三度目の正直! 石鎚山の麓の廃村

三度目の正直! 石鎚山の麓の廃村 愛媛県西条市今宮,_________________
______________________________________小松町旧石鎚村虎杖,土居,中村


石鎚山への登山道/石鎚神社(成就社)への登拝道沿いの廃村 今宮に残る旅館の廃屋です。



2004/5/1〜2 西条市今宮,小松町旧石鎚村虎杖,土居,中村

# 27-1
四国の瀬戸内海側,愛媛県の石鎚山は西日本一の高さ(標高1982m)を誇り,山岳信仰の拠点として広く知られています。
最もよく知られているのは石鎚山中腹の石鎚神社・成就社で,標高1400mの成就社までは,石鎚登山ロープウェイが使われます。しかし,昭和43年にロープウェイができるまでは山道を登る以外に参拝する方法はなく,加茂川沿いの小集落 河口(Kouguchi)と成就社の間には,二本の登拝道(今宮道・黒川道)があり,山間にはそれぞれ今宮(Imamiya)と黒川(Kurokawa)という中継地として栄えた集落がありました。
ロープウェイの開通後,これらの登拝道は急速に廃れ,今宮,黒川はともに廃村となり,道は山歩きの方が使われるだけになりました。

# 27-2
今宮は旧大保木(Oofuki)村に属し,旧大保木村は昭和31年に西条市に合併されました。もう一方の黒川は旧石鎚(Ishiduchi)村(昭和26年までの名称は千足山(Senzokuyama)村)に属し,旧石鎚村は昭和30年に小松町に合併されました。
山間部の行政村が都市部の市町に合併された場合,過疎化が進行する度合いは強く,平成3年に刊行された書籍「過疎地域の変貌と山村の動向」(篠原重則さん著,大明堂刊,以下「過疎の変貌」と略す)によると,旧大保木村では昭和35年の人口が2772人に対し昭和62年では393人(減少率86%),旧石鎚村に至っては昭和35年の人口が898人に対し昭和62年ではわずか27人(減少率97%)と激減しています。

# 27-3
「過疎の変貌」には,旧石鎚村の19の集落の人口の推移が示されており,昭和62年までに黒川を含む12の集落が廃村になったとあります。
役場の出張所や小中学校,郵便局など,公共施設の多くは昭和50年代までに撤収されており,昭和62年では現存だった公民館と農協の支所も,平成に入ってすでに十数年,残っているとは考えにくく,さらに過疎化は進行していることが予想されます。
平成13年春にこの記事を見つけて以来,私は旧石鎚村を岐阜県旧徳山村,福井県旧西谷村,旧上穴馬村,滋賀県旧脇ヶ畑村,東京都(八丈小島)旧宇津木村,旧鳥打村とともに,行政村規模での廃村と位置付け,足を運ぶ機会をねらっていました。

# 27-4
愛媛(石鎚)行きは,まとまった休みがあるたびに候補に上がり,特に平成15年5月,同8月は必要な資料は揃い終えて,あとは実行のみというところまで行きながら,二度続けてキャンセルになったという因縁があります。
縁は異なもので,8月のキャンセルがきっかけで会うことになった元教え子のkeikoさんとの付き合いが秋から始まり,彼女は大阪から浦和に越してくることになりました。keikoさんもオンロードのバイク(VTR)乗りということで,石鎚にはふたりで出かけることになりました。
私のバイク(BAJA)も平成14年5月の沖縄への旅以来,丸2年もの間大阪常駐となっており,浦和に戻すには良い機会です。

# 27-5
旅の出発は4月28日水曜日,仕事をこなした後の新大阪行き新幹線。翌29日木曜日は堺の「美々卯」でkeikoさんと私の家族での会食。
30日金曜日は夕方まで大阪でのんびりと過ごし,夜に岸和田のkeikoさんの実家で食事をした後,バイク2台で大阪南港へ向かいました。大阪南港発東予行きフェリーは22時50分発。GWの始まりということで,ロビーに毛布を敷いて寝ている方がいるほど込んでいました。
5月1日土曜日(旅4日目),東予港着は朝6時10分。幸い天気は晴れ。朝起きたら見知らぬ土地にバイクという展開は,何度味わっても良いものですが,そんな余韻が醒めないうちにkeikoさんのバイクに荷物の落下があることが判明。よくすぐに見つかったものです。

