ゴールの小中学校跡は県道の終点
ゴールの小中学校跡は県道の終点
岐阜県山県市(旧美山町)椿,
________________________________________今島,万所,三尾,伊往戸,仲越
今島の神社・学校跡の廃屋に残されていた養蚕組合の表彰状です。
2004/10/12 山県市(旧美山町)椿,今島,万所,三尾,伊往戸,仲越
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# 36-1
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岐阜・福井2泊3日の圧縮行程の旅,通行止に悩まされながらも,徳山,西谷,上穴馬と自治体規模の廃村を続けて廻ることができました。
郡上八幡の宿では,床についてからも「最終日,どのような行程で廃村・過疎集落を廻ろうか」と迷いました。候補地は郡上市(旧大和町)内ヶ谷と,北山地区など山県市(旧美山町)北部です。郡上市と山県市は,ともに平成の大合併でできたばかりの新しい自治体です。
旧大和町内ヶ谷(Uchigatani)は,上会津,金山,開拓地の3集落からなり,往時は上会津と開拓地にそれぞれ小学校の分校がありましたが,ともにへき地4級校で,深い山の中にあることが想像されます。角川日本地名大辞典では,離村時期は昭和45年とあります。
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# 36-2
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対して,角川の辞典に記されている旧美山町北部の廃村は椿,西洞(Nishihora),万所(Mandokoro),三尾(Mio),白岩の5集落。このうち椿と西洞には小学校の分校がありました(椿はへき地1級校,西洞はへき地2級校)。辞典では,集落再編成事業により,山間の小集落では集団移転を,ある程度の規模の集落では道路開発など総合的な施策を進めたと記されています。移転は昭和44年から順次進められたとのこと。
平成3年8月のツーリングで,内ヶ谷には「開拓地」という名称にひかれて板取村方面からアプローチしたものの通行止で行けませんでした。また,北山地区には行くことはできたのですが,記録を取る習慣がなかったため,地区内のどこに行ったかがはっきりしません。
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# 36-3
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郡上八幡からの距離は旧大和町内ヶ谷の金山が約30km,旧美山町椿が約55km。しかし,岐阜羽島までの距離は椿のほうが近く,ここでも拮抗しています。「いっそ両方行ってみようか」とも思ったのですが,二兎追うものは一兎も得ずになること違いなしです。
結局,「ダムがなく,ダム建設予定の話もない」という理由で,旧美山町北部に行くことに決めました。なかなかたいへんな決断でした。
旧美山町は現在も製材など林業が盛んです。昭和30年4月の美山村成立前は,谷合村,北山村など7つの行政村に分かれていました。先に挙げた5つの廃村のうち,椿は旧北武芸村,西洞は旧乾村,万所,三尾,白岩は旧北山村(北山地区)です。
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# 36-4
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先に挙げた5つの廃村のほか,北山地区最奥の仲越(Nakagoshi)も行止り集落で,学校跡もあります(へき地3級校)。仲越には行ったことがなく,5回も足を運んだ旧根尾村下大須とは山を隔ててほど近くであり,ここへ足を運べるのも楽しみです。また,万所,三尾への途中となる今島(Konjima),白岩,仲越の途中となる伊往戸(Iodo)にも,それぞれ学校跡があります(ともにへき地1級校)。
ここまで読んでいただいて地図なしでどんなところか想像できる方はいないのではないかと思います。記した本人も,位置関係を調べて,探索の計画を立てるには相当な根気がいりました。地図を見ながら想像を膨らましていただくことをお勧めします。
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# 36-5
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10月12日(火曜日)の起床は午前7時頃。郡上味噌と栃の実のお菓子を土産に買って,keikoさんを長良川鉄道郡上八幡駅で見送ったのは8時57分。「ひなびた駅だなあ」と感心していると,「そんなこと言うんじゃないの」とkeikoさんにつつかれました。
レンタカーにはカーナビが付いていて,山県市椿と指定することができたので,「これを頼りにしてみよう」とR.156を南に下りました。しかし,途中時間がかかる板取村経由のR.256を指示したり(それも通行止),美並ICから高速道路に入ったら文句を言ってきたりで,全然役に立ちません。極めつけは椿に行く道を誤って瀬見渓谷に向かったことです。マニアなドライブにカーナビは似合わないみたいです。
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# 36-6
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カーナビを切って笹賀から椿への細い道をたどると,スギ林の暗くて狭い道となり「この先行きどまり」の看板がありました。慣れないクルマに「大丈夫かな」と心配しながらゆっくり進むと,4kmほどで視界が開けて,立派な椿の離村記念碑が目に入りました。
