全国で3校残った冬季分校を訪ねる旅

全国で3校残った冬季分校を訪ねる旅 山形県最上町野頭,横川,上鵜杉,
______________________________________新庄市二枚橋,秋田県鹿角市田代


私が初めて訪ねた現役の冬季分校 山形県の野頭冬季分校です。結果,3校とも訪ねることができました。



2004/1/26〜28 最上町野頭,横川,上鵜杉,新庄市二枚橋,鹿角市田代

# 25-1
皆さんは「冬季分校」ってご存知でしょうか? といってもご存知という方は,めったにいないかもしれません。
冬季分校とは,冬の積雪期に通学が困難になる地域において開校される季節分校のことで,主に12月から3月まで開校されます。
つまり,冬の間だけ先生が地域に来てくれるというシステムで,地域近くの農家の方が教壇に立たれるというケースが多いようです。
冬の積雪期の通学の困難さを解消する手段としては,他に冬季寄宿舎があります。冬季分校には学力低下の問題もあるとのことですが,寄宿舎は親元を離れなければならず,冬季分校のほうがやさしいシステムといえます。

# 25-2
私は冬季分校の存在を,平成11年に「秋田・消えた村の記録」(佐藤晃之輔さん著,無明舎刊)を読んで初めて知りました。
この年の10月のツーリングで,秋田県大館市の合津という廃村を訪ねたとき,合津冬季分校跡の建物を見つけることができました。
また,佐藤さんを訪ねたときにいただいた冊子「高村分校の軌跡」から,先生が宿直室に泊まって過ごす冬季分校の様子を思い浮かべることができました(佐藤さんは昭和37年から43年までの7年間,秋田県東由利町の高村冬季分校に先生として勤められました)。
大阪で生まれ育った私には,冬季分校は想像のできない世界であり,その小ささ,アットホームな感じに強い関心を持ちました。

# 25-3
その後,佐藤さんとのやり取りから,秋田県に唯一残る冬季分校(田代冬季分校)が鹿角市にあるということがわかりました。以来,冬季分校は何かの機会に訪ねてみたいと思い続けて,調査を続けていました。
「へき地学校名簿」(教育設備助成会刊)に掲載された昭和34年の冬季分校の数は,全国16県で557校(小学校426,中学校131)にも及び,その双璧は,新潟県の160校(小学校131,中学校29),山形県の120校(小学校100,中学校20)でした。
さらに「へき地学校便覧 2001年版」(全国へき地教育研究連盟刊)から,山形県に現役校が2校あるらしいことがわかりました。

# 25-4
ここまで調べると,「今,全国ではどうなんだろう?」と発展するのは自然な流れでして,心当たりの教育委員会・教育庁に尋ねるなどしたところ,最大数を誇った新潟県には8校が休校という形で残っているものの,再開する見込みはないことがわかり,他の府県でも開校されていないことがわかりました。つまり昭和34年に557校あった冬季分校は,平成15年ではわずか3校になってしまったわけです。
冬季分校がなくなった理由としては,山間部における人口の減少(子供の減少)が顕著なこと,学校の合理化(大人数化)により統廃合されたこと,道路環境が整備されたことなどが挙げられ,平成2年にはすでに29校にまで減少していたようです。

# 25-5
山形県の2校は,最上町の野頭冬季分校と新庄市の二枚橋冬季分校です。この2校を訪ねるにあたっては,1か月強前から各本校の教頭先生に手紙で「訪問したい」との旨を連絡して承諾を受け,日程の調整をしました。秋田県の田代冬季分校については,「佐藤さんのご都合があえば」と考えて,直接学校には連絡をしませんでした。
「どうせなら子供たちにも親しんでもらおう!」と,旅には三線(沖縄三味線)も持っていくことになりました。学校を訪ねるということで,職場では土日を挟んで月曜日から金曜日までの5日間年次休暇を取得して,9連休を取らせてもらいました。

# 25-6
出発は1月25日日曜日。めざす山形県の2校の冬季分校は,ともに山形新幹線の終着駅の新庄からクルマなら1時間以内の距離にあります。しかし,ゆっくり雪国に近付いていこうと,大宮からは上越新幹線に乗り,新潟−坂町−米沢−新庄とローカル列車を乗り継ぎました。
真新しい新庄駅(新幹線開通は平成11年)到着は午後6時少し前。温度は−1℃ぐらいで,天気は晴れたり曇ったり雪が降ったり。宿は駅から1分のビジネスホテル「やまき」。あけぼの町の焼鳥屋「鳥吉」では,三線を弾いてノってしまって,ちょっと飲み過ぎました。
翌1月26日月曜日(旅2日目)の起床は6時半。幸いJR陸羽東線の列車で車窓の雪景色を見ているうちに,しゃんとした頭になりました。

