シーグルと両親の過去の事情編 【4】 もう、ずっと前。 けれども、ハッキリと覚えている。 何度も何度も、忘れないように思い出していたから、だから、ハッキリと思い出せる。 温暖な気候の、南の小さな田舎の村。その村外れの小さな小屋のような家で、父親と母親と兄と、いつでも笑って暮らしていた日々の事を。 シーグルの前から彼らの笑顔が消えたのは、シーグルが四歳、弟のラークが生まれて間もない時の事だった。 その日はいつも通り、シーグルは剣の代わりに父親が削って作ってくれた木刀を持って、兄であるフェゼントの手を引っ張りながら、村の子供達が遊んでいる野原へ出かけるところだった。 道に出た子供達の前に、見慣れない、立派な馬車が止まった。 中から出てきたのは、これもやはり立派な甲冑に身を包んだ男。 シーグルは父親と同じ騎士になりたくて、よくせがんで話をして貰っていたから、その男が騎士であるというのはすぐに分かった。 だから最初は、父親の知り合いが尋ねてきたのかと思ったのだ。 「貴方が、シーグル様ですね」 騎士は真っ直ぐにシーグルに向かってくると、そう言ってお辞儀をした。 シーグルは初めて見る本物の甲冑姿の騎士を前にして、暫く見とれて返事が出来なかった。 「シーグル、この人誰?」 傍にいたフェゼントが、シーグルの服を引っ張る。 「お迎えに参りました。今日から貴方はシーグル・アゼル・リア・シルバスピナです」 シーグルには騎士が言っている事が、まるで理解出来なかった。 ただ、伸ばされた手には直感で危険を感じて、急いで逃げようとした。 けれども、騎士の体は大きく、その腕は長く、力強く。小さな子供など、走る前に捕まえられてしまった。 「シーグルっ」 フェゼントの声が聞こえる。 シーグルも騎士の腕の中で必死に暴れた。 「このっ、何するんだよっ、放せっ、放せよっ」 けれども、力強い騎士の腕はびくともしない。 甲冑に包まれたその体を木刀で叩いても、相手は全く痛がらない。 男は馬車に向かって歩き出す。小さな子供でさえ、あれに乗せられたら何処か遠くへ連れて行かれてしまうという事は理解出来た。親も兄弟もいない何処かへ、自分は攫われてしまうのだという事が、急に実感として小さな頭に押し寄せてきた。 じわりと、視界が涙で滲む。 「嫌だっ、嫌っ、いやぁっ」 シーグルは暴れる。それしか出来る事がなかった。 どうにか後ろを振り返れば、涙を浮かべて震えてこちらを見ているフェゼントが見えた。 シーグルは懸命にその兄に向かって手を伸ばす。 「嫌だ、嫌だ、放せっ、兄さん、兄さんー」 いくら叫んでも、いくら暴れても、シーグルの視界の中で兄は離れて行くだけだった。そしてそれは、やがて馬車の扉に遮られる。 シーグルはもう、そこで叫ぶ声を無くした。 馬車がついた先は、大きな屋敷の前だった。 中に入れば、何処も彼処も広くて大きくて、幼いシーグルには絵本に出てくる魔物の城のように見えた。歩き回る人達は連れてきた騎士のように甲冑を着けている強そうな者ばかりで、もう逃げられないという事をシーグルに実感させるだけだった。 広く、長い廊下を絶望に押しつぶされながら歩いて、連れていかれた部屋の中には、見ただけで怖そうな初老の男が待っていた。 「お前がシーグルか」 シーグルには、この男がこの城の主なのだと理解出来た。 「よく聞け、お前は今日からここに住む事になる。私の言う事を聞いて、それに従え、口答えも許さん。ただ私の言う通りにしろ」 これは敵だ、悪いヤツだ。子供のシーグルに分かるのはそれくらいだった。 この男が部下を使って自分を攫ったのだと思った。 「おまえ、誰だよっ、おまえなんか知らないっ、人さらいっ、俺をかえせよっ」 叫んだシーグルが次に気付いた時には、息が出来なくなって、視界がものすごいスピードで移動していた。すぐに背中に衝撃が来て、自分は倒れているのだという事を理解する。 「気が強いのは良いが、育ちの悪さが口に出ているな、まずは話し方から教育し直せ。これでは人前に出せん」 シーグルを殴った、鞘に入ったままの剣を横に置き、椅子に座り込む男。 