村人が去り,城がそびえるダム建設最前線
村人が去り,城がそびえるダム建設最前線
岐阜県藤橋村親,鶴見,東杉原,
__________________旧徳山村本郷
藤橋村鶴見と旧徳山村間のR.417沿いにある徳山ダムの建設現場です。平成18年秋には潅水が始まる予定です。
2004/10/10 藤橋村親,鶴見,東杉原,旧徳山村本郷
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岐阜県 奥美濃,揖斐川最上流部,両白山地の山間部に位置する旧徳山村は,おそらく日本でいちばん有名な自治体規模の廃村です。
行政村 揖斐郡徳山村は明治22年の町村制施行時に成立,村役場は徳山本郷にありました(昭和55年の規模は495戸,1446名)。
徳山ダム建設の調査が始まったのは昭和32年。その後,ダム建設は紆余曲折を繰り返し,村民の移転交渉が進んだ昭和62年4月,徳山村は藤橋村に編入されて消滅しました。その後も賛成派と反対派の声が入り乱れましたが,平成12年5月,ダム建設は着工に至りました。貯水量日本一の巨大ロックフィルダム(堤高161m,貯水量6億6千万トン)の目的は,洪水時等の水量調節,水道用水,工業用水,発電です。
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徳山ダムに隠れてあまり表に出てきませんが,藤橋村でも横山ダム(昭和39年竣工,堤高81m,貯水量4300万トン)の建設により,川尻,鬼姫生(Kibiu),親(Oya)の三集落が水没し,廃村となっています。また,横山ダムと徳山ダムの中間点に位置する鶴見,東杉原の二集落は,昭和57年頃に杉原ダム建設計画(ダムは未着工)による集団移転があり,残る村民はほとんどいません。
行政村 揖斐郡藤橋村は大正11年に久瀬村から分離し成立,村役場は西横山にあります。面積324kuに対し,人口は409人(世帯数213戸,平成16年5月現在)。人口密度1.26人/kuは日本一の低さです。私が訪ねた3ヶ月半後,平成の大合併で藤橋村の名称はなくなりました。
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私は旧徳山村には過去四度(昭和62年12月,昭和63年11月,平成3年8月,平成12年5月)訪ねていて,鶴見に藤橋城・西美濃プラネタリウムという山の中には不釣合いな施設があるのは知っていたのですが,徳山に着くまでの中継地点として一服する程度でした。
今回,五度目の旧徳山村訪問を計画するにあたって,藤橋村の住宅地図を調べたところ,鶴見,東杉原とも公民館はあるものの,個人名の住宅はともに3軒。藤橋城や歴史民俗資料館,草木染体験舎など,観光の施設に混ざって,徳山ダム建設パビリオン,ダム建設会社の仮設社宅,さらには「わっしょい」という居酒屋まで記されており,しっかり回ってみようと思いつきました。
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平成16年10月の岐阜・福井への旅は,当初4泊5日のツーリングの予定でした。しかし,何度も繰りかえし襲来する台風のため,期間の短縮を余儀なくされ,結局新幹線の岐阜羽島でレンタカーを借りての2泊3日となりました。当初出発予定の10月8日(金曜日)は東京地方は午後から台風22号絡みの大雨,翌9日(土曜日)の午後には台風は伊豆半島に上陸,東海道新幹線は長い時間不通になりました。
旅の出発の10月10日(日曜日)は朝4時45分起床。早朝のため単独で出発し,満員のひかりに揺られて岐阜羽島に到着したのは午前8時36分。
その後,10月20日(水曜日)には各所に被害をもたらした台風23号が足摺岬に上陸しており,決行できただけでも幸いとすべきでしょう。
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岐阜羽島から藤橋村の東横山まではクルマでおよそ1時間。横山ダムの本体上の位置にあるR.303とR.417の分岐点を越えると,ひたすら空と山と川(湖)だけの風景となります。旧徳山村から福井県池田町に抜ける道,根尾に抜ける道はともに通行止との看板がありました。
ダム湖の真ん中を橋で渡ってしばらくすると親の集落跡です。まず,お墓と集会所の廃墟があり,少し離れて神社跡と離村記念碑があります。クルマを停めて探索をしましたが,クルマだと停める場所に気を遣ったり,シートベルトを着けたり外したりで,邪魔くさくていけません。記念碑によると,昭和36年にダム建設のため30余戸が移住,村社八幡神社は大垣市内の八幡神社に合祀されたとのこと。
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親から5分ほどの鶴見に到着したのは10時40分。昭和55年の鶴見の人口は96名(45戸)。藤橋城はこれが三度目。調べると城の竣工は平成元年10月でした。藤橋村は「星のふる里」を観光のキャッチコピーにしており,村人が去った山里に城の形をしたプラネタリウムを作るというのは,斬新なアイデアです。藤橋城より先のR.417は,例年12月上旬から翌4月中旬頃まで,積雪のため通行止となります。
揖斐川を橋で渡った向こう側が東杉原です。昭和55年の東杉原の人口は105名(44戸)。城のあたりからみると,仮設社宅に混ざって茶色い屋根の大きな建物があり,何かと思って確認をするとお寺の廃墟でした。中には,机や祭りの看板などが雑然と置かれていました。
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お寺からほど近い公民館はススキに埋もれており,東杉原が集落として機能していないことがわかります。また「すぎはら」という軽食・喫茶兼居酒屋があり,主に作業員向けに使われている様子です。「すぎはら」をはじめ,使われている家屋はどれも古くはありません。
東杉原には平成7年にオープンしたオートキャンプ場(藤橋村家族旅行村)がありますが,徳山ダムの工事が本格化した平成15年より営業を休止しています。草木染体験舎や自然舎といった真新しい建物が放置されている様子は何とも妙ですが,徳山ダム完成にあわせて再開されるとのこと。手入れはなされており,この日も公園の草を刈る女性の姿がありました。
