シーグルと両親の過去の事情編 【2】 タイミングがいいのか悪いのか。 神様というのが本当にいるのならば、それは随分と捻くれた思考回路に違いない、とウィアは不良神官らしく思った。 あれからシーグルは馬に乗せてフェゼントを運び、そして、首都につく直前というところでそのフェゼントは目を覚ました。 ギクシャクとした態度を取りながらもフェゼントは礼を言い、シーグルも予定通りウィアの家まで送って行くと最初は言っていたのだ。 だが、そこでタイミングがいいのか悪いのか、丁度何処かへ行って来たらしいテレイズが馬車で通り掛かり、事情を聞いてフェゼントを家まで乗せて行くという事になった。 ――兄貴が通らなければ、あの二人が会話するにはいいきっかけだったのにさ。 とは思っても、疲れてふらふら状態のフェゼントには、このまま馬に乗っているより馬車に乗った方が楽だろう、と言ったシ―グルの言葉にも納得する。 だから丁度良かったといえば良かった、それは間違っていない。 けれど、フェゼントを馬車に乗せた後、一人去って行くシーグルを見ていたら、ウィアはいてもたってもいられず馬車から降りてしまったのだ。 「ウィア、お前どこ行くんだ」 「悪ィ、ちょっと用事あってさ、兄貴、フェズを頼むな」 今日の襲撃者程度を雇う相手なら、リパの大神官の馬車や屋敷を襲ってくるとは思えない。屋敷に帰れば、フェゼントの看病はきっとラークが必死でやるだろう。 だからフェゼントの事はこの際任せて、ウィアはシーグルを追いかけた。 ウィアにとっては、彼と会うのは彼が迎えと共に馬車で去ってから以来である。 体の方も気になったし、何よりも、やはりフェゼントを見る彼の様子がどうしても放っておけなかった。表情は殺していたものの、明らかに辛そうに見えたのは気の所為ではないとウィアは思う。 だから。 「おい、シーグル、待てよっ」 馬に乗って歩き出しているシーグルに、ウィアは走りながら大声を掛ける。 幸いな事に、馬を走らせる前にシーグルはその声に気付き、彼は急いで馬を止めた。 「ウィア、何故?」 「なぁ、話があるんだ、ちょっと付き合ってくれよ」 シーグルはすぐに返事をしてこない。彼は何か考え込んでいるようだった。 だからウィアは、こういう時は、彼のその生真面目で律儀な性格を利用する事にした。 「あん時ぶりなんだぞっ。こっちに心配掛けたんだから、あの後の事後報告くらいするのが道理だろ?」 それはウィアの予想通り、効果は十分にあったらしい。 シーグルは少し間をあけてから、諦めたように馬から下りた。 ウィアは小さな勝利に笑みを浮かべた。 月の猫亭は、まだ日が高いこの時間は満席という事はなく、それでも半数くらいのテーブルは埋まっていて、相変わらずの繁盛ぶりをうかがわせていた。 「あらウィア」 いつも通り声を掛けてこようとしたメリは、ウィアが連れている人物を見て黙り込んだ。ウィアも彼女の視線の先に気付いて、その気持ちをすぐに察した。シーグルの姿は、どう見てもこんな庶民向け酒場にくるような人物には見えない事は確実だ。 「ちょっと大切な話があってさ、出来ればあんま他の連中に声聞こえないような席がいいんだけど」 目が会った後、軽く会釈を返したシーグルに見とれていたメリは、じれたウィアがわざとらしく咳払いをした事で我に返った。 「え? あ、あぁ、だったら向こうに敷居のある席があるから……この時間なら空いてるから使って大丈夫……よ」 頬を少し赤くして、らしくなく落ち着かない様子で言う姿は、ウィアが始めてみた彼女だった。 メリもやはり女性だったというところか、などとしみじみ思いながら、言われた通りの敷居に区切られた席へ向かう。 「とりあえず注文、と。麦酒、でいいかな?」 「俺は水でいい」 ウィアは最初、それがシーグルの生真面目さから出た言葉だと思った。 まだ明るいこんな時間から酒を入れるのは、この真面目な騎士様は許せないのかと。もしくは、これから話をするのに酒など入れたくないのかと。 だが、バツが悪そうにウィアが笑顔を引き攣らせたのを見て、シーグルがそれに付け足す。 「酒は飲めないんだ、全く。だから水でいい」 ウィアはその台詞に一瞬固まり、それから唐突に吹き出すと、肩を揺らして笑い出した。 勿論、それを見てシーグルは僅かに眉を顰める。 少しだけ恥ずかしそうに見えるその様は、なんだか子供っぽくて、それで更にウィアは笑いが抑えられなくなった。 「あー……いやいや、ごめん、そのさ、飲めないのを笑ってるんじゃないんだ。うん、確かに意外だったけど、そこが可笑しいんじゃなくてさ。……なぁ、シーグル、お前さ、フェズも無茶苦茶酒弱いって知ってたか?」 「そうなのか?」 目を見開いたシーグルの顔は、やはり妙に子供っぽい。 