恭しく頭を下げる、シーグルを連れてきた傍らの騎士。 今になって痛みを訴えてきた腹を押さえながら、シーグルは、自分を見下ろしてくるこの城の主を呆然と見る事しか出来なかった。 けれどもまだ、シーグルは諦めなかった。 きっと、騎士である強い父親が、自分を助けに来てくれると信じていた。 だから、自分も我慢するのだ、と。 母親が子供に聞かせる物語。 強い冒険者の話や、正義の味方が悪い魔物を倒す話が、シーグルは大好きだった。 その中で出てくる悪い魔物や悪魔は、度々人々を騙して攫う。 攫った先ではご馳走が用意され、騙されてそれを食べた人々は悪魔の世界の住人になって、二度と家には帰れなくなるのだ。 だから、シーグルは、何も食べなかった。 母親の話に出ていた通り、豪華な部屋の大きなテーブルに座らされ、目の前には見た事もないご馳走が並べられた。けれど、シーグルは何があってもそれらを食べようとしなかった。 一見、優しそうに見えるテーブルの周りの人々が、食べさせようと甘い言葉を掛けてくる。怒りに任せたこの城の主が、何度もシーグルを殴りつける。体を押さえつけられ、無理矢理口に食べ物を詰め込まれる。 それでも、シーグルは食べなかった。 口の中に入られても吐き出した。 体に力が入らなくなっても、いくら叩かれても、シーグルは絶対に食べなかった。 絶対に迎えにくるだろう父親を、シーグルは信じていたから。 ――そして、父親はやって来た。 やっと迎えに来たのだと、シーグルは一緒に来た母親に抱きついた。 だが、これで悪夢が終わって帰れるのだと思ったシーグルに、母親は泣いて謝るばかりで、父親はただ苦しそうな顔をしているだけで、シーグルに何も言ってはくれなかった。 「母さん、何故泣くの?」 母親はシーグルを強く、強く、抱き締めて、でも泣くだけだった。 「ごめんなさい、シーグル、ごめんなさい……」 理由が分からなくてシーグルが父親を見れば、父親は悪い親玉である城の主と言い合っている最中だった。 「お前達を呼んだのは、その子に自覚させる為だ。親から言われれば、諦めて馬鹿なマネもやめるだろう。折角の銀髪の子供だ、愚かな意地で死なれるのは馬鹿らしい」 「……父上、どうしても認めてはくれないのですか」 「だから認めると言っているだろう。その子を私生児扱いでは困るからな。この子がいるならお前はいらぬ、好きにしろ、そのままその女の性を名乗っていればいい」 「シーグルはまだ四つです、母親と引き離すのは辛い歳です」 「私は十分待った、これ以上は待たぬ」 父親は何を言っているんだろう。 父親はこの悪い男に勝てないのだろうか。 シーグルがどうみても、父親は男に負けて謝っているようにしか見えなかった。 母親はただ泣くだけで、シーグルが欲しい言葉を何もくれない。 もう大丈夫、迎えにきたから――欲しいのはその言葉だけだったのに。 「だからお前に選択肢をやっている。そんなに子供を母親と離したくないのならば、お前が家に戻ればいい。私が欲しいのはこの家を継ぐ者だ。お前か、その子供か、どちらかがいれば他は要らぬ。そういう話だった筈だな」 父親が黙る。 そして、ゆっくりとシーグルに振り返る。 その父親の顔を見て、シーグルは、もう自分は帰れないのだという事を確信した。 「シーグル、すまない」 父親はシーグルを抱き締める。 あの強い父親が、母親と同じく泣いていた。 「すまない、すまない……」 ――何故、父さんも母さんも謝るのだろう? シーグルは理由も分からず、ただ押し寄せてくる不安と予感に涙を流した。 「すまない、許してくれとは言わない……全部私が悪いんだ、恨むなら父さんを恨みなさい」 シーグルには、父親の言いたい事が分からなかった。 どうして彼らが泣いて謝るのかも分からなかった。 ただ分かるのは――自分は、家に帰れないという事だけだった。 「父さん……」 涙に濡れた顔を上げる父親に、シーグルは尋ねる。 「俺は、大きくなったら、父さんみたいな騎士になって、母さんと兄さんとラークを守るって決めたんだ。