雪の中,JR陸羽東線 大堀駅に到着


# 25-7
最初の目標の野頭冬季分校の本校(大堀小学校)は,新庄から列車で約30分の大堀駅(無人駅)の近くにあります。ひとつ手前の鵜杉駅からは,たくさんの小学生が乗ってきて,私と一緒に大堀駅で降りていきました。まずは駅近くのコンビニで朝食を調達。
大堀小学校を訪ねたのは朝9時。校長室に案内されて,ひととき校長先生,教頭先生とお話しました。児童数162名で,うち野頭冬季分校は先生1人に児童2人。本校から4kmほど離れた田園地帯にあり,3年生からは冬も本校へ歩いて通います。
最上町は2月に行われる国体のスキーの会場になるなど,スキーが盛んで,野頭分校からは2人のオリンピック選手が輩出されたとのこと。

# 25-8
大堀小学校には,昭和34年の資料では野頭冬季分校のほかに2校の冬季分校(上鵜杉冬季分校,横川冬季分校)があり,野頭分校が今も存続する理由を尋ねたところ,「地域の強い要望」という答えを得ました。冬季分校の存在は,地域の核として重要な役割を果たしているのですね。校長室には,昨年11月の冬季分校開校式の記事(山形新聞)が貼ってあったので,お願いしてコピーをいただきました。
待望の野頭冬季分校には,教頭先生のクルマで送っていただき足を運ぶことになりました。分校では,笠原先生と2年生の女の子(未来さん),1年生の男の子(はやてくん)が迎えてくれて,まず,国語(かるた作り)と体育(スキー)の授業の様子を見せてもらいました。

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雪に埋もれた野頭冬季分校の校舎                          スキーの授業をする先生と子供たち


# 25-9
野頭冬季分校は大正元年創設で,昭和34年の規模は先生1人に児童29人。今の建物は昭和43年に建ったもので,少し前まで公民館と兼用でした。笠原先生は最上町在住の農家の方で,上鵜杉冬季分校,横川冬季分校を含めて,30数年冬季分校の先生を務められたとのこと。
小さな冬季分校なので,静かに過ごされているのかと思ったのですが,未来さん,はやてくんは休み時間も空き教室でボール遊びをするなど,とても活発で賑やかでした。このアットホームな分校の様子はNHKのドキュメンタリーでも取り上げられたとのこと。昼食は,地域の方からの差し入れのカレーをご馳走になりました。

野頭冬季分校の教室で記念写真を撮る

# 25-10
昼食の後は,懸案の三線です。まず「涙そうそう」や「花」を弾いたのですが,一緒に何かできないかとなりました。
ちょうど1年生のはやてくんが練習している「こいぬのマーチ」が三線でも弾けそうだったので,即興で未来さん,はやてくんのピアニカと三線で合奏することになりました。思いがけず,とても良い感じのノリになりました。
笠原先生,未来さん,はやてくんに見送られて,野頭冬季分校を出発したのは午後1時半頃。時折陽が差す雪空の下,横川冬季分校跡と上鵜杉冬季分校跡を歩いて目指しました。

# 25-11
野頭から横川までは3kmほどながら,除雪されていない道が1kmほどあり,ガムテープを巻いたスノトレで膝まで雪に埋もれながら歩きました。くしくも除雪されている道に着いたとたん横なぐりの吹雪となり,顔や首が痛くなりました。
横川の集落では,軒先に大根を干している家が目立ちます。横川冬季分校跡の建物は,屋根にたくさんの雪を乗せながらも残っていました。横川冬季分校の昭和34年の規模は先生1人に児童11人。閉校は昭和58年。道を尋ねたおじさんは,閉校の頃「今は小人数の分校の時代ではない」と,本校への統廃合に賛成したと話してくれました。

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       横川・軒先に大根を干している家                    たくさんの雪を屋根に乗せた横川冬季分校跡の建物

