ヤンバルの森に残った開墾集落,消えた開墾集落
ヤンバルの森に残った開墾集落,消えた開墾集落
沖縄県名護市オーシッタイ,
_____________________羽地大川
「この地に電灯がともり電気が通じる」,開墾集落オーシッタイに建つ通電記念碑です。
2002/4/30〜5/3 名護市オーシッタイ,羽地大川
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# 11-1
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ホンダのBAJAという250のオフロードバイクに乗り始めて12年。平成12年8月に高知県を走り,都道府県レベルでは残りは沖縄県だけとなりました。私は沖縄フリークでもあり「いつかは行かねば!」と思い続けていました。そしてその実行は平成14年GWとなりました。
BAJAの航送手段は,行きは東京(有明埠頭)−那覇新港の無人航送,帰りは那覇新港−大阪南港の有人航送(私も一緒の船旅)です。
10泊11日(沖縄県内8泊9日)の社会人としては長い部類のGW休み。2日前の夕方に東京を発ったBAJAを追いかけて飛行機で那覇空港に着いたのは4月27日の午後1時過ぎ。沖縄本島の廃村の情報は持ち合わせていませんでした。
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# 11-2
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1日目はコザ,2日目は那覇。3日目は奥(Oku;沖縄本島最北の集落)泊。名護を過ぎた西海岸(東シナ海側)の大宜味(Oogimi)村,国頭(Kunigami)村には深い山があり,いくつか山間の道を走ったのですが,アタリはありません。最北端の辺土岬に近い宜名真(Ginama)の小学校の近くの畑に,瓦葺の廃屋を発見。しかし,深く草に埋もれており,ハブのこともあり,近付こうという気にはなれません。
4日目(4月30日 火曜日)の宿は名護市郊外東海岸(太平洋側)瀬嵩(Sedake)の民宿「海と風の宿」。途中,楚洲(Sosu),安田(Ada),安波(Aha)といったへき地の集落に立ち寄りましたが,どの集落にも小中学校や共同売店があって,過疎集落という雰囲気はありませんでした。
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# 11-3
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「海と風の宿」への到着は午後4時頃。素泊まり1泊2000円泡盛付き。食事は10kmほど離れた辺野古社交街の「イタリアンレストラン」へ。
辺野古(Henoko)は,海上ヘリポートの建設予定地としても有名ですが,キャンプシュワーブの門前町として,朝鮮戦争からベトナム戦争の頃(昭和30年代)には栄えました。往時は100数軒を越えた辺野古社交街の店は,今は10軒あるかないかです。
そんな名残りがあちこちに残る街並みは映画のセットのようであり,平成12年4月の妻との沖縄旅行でも立ち寄っています。星条旗のウォールペイントが印象的なクラブ跡の写真は,妻に撮ってもらったものです。
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# 11-4
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「海と風の宿」へ戻ったのは午後8時半頃。宿の庭先では,金城繁さんという瀬嵩在住の沖縄三線のお師匠さんが来ていて,宿主の成田正雄さんと旅人3人ほど,それと地元のおばあが,泡盛を飲みながらポロポロ三線を奏でながら,談笑をしています。
沖縄らしい気楽な雰囲気の会で,私も1時間半ほど参加して,その後,宿の本棚を探っていると,「杣山と開墾集落」という名護市在住の方がまとめられた冊子を見つけました。冊子にはヤンバルの廃村寸前から復活した開墾集落(オーシッタイ;大湿帯)と,戦時中に廃村となった開墾集落(羽地大川;Hanedi-Ookawa)についての記事がありました。意外なところでアタリに遭遇しました。
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# 11-5
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冊子の発行者(代表)はオーシッタイ在住の平良良昭さん,羽地大川をはじめとするヤンバルの開墾集落についての詳細な記事をまとめられているのは,名護の名桜大学の中村誠司さん。記事によると,大正中頃のヤンバルには200余りの開墾集落があったのが,現在も行政区(字)を構成しているのが44集落で,残りは廃村になったり近くの字に編入されたりしたそうです。
ここでいう開墾集落とは,主に明治20年代〜30年代に国策的にできた集落です。国(沖縄県)は,明治12年(1879年)の廃藩置県により失職した琉球王府勤務の士族層(人口の2〜3割)の救済のために,ヤンバルでは杣山(そまやま;公有林野)の開墾を推進したのことです。
