後悔の剣が断つもの





  【12】




 今までいた建物よりも、造りの雑な、けれども大きさだけはある建物の横を抜けると、広い中庭がある。
 その、中庭が目に入る位置に来た途端、一行の足は止まった。
 ソフィアとシェンは短い悲鳴を上げ、カリンとラダーは険しい表情でその方向を見る。
 鼻に届くのは、血の匂い。
 空気のざわめきは肌にぴりぴりと突き刺さる程だった。
 シーグルがラダーの腕から頭を少し起こして一行が凝視する方向を見れば、そこには確かに、普通の神経の者なら悲鳴を上げるだろう惨状が広がっていた。

 不自然に開けたその場、地面が大きく抉れた中心に、立っているのはただ一人。
 その一人の傍に、蹲っている影がもう一人。
 そして、他には恐らく、無事な者はいない。
 彼らの周りに折り重なる、人間の姿をしたモノ達。
 まだ生きているのだと思われる者は多いが、倒れている者達の誰もが、目の焦点が合わず死者と見分けがつかない不気味な有様だった。
 血の匂いは、彼らから流れ、地面を黒く染めたものが放っている。

 シーグルでさえ、その光景に顔を強張らせて何もいえなかった。
 ソフィアが口を抑えてガタガタ震え出したのを見ると、シーグルを抱えていた男は、彼女からその光景を遮るように立つ位置をずらした。

「お嬢ちゃんは見るもんじゃない」

 その様子を見たカリンは、その先にいく事を止め、その惨状の中心にいる影に声を張り上げた。

「ボス、こちらは完了しました」

 蹲っていた方の影が、それを聞いてゆっくりと立ち上がる。
 少しばかりよろけるその姿を、彼らしくないとシ―グルは思った。
 立ち上がった黒い影は、その黒いマントを揺らしながら、やはりゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。その後ろに付き従う赤い髪の男は、終始彼の主である男を不安そうに見上げていた。
 近づいてくれば、黒い甲冑につつまれたその姿がはっきりと分かる。
 どこか足取りにおぼつかないものを感じるのは気の所為ではなく、歩く姿が不自然に揺れている。
 その姿が普通の声が十分届く程近づいてきたのを見ると、カリンは彼女の主に頭を下げた。

「シーグル様は無事です」

 黒い甲冑は、遠目では分からなかったものの、所々を返り血で汚していた。確実に、この惨状を作り出したのは彼なのだという事だけは分かる。
 セイネリアは、カリンの傍にまでくると足を止めた。

「すまんな、やはり面倒を掛ける事になった」
「いえ、ご無事ならそれだけで問題ありません」

 それから、セイネリアの後ろにいた赤い髪の男が頭を下げる。

「では、俺は先に」
「ああ」

 言ってすぐ、去って行った男はちらとシーグルを見ていったが、その瞳に殺気を感じたのは気の所為だったのか。男はすぐに視界から姿を消し、シーグルがそれを確認する事は出来なかった。

「何処か……怪我を?」
「ない、少し疲れただけだ」

 言いながらセイネリアは兜を脱ぎ、それをカリンに渡す。
 その顔に見た事のない憔悴した様子を見たシーグルは、少なからず驚いた。
 だがすぐに、セイネリアの目が向けられて、シーグルは反射的に目を逸らした。

「シーグル」

 その呼びかけが、自分の方を向けという意味なのだと理解したシーグルは、それでも彼と目を合わせる事を躊躇した。だが、逃げてはいけないのだと自分に言い聞かせ、シーグルは視線をセイネリアに合わせる。
 彼の顔はシーグルが見た事もない程憔悴してはいたが、それでも琥珀の瞳は強く見据えてくる。

 ――何故、彼はここにいるのだろう。

 セイネリアにとってシーグルは、ただの気まぐれで手を出している玩具の筈だった。自分が楽しむ為だけに、勝手にシーグルを犯し、足掻く様子さえ楽しんで嬲る。それに少しばかり気に入っている故の執着がある、その程度の存在の筈だった。……そうでなければならない筈だった。