# 25-12
地図には横川から上鵜杉までの道も記されているのですが,雪のため判別できません。一度国道(R.47)に出る遠回りの道を歩いていくと,途中,大堀小学校からのスクールバスとすれ違いました。
無人のJR鵜杉駅で一服して,たどった上鵜杉冬季分校跡は,駅から2kmほどの集落のはずれにありました。上鵜杉冬季分校の昭和34年の規模は先生1人に児童25人。「午後の校庭−山形・消えゆく分校を訪ねて」(松田淳一さん著,無明舎刊)によると,閉校は平成7年で,校舎は平成8年に解体されたとのこと。分校跡には「午後の校庭」に記された通り,サクラの木が5本残っていました。

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       サクラの木が残る上鵜杉冬季分校跡                 上鵜杉冬季分校跡の校舎(平成7年10月,松田淳一さん提供)

# 25-13
近くにカンジキを履いたおじさんが居たので,分校について尋ねたところ,「分校がある頃は,子供たちの賑やかな声があって良かったなあ」との声をいただきました。私もあちこちの学校跡を見て来ましたが,このときは何よりも子供たちの賑やかな声がないことの物足りなさを強く感じました。子供たちの声は,集落を活気付かせるのに大きな働きを持つに違いありません。
鵜杉駅に戻ったのは,夜の帳が下りはじめた午後5時頃。次の新庄行までは1時間半以上待ちました。雪の中歩いた距離はおよそ9km。昨夜は「また来るね!」と出た「鳥吉」でしたが,繰り出す気にはなれず,ビアテイスト飲料でごまかす休肝日となりました。

# 25-14
翌1月27日火曜日(旅3日目)も起床は6時半。二枚橋冬季分校の本校(萩野小学校)がある萩野までは,通じるバスが見当たらず,国道(R.13)を走る金山行きのバスに乗り,途中泉田十字路から4kmほど歩いて行くことになりました。
泉田十字路はちょっとした市街地で,雪が中途半端に融けてすごく歩きづらかったです。しかし,萩野中学校を過ぎたあたりから車道が真っ白になり,クルマの数も減ったので,気持ち良く歩けるようになりました。萩野までの道程は大きな農協の倉庫もある広々とした田園地帯。萩野の1kmほど手前の吉沢からは,小学生が通学するらしく,防雪壁沿いの歩道も綺麗に雪かきされていました。

泉田−萩野間,歩いた道沿いの大きな農協の倉庫

# 25-15
萩野小学校到着は朝9時。校長室に案内されて,まず校長先生とお話をしました。児童数107名で,うち二枚橋冬季分校は先生1人に児童2人。ほか通年の分校(土内分校,先生1人,児童6人)があるのですが,3月に閉校するとのこと。
冬季分校は本校から3kmほど離れた田園地帯にあり,4年生からは冬も本校へ歩いて通います。三線を弾くことになり,「涙そうそう」を歌うと,校長先生から「涙は山形の方言でも"なだ"というよ」と教えていただきました。
冬季分校が今も存続する理由は,やはり「地域の強い要望」で,当面統廃合の動きはないとのことでした。

# 25-16
二枚橋冬季分校にも,後で加わられた教頭先生のクルマで送っていただきました。分校では,斉藤先生と3年生の男の子(信也くん),1年生の女の子(まなさん)が迎えてくれたのですが,先生が「埼玉からお客さんが楽器を持ってやってくる」と事前に準備をしてくれていて,信也くん,まなさんはご挨拶の文章を考えてくれていました。
二枚橋冬季分校の昭和34年の規模は先生1人に児童19人で,現在の建物は公民館と兼用です。斉藤先生も農家の方で,30年近く冬季分校の先生を務められているとのこと。また,昨年は信也くんと2人の学校となって,TVの取材もあったとのこと。

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  公民館兼用の二枚橋冬季分校の校舎                      二枚橋冬季分校の教室で記念写真を撮る

# 25-17
冬季分校では算数の授業を見せていただいた後,音楽の授業の中で,「涙そうそう」を弾かせてもらって,先生に「こいぬのマーチ」の合奏を提案すると,信也くんが電子ピアノ,まなさんがピアニカ,先生が笛,私が三線と,とても賑やかに合奏することができました。
控え室で先生とお話をしている間に,まなさんは似顔絵と手紙をまとめてくれました。どうもありがとう。
昼食は本校と同じく給食で,「たくさんあるから」とお裾分けをいただきました。斉藤先生,信也くん,まなさんに見送られて,二枚橋冬季分校を出発したのは12時40分頃。二枚橋からは,金山−新庄間のバスが走る国道の最寄りの赤坂まで約2km歩きました。