「前にここにフェズ連れてきたんだけどさ、俺知らなくって普通に一緒に麦酒飲んだら、フェズが1杯飲みきる前に酔っ払っちゃって、ぶったおれて寝ちゃったんだよな」 その時の事を思い出すと、ウィアはまた笑みが湧いてしまう。更には、シーグルももしかしたら、飲んだらあんな風に呂律が回らなくなって倒れるのだろうか、などと考えれば、口を押さえても笑いが止められなくて困るしかない。 それでも、シーグルは今は憮然とした表情ではなく、僅かに口元に笑みを浮かべていた。 「やっぱ兄弟だよな。……あぁでもさ、ラークは飲めるんだぜ、これも知らなかったろ?」 シーグルは再び、驚いたように目を丸くする。 そんな表情はこの綺麗で自分に厳しい騎士様のイメージじゃなくて、見ているだけでウィアは楽しくなってくる。 いつも表情を消して張り詰めた空気を纏っている彼だが、こうやって子供のように表情を変える彼もいいと思う。出来ればもっと、こうして柔らかい表情の彼を見たいとウィアは思う。 「そういやさ、お前達の顔。まぁフェズとラークはパーツでちょいちょい似てるんだけどさ、フェズとシーグルもさ、最初は似てないかなって思ったけど、でもたまにお前が柔らかい表情してる時は似てるなって思う事あるんだぜ。逆にラークは顰めたり考え込んだ顔した時がお前と似てたりするかな」 聞いた途端、少し辛そうに目を細めて、それでも唇には僅かに笑みを作るシーグル。笑顔とはいい難いその表情は、けれども嬉しそうに見えた。 だから、そんなシーグルを見ているウィアも嬉しかった。 ――この流れなら、聞いてもいいかな。 穏やかな彼の顔を眺めながら、ウィアは一度深呼吸をして、それから思い切って口を開く。 「なぁ、シーグル、お前さ、フェズの事嫌いか?」 「何故?」 意外だと驚いたというよりも、そんな風に自分が見えたのだろうかとショックを隠し切れない様子で、シーグルの顔色が変わる。 ウィアは、自分でもらしくないと思いながら溜め息をついた。 「嫌いじゃないよな、勿論。フェズも、ラークの事も、お前にとっては大切な兄弟だよな」 「あぁ」 「でも、フェズはお前がそう思ってるとは思ってない」 シーグルは黙る。 目を伏せて、唇を引き結ぶ。 「そう思われても仕方ない。……俺は……」 ウィアは思わす椅子から立ち上がった。 「兄弟と名乗る資格がないって?」 睨み付ければ、シーグルは堪えきれずに目を閉じた。 いつもなら真っ直ぐに向けられる青い瞳は、今はウィアを見ようとはしなかった。 「……あのさ、聞きたいんだけど、なんでシーグルはそう思うんだ? お前がずっと家に帰れなかったのはお前の所為じゃないだろ? 父親や母親が死んだんだってお前の所為じゃないし、そもそもその後、お前は兄弟の為に出来るだけの事をしたんだろ? なんでお前が負い目に感じる必要があるんだよ」 ウィアは自分でも気が短いと思っている。 だから今日は、もう、ストレートに聞きたい事を聞く事に決めていた。 シーグルは瞳を閉じたまま、テーブルに置いた、今日は篭手をつけずグローブだけの手を握り締める。 「父さんが死んだ後……母さんが病気になって、彼らはきっと大変な思いをしていた。俺が、引き下がらずに、お爺様に掛け合って、もっと早く様子を見に行く事が出来たなら、結果は変わっていたかもしれない。フェゼントやラークの負担を減らす事くらいは出来たかもしれない、生きてる間に母さんに……会う事が出来たかもしれない」 シーグルの言い分は、大体はウィアの予想した通りであった。 だからこそ、それに怒りを覚えずにはいられなかった。 「そんなの、後になってから言える事だ。その時その時、お前は精一杯の事をしてたんだろ? 様子を見にいけるような状況だったらお前が行ってない筈ない、それが出来ない状況だったんじゃないのか?」 ウィアは確信している。 きっとシーグルはシルバスピナの家から家族に会う事を禁じられていた。 家族が今どうしているかさえ、聞く事を許されていなかった。 彼の性格ならば、少しでも家族に会わせて貰えるような可能性があったら、行動していない筈がないのだ。 それでもシーグルは自分を責める。それもウィアには分かっていた。 大抵の神官達よりも神官らしく自己犠牲の精神に満ち、倒す化け物にさえ心を痛めるそんな彼なら、自分の非を探してそれを必要以上に責めるのも容易に想像出来る。 「……フェゼントの言う通りなんだ。母さんが死んでからのこのこやってきて、今更兄弟だと名乗る資格なんか、俺には、ない」 自嘲の響きと共に呟くその声に感情はなく、硬く握られている拳だけが彼の心を映して震えていた。 こうして彼は、いつでもずっと辛い事を耐えるのだ。 ウィアは思う。きっと彼は、悪い事は全部自分の所為にして、誰も責めず、ただ自分を責めて――やがて、自分を壊して行く。 そこまで想像して、ウィアはぞくりと身震いをした。 今ならまだ間に合う筈だった。