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# 11-6
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成田さんに冊子について尋ねてみると,オーシッタイ在住の上山和男さんや,中村誠司さんは,名護市民の横のつながりでなじみとのこと。名護市の人口は5万人強なのですが,お話を伺っていると内地(日本本土)の人口5千人の村のような感じがします。
中村さんの記事には,西表島の記録ということで安渓遊地さんの名前が挙がっていて,縁の重なりが感じられます。また,津軽三味線を抱えた旅人(中村友紀さん)は,私のWebの「廃村・過疎集落関連Web集」にリンクしている「筑波大学廃村倶楽部」の管理者さんだったりで,廃村というマイナーなテーマの話が会の中でもまかり通ってしまいました。これも面白い縁の重なりです。
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# 11-7
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翌日(5日目;5月1日 水曜日)は朝10時頃に宿を出て,R.331(東海岸の天仁屋)から山に4kmほど入ったオーシッタイに向かいました。オーシッタイには「しゃし・くまーる」という喫茶店があり,様子を伺うにはちょうど手頃です。
「しゃし・くまーる」のご夫婦(常盤さん)は,静岡県からオーシッタイに来られて,平成8年に喫茶店を開かれたとのこと。小学校は10km離れた西海岸(東シナ海側)の源河(Genga)にあり,クルマでの送り迎えはたいへんとのこと。週末には沖縄観光の方がたくさん来て,その度に山の中にぽつんとある集落や喫茶店のことを尋ねられるそうで,「ガイドさんのようです」との言葉が印象的でした。
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# 11-8
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次に伺ったのが成田さんにご紹介された農園を経営される上山和男さん。奥さん(上山弘子さん)は藍染めをなされていて,東京で展覧会をされることもあるそうです。上山さんご夫妻は,昭和55年に大阪から当時1人の住民(崎山朝吉さん)だけという廃村寸前状態にあったオーシッタイに入植されたとのこと。崎山さんは平成12年に亡くなられて,住まれていた家も取り壊されたとのこと。
上山さんが入植当時は電気が通っていなくて,ランプの暮らしを経験されたそうです。電気は昭和57年に通り,天仁屋側からの集落の入口には電化の記念碑があります。オーシッタイは,沖縄県内では最後に電気が入った集落として有名だそうです。
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# 11-9
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「杣山と開墾集落」の発行者で,果樹園を経営される平良良昭さんにもお会いすることができました。平良さんのオーシッタイへの入植は上山さんと同時期とのこと。冊子は「名護親方塾」という地域活動の一環で作られたもので,活動には多くの住民が参加されたそうです。
さらに「名護親方塾平成8年度研究報告書」という冊子があり,そこには「杣山とオーシッタイ塾」という平良さんがまとめられたオーシッタイの歴史についての記事がありました。平良さんにお願いして,冊子をお借りすることになりましたが,突如の訪問者が冊子をお借りするというのは相当に強引なもので,反省することしきりです。廃村探索には,名刺と「廃村」の冊子は必需品のようです。
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# 11-10
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「杣山とオーシッタイ塾」によると,平成8年のオーシッタイの戸数は15戸,人口は30数名。開墾のはじまりは明治27年(1894年)。戦前の最盛期の戸数は18戸(人口は不明)。炭焼き,染料の採取,茶の栽培などの産業があり,お茶は沖縄では名産地で,製茶工場もあったとのこと。林業の開墾集落ということで,御嶽(うたき;沖縄の集落の聖地)は内地の大山祇(Ooyamazumi)神社にちなんだものとのこと。
戦後は,立地条件の悪さから過疎化の波に洗われて,昭和45年には人口1名(崎山さん)のみという状態になったとのこと。上山さんや平良さんと崎山さんの縁がなかったら,オーシッタイは廃村になっていたことでしょう。
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# 11-11
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この日の泊まりは西海岸の海を隔てた伊江島です。6日目は伊江島をバイクで巡って,対岸の今帰仁(Nakijin)泊。伊江島は沖縄戦の激戦地で,往時の島の建物で唯一残ったといわれる公共質屋跡の廃墟には,広島の原爆ドームのような凄みが感じられました。