碑を確認すると,表は人家分布図となっており,学校とお寺と神社,67戸もの人家が描かれていました。裏には「文亀元年頃に始まり 天正十七年頃幕府領となり 昭和四十六年閉村となる」とありました。また「平成十六年十月吉日建立 建立者 武藤國男」とあり,建ったばかりの碑のようです。到着は10時半頃,クルマは碑の前に置いて探索の開始です。
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# 36-7
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椿の集落跡はこの碑から川の上流のほうに細長く続いており,人が住めそうな家屋もありましたが,村の方とは出会えませんでした。分校跡は碑から約1km先にあり,その入口は綺麗に手入れされていました。正面には湧水の水飲み場がありましたが,その横には「熊注意」という看板もありました。この頃のニュースでは,台風上陸とともに熊の出没も盛んに報道されています。長居はしないほうがよさそうです。
逆方向に離れた西洞行きは見送って,椿からは北山地区の神崎に向かいました。椿と神崎は直線距離では5km弱ですが,道では瀬見渓谷経由となるので14kmもあります。神崎着はちょうど12時。「北山地区案内図」の看板と「スウィートメモリー」の放送が迎えてくれました。
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# 36-8
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神崎は北山地区の中心集落ですが,平成9年にはRC造四階建ての小学校も閉校になるなど,過疎化が進行しています。商店にはパンとミルクがあり,ホッと一息。神崎で道は二手に分かれるのですが,まず円原川沿いの今島,万所,三尾の方面に向かうこととなりました。
円原川(長良川水系)は,日本一の伏流水がある川と称しており,北山地区も水が美味しい山里です。また,神崎と今島の間に位置する集落 円原には石灰とドロマイトの鉱山があります。鉱山については「サラリーマンの休日 ちょっと行ってくる」Web(管理者zinzinさん)の神崎地区のレポートに詳細が記されています。
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# 36-9
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神崎から8分ほどで今島の五位神社の鳥居の前に到着しました。いくつか家はありますが人気はまったくなく,円原で地域の方に「常住する方はいない」と伺っていることから,ここは廃村と見てよさそうです。神社の本殿は,石段を上がった高い場所にありました。
今島の学校は北山北小学校という本校で,「どこにあるのかな」と探索すると,神社の本殿の左隣りに学校跡の石碑を見つけました。裏には「昭和四十六年三月 過疎に依り廃校」とありました。広い神社の境内には,学校があったことを示す金網が残されており,神社と学校は同じ敷地にあった様子です。また,碑の横には「完」「平成八年八月」と記された丸い石碑があり,こちらのほうが目立っていました。
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# 36-10
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神社(学校跡)の敷地内には,木造二階建ての廃屋があり,確認すると「今島養蚕実行組合」「昭和十六年四月」と記された賞状が飾られていました。公共の建物跡のようですが,学校というよりは公民館に近い様子です。
神社の境内でパンとミルクの昼食をとり,さらに今島を探索すると「美山町今島地区個人宅案内図」という看板を見つけました。看板には11戸の家が記されていました。
今島にも椿と同じく,複数の湧水の水飲み場がありました。水が豊かな山里の旅は,気持ちも潤います。
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# 36-11
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今島からしばらくすると,万所へ向かう道と三尾に向かう道の三差路があるのですが,まず,万所への道を選びました。緩やかな上り坂の左手には一軒の閉ざされた家屋があり,クルマを止めてよく見ると,それは間違いなく平成3年8月に訪ねたとき写真を撮った家屋でした。
万所は,角川の辞典に記されている廃村のひとつです。自転車や掛けられたタオルがあるものの「何か違うものがある」と思った13年前の私の鼻は,やはり廃村をかぎ付けていたのでした。二つの写真を比べてみると,お墓と便所(小屋)がなくなっていることがわかります。また,現在の建物には「火の用心」の札が掛けられていました。
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# 36-12
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万所の集落跡でもさらに道は二つに分かれていました。13年前に「道の行止りの近くに交番の看板を含んだ家々の瓦礫を見た」という妙な記憶があり,期待して右の道を進んだのですが,間違えたらしく,クルマの折返し点には記憶にない山神神社の碑があるだけでした。
左の道は追いかけず三尾を目指しましたが,三尾では木造二階建ての大きな家屋を見かけただけでした。折返し点ではトラックが木を切り出す作業をしていて,遊びのレンタカーは肩をすぼめながらUターンしました。円原まで戻って地域の方とお話しすると,往時はまとまった集落(今島,万所,三尾)のほかにもいくつか小集落があったとのこと。
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# 36-13