手遅れになる前に、彼を救える筈だった。 「よく考えろよ、シーグル。人間は神様じゃない。こうすれば良かったんだ、って事を全部やっておくなんて不可能だ。失敗もする、後悔もする、そんなの当たり前だ」 「そんな事は分かっている。……だから俺には、今出来る事で償う事しか出来ない」 ウィアはまた溜め息をついた。 きっと、いくら償ったところで、彼に心の平穏は来ない。そもそも償う必要がないのだと言っても、彼を説得出来る自信は全くなかった。……それだけ、彼にとって家族が大切だったのだろう。 ウィアはそれ以上彼に掛ける言葉が思い浮かばなくて、天を仰ぐ。 「シーグルは……どうしても許せないんだな、自分を」 途方に暮れて、ぽつりと呟いたウィアに、シーグルが答える。 「彼らが一番辛い時に、俺は、何も出来なかった。助けられなかったんだ」 「そんなの……」 仕方がない、と言おうとしたウィアは、そこで思いつく。 「ならシーグル、お前はさ、お前が一番辛かった時に助けてくれなかったって、フェズやラークを責めるのか?」 シーグルが閉じていた目を見開く。 思いもしていなかった事を言われて、彼は顔を青ざめさせる。 「まさか、そんな事を……」 「責めないだろ、同じ事だよ。お前、たった一人だけ家族と引き離されてさ、辛くなかったって筈はないよな。まだガキでさ、ある日突然知らない人間ばっかりのところに一人ぼっちでさ。辛いよな、泣いて過ごしたんじゃないのか。その時にお前、家族の事責めたのか? ……いや、本当なら責めたっておかしくないんだ、どうして自分だけって、迎えに来ない親を責めるだろ子供なら――」 自分なら責める。いや、ウィアは、両親が死んだ時、預けられていた親戚の家で、何時までも迎えに来ない親や兄に向かって文句を言いながら泣いたし、実際迎えにきた兄を責めた。今なら兄のあの時の状況を分かるとはいえ、子供のウィアにはそんな事を考えるだけの頭なんてなかった。 「やめてくれ……」 震える声が、ウィアの言葉を止める。 シーグルは最早、感情の抑制が出来ないのか、顔を俯かせて顔を片手で押さえている。 肩を震わせて耐えている様は、泣いているのかもしれない。いやいっそ、泣いてしまえばいいのにとウィアは思う。 辛い事、悲しい事を耐えずに泣いてしまって、誰かの所為にでも出来ていれば、彼はこんなに追い詰められなかった。普通ならそうして自分の心を守るのに、彼は強いからこそそうしなかった。 「いいんだ、俺は。分かっていたんだから……俺は、母さんや兄弟を守りたかったんだ、彼らさえ幸せになれればそれで良かったんだ」 「なんだよ、それ」 自己犠牲の精神にしても行き過ぎている。 何処の殉教者様だと心の中で呟いて、ウィアは行き場のない怒りに机に爪を立てた。 ギ、と耳障りな音が手元で鳴る。 ウィアは口を開きかけて、そしてすぐに閉じて歯を噛み締める。 今ここで、頭ごなしに彼の言葉を否定出来る程、ウィアはシーグルの置かれた状況も、幼い彼がどうしていたのかも知らなかった。 けれども、これではあまりにも彼が救われない、救いようがない。 ウィアの言葉では、彼を救う事は出来ない。 だからせめて、少しでも彼の心が救われる事を祈って、ウィアは彼にどうしても伝えたい言葉だけを言う。 「シーグル、フェズはお前を嫌ってなんかいない、お前に酷い事を言ったってずっと後悔してる。お前が家に運ばれた時はすっごい心配してた」 シーグルが、びくりと肩を震わせる。 顔をあげないまま、掠れた声が小さく聞こえる。 「そんな、筈は、ない」 ウィアは机を叩いた。 「ふざけんなっ、お前、フェズがそんな冷たい人間だと思ってるのかよっ。……いいか、忘れるなよ、お前の事を心配する人がいる、お前の事を大切だって思う人がいる。お前が傷つく事で、心を痛める人がいるんだ、その人の為を思ったら自分はどうでもいいなんて思うんじゃねぇっ」 シーグルは黙ったまま、ウィアに何かを言い返す事はなかった。 強くて、綺麗で、いつでも背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向いていたシーグル。けれど今の彼の背は折れ、顔を下に向けたまま震えている。立派な鎧に包まれたその姿が、ウィアには今、酷く頼りなく見えた。 「なぁ、シーグル。フェズの作った料理は美味かったろ。あれは嫌いなヤツに作る料理じゃない、分かるよな?」 シーグルは俯いたまま、それに返事を返す事はなかった。 ウィアは、固く握り締められて震えているテーブルの上の彼の拳を見て、溜め息をつくしかなかった。 --------------------------------------------- ウィアのお説教タイム。仕事がなくて鍛錬だけの予定だったので、今日のシーグルは少し軽装、という設定。 |