# 27-6
JR伊予西条駅前の交番で荷物を受け取り,朝食を食べた後,この日宿泊の河口の「関門旅館」に到着したのは10時頃。ご主人(曽我部さん)は,昨夏に足を痛めてキャンセルしたという妙な旅人のことを覚えていてくれました。河口には石鎚参拝向けの宿が数軒あるのですが,今も営業しているのは「関門旅館」だけです。大きな食堂から,7月の大祭の時などには大人数の方が来られることがわかります。
まずは「比較的行きやすそうな今宮に行こう」となりバイクで林道を目指したのですが,林道は始まりからダートだったため旅館へ戻り,旅館の真正面に入口がある今宮道を歩いてたどることになりました。入口の「愛国」「敬神」という石柱は,歴史をよく表しています。

# 27-7
スギ林の中の薄暗い急な山道を登り,20分ほどでお堂があって小休止。お堂の裏には「今宮王子」「黒川王子」という二つの祠がありました。これらは「石鎚山三十六王子社」という登拝の旧跡らしく,今も36ヶ所お参りできるように整備されている様子です。
お堂を後にして,続く山道にはウツボカズラやタケノコが生えており,keikoさんも楽しそうです。しかし,山歩きは10年ぶりぐらいできついとのこと。思えば私は何度となく山道を歩いていますが,普通の都市の暮らしには山歩きは無縁です。
そのうちに苔むした石垣が見え始め,お堂から15分ほどで最初の廃屋に到着しました。廃屋の奥には「四手坂王子」という祠がありました。

# 27-8
「愛山会アラカルト」Webの「今宮道〜成就社〜黒川道」の登山記録には「今宮のもっとも栄えた時は大正8年で当時全戸数36戸(人口178人)中,11軒の宿屋があった」とあり,小学校の分校(昭和47年閉校)もあったということで,集落跡の規模はもっと大きそうなのですが,「四手坂王子」からかなり先に進んでも気配が感じられないため,河口に戻ることになりました。
昼食は「石鎚山三十六王子社」の案内の矢印に惑わされたため,「四手坂王子」の後方の山の中腹で食べました。やはり食事はふたりのほうが楽しいものです。しかし,「今宮は行きやすい」というアテはみごとに外れました。

# 27-9
「関門旅館」に戻り着いたのは午後1時半。次は「あまり歩かないでいける車道沿いの廃村に行こう」と,再び旅館を出て,旧石鎚村の虎杖(Itaduri),土居(Doi),折掛(Orikake),大平(Oonaru),成藪(Nariyabu)の方向にバイクを走らせました。
5分ほどで「周桑農協小松支所石鎚出張所」という看板がかかった農協跡の建物がありました。ここが虎杖で,「過疎の動向」では昭和35年は18戸・81人,昭和62年は4戸・7人とあるのですが,人気はまったくありません。農協跡の右隣にはガランとした駐車場があり,その奥には工場のような廃屋がありました。また,駐車場の隅には石碑があり,確認すると「電気導入記念碑 昭和四十年」とありました。

# 27-10
農協跡の手前の橋から川を見ると,フジの花が咲き乱れてとても綺麗です。橋の脇には黒川道の入口があり気になるのですが,こちらはまたの機会です。後で曽我部さんに伺った話では,農協跡横の駐車場が石鎚村役場(小松町役場石鎚出張所)の跡地とのこと。
虎杖から3分ほど走ると,車道の左手下方に小中学校跡が見えてきて,グランドの隅には往時からの古い建物が残っていました。石鎚小中学校は昭和52年閉校,工事が進められているため遠慮しながら探索すると,古い建物はアマゴの直売所として使われていた様子で,その隣りには鉄棒などの遊具がありました。また,門柱の近くには石碑があるので確認すると「皇太子殿下御降誕記念 昭和十年」とありました。

....