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# 33-8
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鶴見に戻って,まず訪ねた徳山ダム建設パビリオンは,水資源機構による徳山ダム建設事業の目的や工事の様子,旧徳山村の様子などを紹介した展示施設で,平成11年11月オープン。見学すると,ガイドの方がていねいに説明してくれました。また,袋入りの徳山ダム着願岩(堤体の着岩石)をお土産にいただきました。近くにある公民館を確認すると,東杉原同様朽ちていました。
あと,鶴見には旧杉原小中学校(昭和58年閉校)を利用した西美濃天文台があるのですが,ダム工事の事務所が併設されており,休止中の様子です。仮設社宅の近くの売店,居酒屋「わっしょい」はお休みでした。また,「パラダイス」というスナックもありました。
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今後の徳山ダム建設の予定では,平成18年秋に主要な工事は終わり,試験潅水が始まります。潅水は1年半行なわれ,完成予定は平成20年春とのこと。平成20年といえば,着工から8年,徳山村の廃村から21年,調査の開始からは実に51年もの年月です。ダム建設の視点でみると,平成17年から18年は,そのハイライトといえそうです。ここまで進行すると,もうダム建設は中止できないことと思われます。
また,藤橋城やオートキャンプ場は,ダム見物の観光客を見込んで作られており,青写真では施設と同時期(1990年代)にダムも完成していたはずです。観光に携わらせる方はもちろん,多くの地域の方もダムの完成を心待ちにされていることと思います。
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# 33-10
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「すぎはら」で山菜そばを食べて,鶴見・東杉原を後にしたのは午後12時45分。観光施設とダム工事の仮設社宅,わずかに残った村人の家屋と集会所やお寺の廃墟。これまで訪ねた廃村や過疎の村とは一線を画する鶴見・東杉原の風景は,印象深く残りました。
この日の宿泊予定は福井県の大野市。午後6時頃に到着しようと思うと,旧徳山村で訪ねることができるのは本郷のみです。それでも途中にダム建設現場や,見晴らしの良い場所があるとクルマを止めてしまいます。ダム着工の頃に高所に付け替えられたR.417からは,下開田や本郷の集落跡を見下ろすことができますが,そこにはダム工事現場の風景が広がるだけで,往時の面影はほとんど残っていません。
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# 33-11
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本郷の「ふるさと」の碑がある駐車場に到着したのは午後1時10分。本郷の昭和55年の人口は466名(154戸)。3年半ぶりの来訪ですが,R.417の橋は仮設になっており,また,戸入,門入に向かう道の橋は通行止となり,向こう岸には工事用の盛り土がなされていました。
やはりひときわ目立つのは徳山小学校跡の三階建の校舎です。廃村期(昭和62年4月)には藤橋小中学校本郷分校となりましたが,その冬(12月)に休校,平成4年3月に廃校となっています。コンクリート造りのこの校舎は,ダム完成時も取り壊されずに水没となります。その他,往時からのものとしては,火の見やぐらと郷社白山神社という石柱,「ようこそ徳山へ 徳山村」という古い看板が目を惹きました。
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橋から駐車場に戻って,小学校跡へ行こうかと思うと,一台のクルマが止まって「あの建物は小学校跡かね?」というおじさんの声。お返事として話をすると,おじさんは徳山本郷出身で今は岐阜市近郊在住だが,徳山に来るのは十数年ぶりとのこと。
くしくも徳山村出身の方とふたりで訪ねることになった徳山小学校跡は,工事関係の岩石入りの箱などがあちこち置かれていたものの,往時の雰囲気をよく残していました。おじさんの目からは,埼玉から徳山までやってきた私は,何かの研究者のように映った様子です。おじさんと一緒に行動したのは5分ほどでしたが,「ええ人にも出会えたし,徳山に来てよかった,ありがたいなぁー」と,終始上機嫌でした。
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おじさんと別れてからも三階を廻ったり,屋上に行ったりで,小学校跡でゆったりとした時間を過ごしました。校庭に出ると門柱が残っていたので,八丈小島の風景を思い出しながら,これに校舎が入るアングルで写真を撮りました。
小学校の手前には,廃村後に建てられた一軒の家屋がありますが,この家屋は潅水までには取り壊されるものと思われます。
旧徳山村は今回が見納めのつもりだったのですが,鶴見の「わっしょい」や本郷の小学校跡の様子を見ると,また,本郷の先の山手,櫨原,塚,戸入,門入の様子を改めて見たいと思うと,もう一度足を運んでみたくなりました。その猶予は平成18年秋までしかありませんが。
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そんな思いを感じながら,徳山本郷を後にしたのは午後2時5分。福井県大野市までの時間的な近道は,60kmの道程を戻って,岐阜羽島ICから高速道路を油坂峠まで走り,R.158をたどるルートのように思えます。しかし,山越えができる可能性を考えて,R.417(R.303)を久瀬村で離れ,谷汲村経由で旧根尾村へ抜けました。しかし,頼みのR.157も能郷以遠通行止との看板。台風の被害は相当なもののようです。
結局旧根尾村からは,R.418で旧美山町経由,美濃ICまで走り,高速道路を油坂峠まで走り,R.158で和泉村経由の大野市入りとなりました。JR越前大野駅でkeikoさんと合流したのは午後6時15分。この夜は旧西谷村が縁の吉田吉次さんをふたりで訪ねました。
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