いにしえの賀状がつなぐ人の縁
いにしえの賀状がつなぐ人の縁
東京都奥多摩町越沢,天目指,峰
廃村 峰の「タイムマシンの廃屋」からいただいた戦前の賀状です。
2002/11/04 奥多摩町越沢,天目指,峰
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# 15-1
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東京・奥多摩(棚沢)の廃村 峰は,明治期に多摩屈指の大富豪 福島文長(峰の大尽)を輩出したこと,明治32年(1899年)の夏に民俗学の大家 柳田国男が福島文長の屋敷を訪ねたことから,民俗学の場で取り上げられることが多く,「伝説の廃村」といわれる所以です。
しかし,私にとっての「伝説の廃村」は,広大な福島文長の屋敷跡ではなく,村の中心(日天神社,にってんさま)から少し離れた「タイムマシンの廃屋」こと加藤良光さんの住居跡にあります。この廃屋に過去をさかのぼるタイムマシンのような風情を感じ,ここで拾った戦前の賀状は,その後の廃村探索のシンボル的な存在となり,「廃村と過疎の風景」の冊子の表紙にも使わせていただきました。
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# 15-2
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廃屋からものを持ち出すことはマナー違反であり,この賀状をどのように扱えばよいか,いろいろ悩みました。いちばん考えやすいのは,峰を再訪したときにそっと元の場所に戻すことですが,いつか朽ちてしまうであろう廃屋に戻すことも得策とは思えません。
複雑な思いがこもった賀状を携えて,なじみの神楽坂のレストラン「ラ・ペ」のチーフと一緒に三たび峰を訪ねたのは平成14年5月19日。このとき,鳩ノ巣駅前の駐在さんと峰のお話をする機会があり,駐在さんから「良光さんは健在で,白丸の老人ホームに居られる」というお話を伺いました。このとき「是非ご挨拶に伺おう!」と思いつき,その機会に「賀状をいただきたい」とお願いしようとなりました。
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# 15-3
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再び賀状を携えて,四たびの峰と,白丸の加藤さんを訪ねることになったのは11月4日の月曜日(祝日)。すっきりした秋晴れの日でした。電車に乗っての日帰り探索は,「青梅の周辺」Webの管理者で奥多摩の民俗史に詳しい伊藤広光さんと一緒に出かけました。
良光さんのお名前と,奥多摩に峰のほかにもいくつかの山深い廃村があることは,伊藤さんとのやり取りから知りました。今回はあわせて鳩ノ巣駅南側の越沢(Koizawa)と天目指(Amamezasu)を訪ねました。
越沢,天目指については,「奥多摩の廃村 越沢等の巡検報告」(岩田基嗣さん,伊奈石会会誌 伊奈石)に詳細がまとめられています。
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# 15-4
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JR奥多摩駅から海沢(越沢の親集落)を経由して越沢へ向かう道を歩き出したのは午前9時25分。奥多摩は史跡の多い地で,目の前にどっしり構える城山(標高760m)は戦国時代には狼煙(のろし)場に使われていたとのこと。海沢から越沢へ向かう,往時の村人の生活道の小楢峠を越える山道は,たどるのが難しいくらい荒れていました。
越沢到着は11時頃。鳩ノ巣駅から大楢峠経由御岳山に向かう登山道の途中にあり,道は整備されており,何人かのハイカーと出会いました。道沿いに見付けた江戸期に作られた供養塔や地蔵菩薩は,この地の歴史を静かに語りかけています。
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# 15-5
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「奥多摩学再考」(小岩清水さん,専修大付属高校紀要)によると,昭和30年頃の越沢の戸数は11戸。姓は小澤姓と小林姓で,電気は昭和35年頃に引かれたが,その後10年の間に離村が進み,全戸が山を下りられたとのこと。
集落跡には,家屋を潰した残材や鍋,茶碗などの生活用具が散らばっていました。屋敷跡の裏にあるコンクリート製の倉は,往時は味噌倉として使われていたとのこと。脇道に入ると,廃材を使って建て直されたらしい小屋と神社があり,少し下った別の脇道に入ると古くて大きい家屋がありました。家屋には飼われているらしいイヌが居て,今も作業場などとして使われている様子です。
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# 15-6
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越沢を後にして15分ほど山を下り,旧道を入ったところに天目指はありました。石垣に整った家屋が2軒。斜面には畑が広がり,家主の方が定期的に手入れされていることが伺えます。
「越沢等の巡検報告」によると,昭和30年頃の天目指の戸数は3戸(すべて加藤姓)。「多摩史談」(菊地山哉さん)からの引用として「三戸,五戸の小さな集落が日本で一番多く在るのは奥多摩である」との記述があり,山深い地に小規模な集落が300年も続いたというのは,全国的にも珍しいのかもしれません。私の手持ちの古地図には,峰,越沢はあっても天目指は見当たりませんでした。