7日目(5月3日 金曜日)は,成田さんの紹介と連絡を取った上で,名護のパイナップルパーク近くの名桜大学に中村誠司さんを訪ねました。目的は「杣山と開墾集落」に資料として記されていた「羽地大川−山の生活誌」という冊子を見せていただき,羽地大川集落跡のお話を伺うことです。羽地大川には分教場もあったとのことで,興味深々です。
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# 11-12
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中村先生は沖縄の市町村史づくり,字誌(あざし)づくりに深く係わられており,特に字誌づくりは,住民により行われることで,地域の再発見と評価,さらに地域づくりへとつながるすぐれた文化活動して捉えられています。
「羽地大川−山の生活誌」は,羽地大川集落跡にダム(羽地ダム)ができ水没するということで,ダム事務所の国庫補助があってまとめられたという冊子で,出身の方の村の暮らしの語りや,屋敷跡や道の跡などの記録が,詳細にまとめられていました。
中村先生を訪ねて知ったことなのですが,羽地大川集落跡は,平成13年にダムが完成してその中心部は水没してしまったとのことです。
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# 11-13
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「羽地大川−山の生活誌」によると,「羽地大川」とは特定の集落名ではなく羽地大川という川の上流域の小開墾集落の総称で,主な入植時期は明治20年代〜30年代。最盛期には200戸を超える戸数があり,炭焼きなどの山仕事,イモ作り,米作りなどの農作業を生業とした暮らしがなされていたが,沖縄戦時の昭和20年に米軍の掃討作戦により屋敷が焼き払われ,その後住民は戻らなかったとのこと。
冊子には羽地小学校大川分教場跡記念碑(所在は羽地大川集落群の中心集落 タガラ)の写真があったのですが,今はダムができて,移転はせずにダム湖に沈められたとのこと。それは碑に宿った魂は動かさないほうがよいという判断からだそうです。
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# 11-14
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楚洲,安田,安波といったへき地の集落に過疎の匂いがなかったことを中村先生に話すと,沖縄本島の伝統的集落には千年を超すような歴史で氏神が御嶽に奉られているので,簡単には廃村にはならないとのこと。歴史のない開墾集落は,その点からも廃村になりやすいわけです。なお,内地では,明治維新期に集落の氏神の歴史が統廃合により断絶されており,その意識には大きな違いがあるとのことです。
名桜大学から羽地大川は近くなので,続いて今の羽地大川の様子を見に行きました。憲法記念日の祝日ということで,羽地ダムでは「鯉のぼり祭り」が行われており,その活気と羽地大川集落跡の話との間には,面白いぐらいのギャップがありました。
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# 11-15
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羽地ダムでは特に探索することなしでオーシッタイに戻り,平良さんに名刺を添えて冊子をお返ししてお礼をし,上山さんにご挨拶をして,「しゃし・くまーる」で一服しました。さらに「海と風の宿」の成田さんに冊子をお返しして,廃村探索の成果のお話をしました。
この日は,その後辺野古を再訪して,キャンプハンセンの門前町の金武町社交街を経由してコザに戻り,4年ぶりに民宿「嘉陽荘」に泊まりました。宿で「面白い!」との情報を得た銭湯「中乃湯」に行き,200円払って中に入ると,セメント作りの湯船が出迎えてくれました。「中乃湯」では,一緒に入っていた地元の方との会話から,「長男は早く子供を作らんといかんよ」という名台詞をいただきました。
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# 11-16
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5月中旬に,廃墟フリークOFF仲間の田端宏章さん編集,大沼ショージさん写真の銭湯写真集が出版されると耳にしていたのですが,「中乃湯」は写真集でも大きく取り上げていました。田端さん曰く「日本でも5本の指に入る名銭湯」とのことで,これも嬉しい偶然です。
コザでは1日目に出会った大阪出身の焼鳥屋のケンタさんに,翌日(8日日)の那覇では2日目に出会った山羊料理屋「さかえ」の常連の藤本さんに,それぞれ再会しました。とても美味しいお酒が続いたのですが,かなり飲み過ぎとなったようです。
最終日(9日目),大阪南港行きのフェリーの那覇新港発は午後4時半。フェリーの中では,ビールも飲まずに寝てばかりしていました。
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