疎集落)なども広義の廃村として、対象に加えた。基礎資料には、全国の学校名が網羅された「全国学校総覧 昭和35年版」(東京教育研究所刊)、「へき地学校名簿」(教育設備助成会刊)を用いた。これに地形図、住宅地図、地名辞典、各市町村史、離島の専門書、ダムの専門ホームページ、鉱山の専門ホームページなど、各種の資料を調べて、県単位でリストアップを続けた。
 2006年の秋、この調査が一段落した時点で、全国の「学校跡を有する廃村」の総数は一千(集落跡が約七百、高度過疎集落が約三百)となった。全国一の数となったのは北海道(278)で、以下新潟県(85)、山形県(82)、秋田県(50)、岐阜県(40)の順となった。
 滋賀県の廃村は13ヶ所(集落跡9ヶ所、高度過疎集落1ヶ所、冬季無人集落3ヶ所)で、全国18番目、近畿二府四県では一番の数だった。全国と比べた滋賀県の廃村の特徴として次の三点が挙げられる。
 ・鉱山関係の廃村は1ヶ所である(全国では117ヶ所)。
 ・戦後の開拓集落の廃村はゼロである(全国では126ヶ所)。
 ・ダム関係の廃村は3ヶ所である(全国では134ヶ所)。
 廃村の分布は中山間部に多く、市町村別では余呉町と多賀町に多い(5ヶ所と3ヶ所)。9つの集落跡の離村時期をみると、そのうち4つは昭和四十年代の高度成長期だった。

 私は全国の廃村への旅の記録を「廃村と過疎の風景」という私家版の冊子二冊にまとめたが、調べるごとに新しい発見があり関心は尽きない。人口減少の時代、失われた過去の暮らしを見直し、今後の生き方を考える上でも、廃村の調査は末永く続けていきたい。

        * 月刊誌「民俗文化」(2007年2月25日,滋賀民俗学会発行)の記事より

        * 画像は滋賀県多賀町の多賀小学校芹谷分校跡(2000年7月21日撮影)