河北新報の記者の方から、「山形県の冬季分校で唯一開校していた新庄市の萩野小学校二枚橋冬季分校が、平成18年度をもって閉校となる」との旨の連絡をいただいたのは、この6月のことだった。
「いつかなくなるのであろう」とは思っていたものの、「市議会に廃止条例を提出」、「12月に閉校式がある」という現実を眼にすると、時代の流れを感じずにはいれなかった。
●冬季分校の歴史と現状
冬季分校は、主に日本海側の積雪の多い地域で、冬の積雪期(主に12月から3月まで)に通学が困難になる地域において開校される季節分校で、全盛期は小中学生数のピーク(1800万人台)でもあった昭和30年代前半、往時の先生は地域の農家の方が教壇に立たれるというケースが多かったという。
「学校基本調査報告書」(文部省刊)によると、昭和34年の冬季分校(小中)の総数は全国21道府県で842校であり、その双璧は、新潟県の202校、山形県の144校であった。
冬季分校がなくなってきた理由としては、山間部における人口の減少、児童数の減少、学校の統廃合、道路環境の整備などが挙げられ、昭和54年には186校,平成11年には17校に激減していた。
平成15年の冬、心あたりの県の教育委員会に問い合わせて調べたところ、全国の冬季分校の数は7校、低学年が通年通う分校に冬季間高学年が通う形のもの(兵庫県2校、鳥取県2校、計4校)を除くと、秋田県と山形県に計3校しか残っていないことがわかった。そして、平成18年3月、山形県最上町大堀小学校野頭冬季分校は閉校、平成19年3月、二枚橋冬季分校も閉校。この冬(平成19年12月)も開校されたのは、秋田県鹿角市中滝小学校田代冬季分校だけとなった。
●冬季分校の集落は、その3割が廃村に
大阪の都市部で会社員の家庭に生まれ育った私(今の住居は埼玉)は、もともと見知らぬ田舎の景色や暮らしに対する関心が強かった。そして、地理や郷土史の知識をもとに、バイク(ツーリング)で現地を訪ねるうちに、全国各地に散らばる廃村への関心が高まり,調べ続けることになった。
廃村を調べるにおいて、冬季分校はよい目標となった。学校は「地域の要」ともいうべき公共施設であり、市町村史などでも多くの記事がまとめられている。
「へき地学校名簿」(教育設備助成会刊)には、全国16県で395校(低学年が通年通う分校に冬季間高学年が通う形のものを除く)の小学校の冬季分校(昭和34年現在)が掲載されている。これと、全国の学校が網羅された「全国学校総覧」(東京教育研究所刊)を基礎資料として、地形図、住宅地図、地名辞典、各市町村史、離島の専門書、ダムや鉱山の専門ホームページなど、各種の資料を調べて、県単位で廃村のリストアップを続けた。
現在、見出した全国の「学校跡を有する廃村」(学校は小学校とその分校、冬季分校)の総数は752ヶ所、このうち「冬季分校跡を有する廃村」の総数は118ヶ所である。冬季分校があった集落の3割(395ヶ所中118ヶ所)が廃村になった計算になる。山深い廃村もあれば町に近い廃村もあり,その姿は多種多様である。
●忘れられない冬季分校の温かな雰囲気
平成16年1月下旬、「冬季分校とはどんな学校だろう」との想いから、私は3校の冬季分校を巡る旅に出かけた。最初に訪ねた野頭冬季分校は、先生がひとり(地域の農家の笠原先生)に子供たちがふたり(2年生の未来さんと1年生のはやてくん)。校舎は旧公民館。国語(かるた作り)と体育(スキー)、音楽の授業の様子を見学した。静かな分校を想像していた私は、賑やかに過ごす子供たちの姿に驚かされることしきりだった。音楽の授業で、先生の提案から即興で実現した未来さんとはやてくんのピアニカ、私が持参した沖縄三線の「こいぬのマーチ」の合奏は、強く記憶に残っている。
次に訪ねた二枚橋冬季分校は、先生がひとり(地域の農家の斎藤先生)に子供たちがふたり(3年生の信也くんと1年生のまなさん)。校舎は公民館兼用。先生の「埼玉からお客さんがやってくる」という事前の声に、信也くん、まなさんはご挨拶の言葉で迎えてくれた。野頭に引き続きの「こいぬのマーチ」の合奏は、信也くんが電子ピアノ、まなさんがピアニカ、先生が笛、私が三線と、とても賑やかに奏でることができた。その温かな雰囲気は、伝統が紡ぎだす今の時代では忘れがちになる温かみのように感じられた。(画像)
野頭、二枚橋とも農業を主とする集落で、分校から本校まではともに約4km。高学年(野頭は3年生以上、二枚橋は4年生以上)の児童は冬でも歩いて通っている。それでも、訪ねたときにはともに「地域の強い要望で存続している」と校長先生から伺ったこともあり、しばらくは存続するものと思っていた。二枚橋冬季分校の閉校事由は、児童の減少、本校への通学手段の確保という。
最後に訪ねた秋田の田代冬季分校は、先生は2人(宿直室の泊まり勤務する若い先生)に児童は6人(1年生から6年生まで)。当日はスキー教室のため全員留守で、校務員の方に迎えていただいた。昭和39年に建てられた専用の校舎は、昭和48年まで一般の分校だったという歴史をもつ木造二階建て。田代は酪農を生業とする高原の開拓集落で、分校から本校までは約10km。田代の児童は、4月から11月まではスクールバスで本校へ通う。500日超も毎日更新を続けている中滝小学校のホームページを見ると、田代冬季分校は地域に必要不可欠な存在であり、まだまだ存続するように感じられる。
●過去を見直し未来へつなげる
二枚橋冬季分校には、平成17年2月、新婚旅行の道中に再訪し、そのときは斎藤先生とふたりの子供たち(2年生のまなさんと1年生のみくさん)と一緒にそばを打ち、賑やかに節分の豆まきを行った。二枚橋冬季分校の閉校に感慨を覚えるのは、山形県最後の冬季分校だからではなく、温かみを肌で感じた冬季分校の閉校だからに違いない。
暮らしが時代にそぐわなくなった集落は廃村となり、役割を終えた冬季分校は閉校となっていった。時代は先に進むのみで、後には戻らない。人口減少時代が始まった現在、失われた過去の暮らしを見直し、今後の生き方を考える上でも、これからも廃村を調べ続け、冬季分校で感じた温かみなど、過去の暮らしのよいところを見出したいという思いは強い。