 ならば何故、ここにいるのだろう。
 あの強い男がこんな様子を見せる危険を冒して、こんな惨状を作り上げて。
 それがまさか自分の為だとは思いたくなくて、だが、それを本当は分かっている自分もいて、シーグルは混乱する頭の中、結論を出さないように思考を止める事しか出来なかった。
 シーグルには、セイネリアが何を考えてここに来たのか理解したくなかった。
 自分が死のうと、ここの連中の人形に成り果てようと、セイネリアには都合の悪い事などなかった筈だった。得物を取られたと嘲笑されるとしたとしても、その程度の不利益が、こんな状況を作り出すリスクに見合う筈がなかった。
 だから、近づいてくるセイネリアの顔を見たまま、シーグルはその得体の知れない現状に恐れるしかない。
 どこか優しいとさえ思える琥珀の瞳に、怯える事しか出来ない。

「シーグル、聞け」

 諭すように静かな声がセイネリアから発せられる。
 シーグルのこの姿を見て彼が怒らない事もおかしかった。本来のセイネリアならば、前の時のように、この無様な姿を嗤い、犯し、壊そうとするのが当然の筈だった。そうでなければ、もうそんな価値もないと放置するか、もしくは殺すか、少なくともこんな穏やかな目を自分に向ける筈などなかった。

 だが、そんなシーグルの混乱も恐れも、セイネリアに言われた言葉で思考から吹き飛ぶ事になる。

「お前が何故そんな奴の言う事を聞いているかは知らんが、そいつはお前の母親を犯した男だ」

 言われた言葉のあまりの内容に、シーグルの頭の中は真白になる。
 噴出した疑問と憤りが急激すぎて、何も考えられずに目を見開いて宙を凝視する。

「な……んだと」

 やっとの事で呟いて、瞳が未だ定まり切らぬまま、シーグルはぎこちなく顔をシェンの方に向けた。
 シェンは怯えた瞳でセイネリアの顔を見て、そしてシーグルを見る。

「本当、なのか?」

 シェンは視線を外して答えた。

「……あぁ、事実だ」

 シーグルの顔に、ゆっくり、ゆっくりと怒りが浮かんでくる。
 呆けていた瞳が憎しみを燃やし、唇が怒りに震える。怒りの余りに涙さえ溢れて、噛み締めた歯がギリと音を鳴らした。

「全部、お前の所為なのか……お前がいなければ、母さんは……」

 シーグルが体を乗り出すのを、ラダーが押さえる。
 怒りと憤りと後悔で頭が赤く染まり、涙の所為でシェンの顔さえぼやけて見えるシーグルは、生まれて初めて、怒りのまま相手に殺意を抱いた。

「殺してやる……」

 どんなに憎いと思っても、どんなに相手に怒りを覚えても、その言葉をシーグルが口にしたのは初めてだった。

「殺してやる、殺してやる……死ねばいい、お前さえいなければ、誰も苦しまずに済んだ、父さんも母さんも、苦しんだまま死なずに済んだんだ」

 シーグルは叫ぶ。
 だが、シェンは顔をシーグルから背けたまま顔を俯かせ、肩だけを僅かに震わせた。

「……私さえいなければ、か」

 吐き捨てるような呟きと共に、彼の肩の震えは更に目に見えて大きくなる。
 それが、彼が笑っている所為だと理解した途端、シェンは顔を上げてシーグルの顔を見る。

「違う、違うな……私さえいなければ、だと、そうじゃぁない」

 何処か焦点が合わぬ目で、シェンは声を張り上げて笑う。

「それは、違う。私がいなければ、ではなく、私達がアルフレートと出会わなければ、だ。アイツにさえ会わなければ、全てうまくいったんだ」

 彼は見開いた、まるで狂人のような虚ろな目で、今度ははっきりとシーグルの顔を見た。
 狂気を孕んだ笑い声と共にシェンが叫ぶ。

「そうだ、全部アルフレートに会ったのが悪かったんだ。アイツにさえ会わなかったら、私はエーレと一緒に幸せになれた筈だったんだ」
「何を、言ってるんだ」

 シーグルはシェンを憎しみを込めて睨む。
 それでもシェンは、叫ぶ事を止めなかった。

「私とエーレは子供の頃から故郷の村でずっと一緒だった。私はエーレを愛してた、彼女だってその筈だった。いつでも私を頼ってくれた彼女は、一緒に首都へ出てきて冒険者になった。……けど、アルフレートに出会ってしまった。御伽噺の王子様のように非の打ち所がないアイツに、彼女が惹かれるのは当然だった。どんなに足掻いたって、私がアイツに勝てる筈なんてなかった、それでも私は諦め切れなかった。……だってな、子供の頃からずっと好きだったんだ、ずっと彼女の為に強くなろうってがんばってきたんだ、それが出会ったばかりのアイツに取られて、それで諦められる筈なんてないだろ?」
「それで、無理矢理犯したのか、クズめ」