# 27-11
後で曽我部さんに伺った話では,建物は給食の調理室の跡で,近くには少し前まで公民館跡の建物が残っていたとのこと。また,工事は道路工事で,近々道の付け替えが行われるらしいのですが,陳情で学校の門柱は残されることになったとのことです。
学校跡から3分ほど車道を進むと,道沿いに数戸の廃屋が見え始め,諏訪神社に到着しました。ここが土居で,「過疎の動向」では昭和35年は15戸・98人,昭和62年は1戸・1人。予想外だったことは,諏訪神社は手入れがなされた大きな神社で,神社から先の道がダートとなっていたことです。登山用の伝言箱もあり「ここから先は山」という雰囲気です。また,駐車場の近くには「林道開設記念碑」がありました。

# 27-12
単独行ならば喜ぶところですが,VTRのkeikoさん同行ということで,この先はあきらめなければなりません。しばしどうしようか考えた結果,土居から少しだけ山道を登ったところにある中村(Nakamura)を目指すことになりました。
「過疎の動向」によると中村とその奥の谷ヶ内(Tanigauchi)を含む規模は,昭和35年が13戸・96人で,昭和62年は2戸・5人。中村に向かう山道の周りは畑となっており,10分ほど歩いた石垣の上にある廃屋の庭からは,明るくて綺麗な山村の風景を見下ろすことができました。
しかし,石垣の廃屋を過ぎると定番の薄暗いスギ林となったので,最初に見つけた林に埋もれた廃屋から先には進みませんでした。

....

# 27-13
石垣の廃屋の庭でkeikoさんから聞いた「こんな綺麗な景色の中で暮らせたらすごい贅沢やなあ・・・」という言葉が印象に残りました。昭和30年代頃のこの山村は,庭から見たような明るい景色に包まれていたはずなのです。それを継続させるためには,生業となる仕事が不可欠です。今も往時のような暮らしを続けることができていたとすれば,それはすごく贅沢なことなのかもしれません。
土居に戻ったのは午後4時頃でしたが,季節柄,まだ日は高くにあります。その後は「ふたりで石鎚に来たのであれば・・・」と,石鎚登山ロープウェイを使って成就社へお参りに行きました。ロープウェイの山頂駅近くにはスキー用のリフトが動いていてびっくりです。

# 27-14
成就社へのお参りを済ませて,旅館に戻って一日を振り返ると,西条の市街で荷物捜しをしたのがずいぶん前のことのように思えました。まだまだ見たい場所はあるのですが,ふたりで行動するのであれば,おのずと制限がかかるのは仕方のないところです。
翌朝は「ここだけは押さえておこう」と6時に起きて,単独で林道を走って今宮を再訪しました。完成してそれほど経たない様子のダートはおよそ2.5km,オンロードで行かないのは正しい判断でした。大きな旅館跡の廃屋の近くにバイクを止めて周囲を探索すると,予想通り,今宮の集落跡の規模は大きく,小1時間の間に2軒の大きな旅館跡を含む6軒の廃屋を見つけることができました。


# 27-15
特に成就社方向の今宮道の右手に見つけた旅館の廃屋は,遠目には「新しい山荘ではないか」と思わせるほど綺麗に残っており,「7月の大祭の10日間には,のべ1万人の宿泊者がいた」と伝えられる往時の今宮の繁栄を垣間見ることができました。河口方向の今宮道もたどったのですが,短い時間のこともあって,前日折り返した場所までたどりつくことはできませんでした。
急ぎ足で「関門旅館」に戻ったのはちょうど8時頃,keikoさんは旅館の前のベンチで待っていてくれました。一緒に朝食を食べながら「お昼,どうしようか?」と考えていたら,適当な量のごはんと海苔,塩昆布を残せたので,珍しくおにぎりをにぎることになりました。

(追記) 「中村にある」と思い込んでいた石垣の廃屋の所在地が土居だったことを,訪ねてから18年後,令和4年7月に知りました。このとき,中村まで足を運び,実物を見てみたかった野灯(信仰のための石灯籠)までたどり着くことができました。



「廃村と過疎の風景(2)」ホーム