# 25-18
2泊3日をじっくり過ごした新庄からの出発は,陸羽西線午後2時20分発の酒田行。2日前に初めて足を運んだ新庄ですが,出発時には愛着が感じられました。機会があったら,また訪ねたいものです。
新庄−酒田−秋田−八郎潟とローカル列車を乗り継ぎ,八郎潟駅で佐藤晃之輔さんと合流したのは午後6時頃。大潟村の佐藤さん宅は,この3年,毎冬ごとに訪ねています。佐藤さんに山形の冬季分校についてお話しすると,田園地帯の集落に残っているのが意外な様子でした。お酒がほどよく回ってからは,冬季分校巡りの勢いで,佐藤さんの奥さんの大正琴と三線で「こいぬのマーチ」を合奏しました。

# 25-19
翌1月28日水曜日(旅4日目)の起床は7時少し過ぎ。佐藤さんは田代冬季分校に連絡を取ってくれていて,佐藤さんのクルマで一緒に訪ねました。「秋田県は佐藤さんのテリトリー」と気軽に考えていたのですが,大潟村から大館市経由,鹿角市田代までは約130km,積雪期ではクルマでも3時間強もの距離があり,申し訳ないことをしてしまいました。
本校(中滝小学校)のある中滝から田代までは約9km。中滝までは鹿角花輪−十和田湖間のバスが通じる国道(R.103)ですが,その先はクルマでなければ行くことはできなかったことでしょう。

木造二階建ての田代冬季分校の校舎

# 25-20
田代冬季分校到着は12時半頃。先生は2人(30歳と23歳の若い方)で児童は6人(1年生から6年生まで)ですが,この日はスキー教室のため全員留守で,用務員のおばさんが迎えてくれました。山深い高原にあるため,先生方は宿直室で宿泊されて勤められるようです。また,中学生は,冬季は約28km離れた十和田中学校の寄宿舎で過ごすとのこと。
田代は戦後にできた酪農の開拓集落で,田代冬季分校の創設は昭和25年。その後,中学校を併設した常設分校となり,昭和34年の規模は先生2人に児童42人(往時のへき地等級は最高級の5級)。現在の校舎は昭和39年建立で,昭和48年からは冬季分校となりました。

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 教室には「開拓精神」の書き物があった        廊下には「酪農家の一日」の表があった

# 25-21
用務員のおばさんに案内していただいた分校では,教室や廊下に飾られた「開拓精神」の文字や,子供たちが模造紙に書いた牛の絵や「酪農家の一日」の表が印象的でした。外は雪模様で,分校に滞在した1時間強の間に,クルマの屋根には雪が10cm近く積もっていました。
JR大館駅まで佐藤さんに送っていただき,青森行のローカル列車が大館を出発したのは午後3時39分。田代冬季分校の現在のへき地等級がわからなくて,気になったので,始発列車が出る碇ヶ関で途中下車して,秋田県教育庁に問い合わせたところ,4級との答えをいただきました。あわせて山形県教育庁に野頭冬季分校,二枚橋冬季分校のへき地等級を問い合わせたところ,ともに1級とのことでした。

夕闇が迫ったJR奥羽本線 碇ヶ関駅

# 25-22
青森駅到着は6時少し前。青森市も大潟村と同じくちょうど1年ぶり。宿泊は駅から歩いて3分ほどの「いろは旅館」。
賑やかに過ごしたい気持ちはあったのですが,無事に山形・秋田の冬季分校巡りが成果を残して完了しホッとしたことと,明日から始まる下北半島のへき地5級校巡りのことで頭がいっぱいで,宿からほど近い赤ちょうちんの居酒屋に繰り出すのがやっとでした。名前も忘れた居酒屋ですが,青森名産のめかぶと山芋はとても美味でした。
これからは,冬季分校というと,廃校ではなく賑やかな子供たちの声を思い出すことでしょう。

(追記) 野頭冬季分校は平成18年12月に,二枚橋冬季分校は平成19年12月に,それぞれ閉校となりました。また,田代冬季分校は,平成20年12月大湯小学校田代分校,平成25年4月休校を経て,平成28年3月に閉校となりました。



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