 シーグルの頭の上で、吐き捨てるようにラダーが呟く。
 シーグルは呆然とシェンの話を聞く事しか出来なかった。

「あぁ、私はクズだ。それでも、彼女を愛してた、彼女が欲しかった。全てをアルフレートに譲り渡す事なんか出来なくて、アイツがまだ彼女に手を出してないって聞いて、私は彼女を犯した。彼女の純潔をアイツより先に奪ってやれた、私はそれだけで満足して、それで諦める気だったんだ」

 シーグルは歯を噛み締める。

「それが許されると思ってるのか」

 それを受けたシェンの顔から表情が消える。
 更に大きく瞳を開き、唇に壊れた笑みを浮かべて、彼の瞳は何もない宙を見つめる。
 シーグルが先程見た、底の見えない絶望を黒い瞳に映して、彼は呟きか呪詛の言葉を唱えるように言葉を続けた。

「惨めだったのはそれからさ。私が彼女を犯した数日後――彼女と駆け落ちする事を打ち明けに来たアルフレートは、まず私に謝ったんだ。訳が分からなかった、何が起きたんだと思ったよ、そこでアイツの告白を聞いて、気が遠くなった。――アイツはな、最初から彼女を諦める気だったんだ。私が彼女を好きな事を分かっていて、自分は家を継ぐ為に親の決めた相手と結婚しなければならないからって、どんなに求められても、彼女とキスさえしていなかったそうだ。けれど、あんな状態の彼女を突き放す事は出来なかった、だから抱いた、彼女と別れる事は出来なくなった、すまないって、そうアイツは言ったんだ。分かるか、それを聞いた私がどれだけ惨めだったかを。醜い嫉妬で彼女を襲ったりなんかしなければ、彼女は私の手に入ったかもしれないなんて、そんな事後になって分かってもどうしようもないじゃないか」

 シェンはその場に崩れ落ちる。
 縛られたまま、座り込んで、乾いた声で嗤う。
 シーグルはそんな彼を睨みながらも、一方で彼を憐れだと思わずにもいられなかった。それくらい、男の姿は、絶望に打ちひしがれて小さく見えた。

「あぁ、私が全て悪いなんてのは分かっているよ……」

 シェンの声は弱弱しく、独り言を呟くように小さい。

「でも、苦しくて苦しくて、後悔で押しつぶされそうで、そうしたらもう私は彼らを恨む事しか出来なかったんだ。心変わりをしてアルフレートを好きになった彼女を、馬鹿正直でお綺麗なアルフレートを。特に、自分の汚さを感じれば感じる程、アルフレートのどこまでも非の打ちどころのない綺麗さが憎かった……だから、アイツを汚してやりたかった、アイツを地獄に落してやりたかった」

 シーグルの瞳からは涙が零れる。
 それは、先程までの怒りの涙ではなかった。けれども、何の為の涙なのか、シーグル自身分からなかった。

「それでも、芯から憎めればまだ良かった、アルフレートからアイツが彼女から身を引くつもりだったなんて聞かなければ良かった。知らなければまだ幸せな彼らを妬み、憎むだけでいられた。……どんなに彼らを憎んでも、結局は自分が悪いのだと、その所為で全てを壊してしまったのだと、自分の醜さにのたうち回らなくて済んだんだ……」

 ――そうだ、憎めれば良かった。

 憎めれば楽だった、けれども男の話を聞いて、シーグルは男を憐れだと思ってしまった。愛するが故に、憎み、妬み、けれども結局自分の所為で大切な人を傷つけて全てを失った男を、ただ無条件で憎む事はシーグルには出来なかった。彼のした事を考えればいくら憎んでも足りないくらいなのに、けれども、男の狂う程の後悔を思うとその男を憐れだと思わずにいられなかった。

 ならば、この憤りは何処へ行けばいいのだろう、自分の中にある苦しさはどうすれば消えるのか。
 だからシーグルは涙を流すしかなかった。
 打ちひしがれて絶望に泣く男を見て、ただ、責める言葉さえ出ずにシーグルもまた涙を流す事しか出来なかった。







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シェンの告白編。このオッサンがおかしくなった真相はこんな感じでした。
次回はこれにさらに補足+その後……のお話。あまりお待たせせずUP予定。


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