騎士は大切な人々を守る為に強くなるんだって、父さんは言ってたよね?」 父親は何も言わない。 ただ、涙を流して、歯を噛み締めている。 シーグルは、そんな父親の顔を見た事が無かった。 騎士である父親は、いつでもシーグルの誇りであり、憧れだった。 「父さん……俺は父さんがなんで謝るのか分かんない……だから、一つだけ教えて。俺がここに残れば、みんなを守れるの?」 シーグルが言えば、母親は大声を上げて泣きじゃくる。 父親は顔を強張らせて目を閉じ、そしてハッキリとシーグルに答えた。 「あぁ、そうだ」 シーグルは笑った。 泣く母親と父親の為には笑うしかないと思った。 「だったら俺はここに残るよ。ここの子供になればいいんでしょう? ……みんなを守れるなら、俺は、いいんだ」 シーグルは笑う。 けれども、涙は止まらなかった。 謝る言葉しか言わなかった父親が、母親と共にシーグルを抱き締める。 シーグルは目を閉じて、この感触を忘れないように覚えておこうと思った。 「シーグル……強くなりなさい。お前が強くなったら、いつかまた一緒に暮らせる日がくるかもしれない」 呟かれた最後の父の言葉だけが、幼いシーグルに残された希望の欠片だった。 その後すぐに、シーグルは意識を失った。 何も食べていない体は完全に衰弱し、既にいつ倒れてもおかしくなかった状態を、シーグルは気力だけで持たせていた。けれども、その気力の糸が切れた途端、幼い体は限界を迎え、その後数日間はベッドの中で暮らす事になった。 衰弱が酷かった所為か、ずっと何も食べていなかった事が原因か、今度は自ら食べようと思っても、シーグルは食べる事自体が出来なくなっていた。それでも意地で薬や水だけは飲み込んで、どうにか動けるところまで回復する事は出来た。 けれども、体が回復しても尚、やはりシーグルは食べられなかった。 それでも無理矢理食べようとして飲み込んでは吐きながらも、多少ならば食べられるようにはする事が出来た。とはいっても、やはり成長に必要なだけの量は食べられず、結局は栄養剤やケルンの実といった、栄養だけを摂取する方法でどうにかするしかなかった。 祖父であるシルバスピナ卿はそんなシーグルを明らかに見下し、その細い体を落胆の目で見るようになった。 シーグルが食べられない所為で料理担当の者が何人も辞めさせられ、使用人達はシーグルを我がままな子供と、必要以上に関わろうとしなくなった。 シーグルは一人だった。 広い屋敷の中で、シーグルに優しく接してくれる人間は誰もいなかった。 それでもまだ、シーグルには父親が残してくれた言葉があった。 ある程度年齢が上がってくれば、自分の立場も、父親の言っていた言葉の意味もシーグルには分かってきた。 自分がこの家の跡取として育てられている事、それはつまり将来は自分がこの家の主になるという事だと。そうなれば家族をこの家に呼ぶ事も可能になる、だから父親は強くなれと言ったのだ。 強くなって、祖父に認められて、この家を継げば家族に会える。 だからシーグルは強くなる事だけを目指した。 それだけがたった一つの希望だった。 幸いな事に、騎士になる為、強くなる為ならば、祖父はどんな事でもやらせてくれた。貴族であるのならば、騎士になる事も容易であるという事も分かった。 ただ、どれだけ鍛えても、強くなっても、一度シーグルへの期待を諦めた祖父はずっとシーグルを見下したままだった。血を繋ぐ為の人形でも見る目でただ命令してくるだけだった。だからシーグルは、祖父に認められる為に、貴族としての特権を放棄した条件で騎士になる事を決めた。 それを告げた時、初めて祖父はシーグルの言葉に関心を向け、それが出来たなら褒美をやろうと言ったのだ。 二十歳前にその条件で騎士になれたなら、二十歳までは自由に冒険者として自分の意志で働いて良いと。それは、シーグルにとって、限られた期間とはいえ、初めての自由だった。 --------------------------------------------- シーグルの回想回でした。 |