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神崎まで戻ったのは午後2時35分。次の目標は,神崎川沿いの伊往戸,白岩,仲越ですが,夕暮れまでに全部廻れるかどうかは微妙です。神崎から伊往戸までは8分ほど。伊往戸の石灰・ドロマイト鉱山にはまずまずの活気があり,小さな商店があったので,缶コーヒーを買いました。商店のご主人に学校跡のことを尋ねると,白岩と仲越の分岐点にあるとのこと。
早速目指すと,そこには木造平屋建ての校舎跡がありました。北山小学校伊往戸分校の閉校は昭和56年。入口の閉校記念碑を囲んで机と椅子があり,談笑されている男性がふたりいたので,「こんちわー」とご挨拶をしてお話の輪に加えていただきました。
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# 36-14
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話のうちに,校舎の跡は井上健郎さんという陶芸家の作業場兼住居として使われているのことがわかりました。陶芸の方という連想から,kaiさんという東京の飲み仲間が愛知県在住の陶芸の方(相場るい児さん)のもとに嫁いだので,9月に遊びに行ったとお話しすると,井上さんと相場さんは近しい仕事仲間ということがわかり,一気に話題がローカルになりました。同時に,白岩行きの断念が決定しました。
学校跡がある仲越をこの旅の終わりと決めて,県道神崎岐阜線を北へ進むと,10分ちょっと(5km)で視界が広がり,県道の終点がそのまま仲越の小中学校跡の入口になっていました。校庭までクルマを乗り入れると,先に抜ける道はありませんでした。
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# 36-15
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仲越小中学校の閉校は昭和54年。校庭には「樹遊人塾」という閉校後の建物がありましたが,人気はありません。隅のほうにペンキが塗られたタイヤと金網が残っていたので,これに座って記念写真を撮りました。Vサインは,この旅のゴールに到着した喜びを表します。
仲越の集落の主要部は,県道から少し山手に入った場所にあり,クルマを県道において道をたどると,数戸の家や火の見やぐらとともに今島と同じ形の「個人住宅案内図」があり,11戸の家が記されていました。「村の方は居るのだろうか」とさらに歩くと,神社の隣りの家に人気があり,脇の畑で農作業をされているおじさんがいたので,村のお話しを聞かせていただきました。
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# 36-16
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おじさん(飛騨さん)によると,仲越には現在5人ほどの村人がいるが,冬季は積雪があると1週間も交通が絶たれることもあるので,行政の指導もあり,昨年の冬からは全員が村を離れることになったとのこと。
つまり仲越は,平成15年に冬季無人集落になったことになります。経費削減の折り,行政が数少ない村人のための5kmの県道の除雪に消極的になるのはもっともです。しかし,山村の集落が残るか消えるかの鍵の半分は,行政が握っているのです。
神社の敷地内に建つ公民館を見ながら「これから過疎地の小集落はどうなっていくんだろう」と,妙にしんみりした気分になりました。
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伊往戸分校跡に戻りついたのは午後4時45分。閉校記念碑を囲んだ机の回りでは,井上さんと地域のおばさんがお話しをしていました。ここは村の集いの場として機能している様子です。井上さんによると,北山地区にダムがないのは,土質がダムに向かないからとのこと。また,美山町が合併(平成14年4月)で山県市になってから,役場の方がなじみのない方に変わり,事務的な感じになったとのことです。
大野の吉田さんにお聞かせしようと三線を持ち歩いていたので,偶然の縁を祝して「花」と「安波節」を唄いました。このあたりのことはバイクではできないクルマの良さです。そして,美山の土で焼いたという湯飲みを記念の土産に購入しました。
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# 36-18
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伊往戸から岐阜羽島までは約50kmですが,岐阜市内を通るため2時間はかかります。途中神崎で茜色の空が綺麗だったので,北山地区案内図の前でクルマを停めて一服。R.418の美山大橋からはカーナビを起動。目的地までの距離や到着予想時間が出て,なかなか便利です。
山県市の中心の岐阜市と境を接する旧高富町は,この日一日各集落をうろうろした旧美山町北部とは別世界の賑やかさで,クルマも渋滞しています。クルマの運転は慣れないこともあり,岐阜羽島のレンタカー店に戻ったときはぐったりしていました。
新幹線,東京駅経由で南浦和の自宅に帰り着いたのは午後11時30分。keikoさんと14時間半ぶりの再会を祝してビールで乾杯しました。
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(追記) この旅のおよそ1ヶ月後の平成16年11月13日,私は二度目の結婚式をkeikoさんと挙げました。偶然,亡き妻が入院していた病院の合同慰霊祭がその5日後(11月18日)にあり,私も出席し白い菊を献花しました。
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