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# 15-7
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ロッククライミングで有名な越沢バットレスを右手に見ながら山道を下り,鳩ノ巣駅(棚沢)に到着したのは午後1時15分。駅前のそば屋で昼食がてらおばさんに加藤さんについて尋ねてみると,「良光さんは老人ホームに入ってから肌が白くなってきれいになった」とのこと。
峰には,伊藤さんのクルマで峠の祠(大根の山の神)まで登るルートで行きました。この道は平成14年になってできたもので,5月に駐車場を見たときは「どこから登ってくる道だろう?」と思ったのですが,鳩ノ巣駅西側の川沿いの道を遡っていくと15分ほどで到着しました。
「文長屋敷跡まで直接行く古道がある」との伊藤さんのお話に従って10分ほど歩くと,屋敷跡を見下ろす位置に到達しました。
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# 15-8
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「柳田国男と奥多摩の峰集落」(牛島盛光さん,東京都教育委員会)には,明治38年撮影の福島文長一家,昭和6年の峰の集落全景,昭和30年の萱葺き屋根の家の写真や,地図,家屋配置図などがあり,室町期(1420年)から始まるという峰の歴史をひも解くには最適です。
峰の親集落は棚沢で,明治維新の頃には「峰七軒」と呼ばれる7戸の家があり,うち6戸は福島姓,1戸が加藤姓とのこと。
昭和6年頃には戸数は14戸に増え,電気が引かれた昭和31年頃に最盛期を迎えたが,進学,就職,日用品の購入など数々の事情の悪さから離村が続き,昭和47年の福島儀左衛門の下山を最後にその歴史は閉ざされたとのこと。
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# 15-9
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文長屋敷跡,日天様をさらりと見て,訪ねた「タイムマシンの廃屋」は,見るたびに隙間が増えて明るくなってきています。向かって右側にあるつっかえ棒は,「廃屋が少しでも長くこのまま残ってほしい」という多くの人の気持ちの象徴のように感じられました。
加藤さんとの面会時間の約束のため,急ぎ足で峰を後にして,白丸の老人ホーム「グリーンウッド奥多摩」に到着したのは3時10分。私も伊藤さんも老人ホームに足を運ぶのは今回が初めてです。
職員さんにぎこちないご挨拶をして,案内された喫茶室でしばし待つと,ヘルパーの方と一緒に小柄な加藤良光さんが来てくれました。
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# 15-10
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「峰のことを調べています」とご挨拶をすると,加藤さんは見知らぬ二人に1時間半もの間,いろいろなお話を聞かせてくれました。
加藤良光さんは大正9年(1920年)生まれの82歳。偶然にも午前中に行った越沢生まれで,旧姓は小澤姓とのこと。昭和22年(27歳の頃)に婿として峰に来られたそうで,賀状の宛名 加藤頼作さんは義父になるとのこと。お子さんは4人居るが,奥さんは若くして亡くなられたとのこと。峰からの下山は昭和47年(52歳の頃),しばらくは棚沢で暮らされていたが,体調を悪くされて平成7年に老人ホームに入られたとのこと。
峰よりも生まれ故郷である越沢のことをお話をされているときのほうが生き生きされていたことが印象に残りました。
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# 15-11
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私と伊藤さんはそれぞれに加藤さんと記念写真を撮って,冊子や資料を差し上げて,私は念願が叶って加藤さんから賀状をいただくことの承諾をいただきました。しかし,また新たに複雑な気持ちになりました。
加藤さんにとって峰での暮らしは遠い昔のことであり,そのため,加藤さんの家は往時のままに朽ち果てて,今の「タイムマシンの廃屋」の風情があるのです。それは,意志にかかわらない偶然の積重ねからできているものなのだという実感が残りました。
賀状が私と加藤さんを結び付けてくれたことは,とても貴重な偶然だったように思えてなりません。
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# 15-12
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廃村探索でその風景を見て雰囲気を味わい,人との出会いを喜ぶことにおいて,コレクターとなる必然性はありません。今後もし廃屋で魅力的な遺品に出会っても,写真で記録できたら十分満足することでしょう。
老人ホームを後にしてからは,伊藤さんにJR河辺駅まで送ってもらい,駅前の居酒屋で乾杯しました。振り返れば長い一日でした。
この賀状は,その後3週間足らずで旅先での車上荒らしという予期せぬ出来事により手元から失われました。数奇な運命をたどった賀状の結末は,やはり数奇なものでした。
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