廃屋の軒も嬉しい通り雨
廃屋の軒も嬉しい通り雨
京都府丹後町一段,力石,大石,神主,
_______________________________________________小脇,弥栄町川久保
〜丹後半島廃景色 その2〜
川久保集落跡の入母屋(いりもや)造の屋根の廃屋にて。シャワーのような通り雨でした。
2002/8/14 丹後町一段,力石,大石,神主,小脇,弥栄町川久保
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# 13-1
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午前中は高位集落(標高300m超)を廻ったのに対して,午後からは主に丹後町の低位集落(標高110〜210m)をまとめて廻りました。
この地域に廃村が多く生じた頃の様子は,「亡び村の子らと生きて」(池井保さん著,あゆみ出版刊,以下「亡び村」と略す)に記されています。池井さんは昭和42年から47年までの丹後町立虎杖(Itadori)小学校の先生で,過疎の進行や離村の様子を目の当たりにされました。
「亡び村」の冒頭で池井さんは,「高度成長期における食糧輸入の農政が,農山村の生活を根底から破壊した」との旨を綴っています。また,「亡び村」の本文にはそれを象徴するものとして,数点の朽ちた農家の廃屋の写真が載せられています。
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# 13-2
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1階のレストランでビビンバ丼を食べて,丹後町を目指して「弥栄あしぎぬ温泉」を出発したのは午後2時35分。天気はうす曇。竹野川沿いのR.482を走っている分には,少し山に入ったところに廃村があるというのはピンときません。
まず足を運んだのは丹後町一段(Ichinodan)。手前の集落 吉永から一段までの2.5kmほどの道は,川沿いに狭い田んぼのある土の道です。
道は度重なる雨のせいでぬかるみとなっていて,雪道よりもすべるぐらいです。一段の集落跡は,川から離れた南向きの斜面にあるのですが,斜面を登る道は予想外に急で,すべって危険という判断から坂の途中にバイクを止めて,歩いて登ることになりました。
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# 13-3
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一段は標高120mの行止まり集落で,明治5年頃の戸数は25戸,昭和46年に廃村化したとのこと。歩きはじめて5分ほどのところに更地と古びた作業小屋があり,探索してみると更地の隅にタイル張りの流しの跡を発見しました。一段に着いたことが確認できたということで,ホッと一息。続きが控えていることもあるので,探索は早々と切り上げ急ぎ気味にぬかるみの坂道を降り,吉永に戻りました。
吉永から次の廃村 力石(Chikaraishi)までは,府道を走って2kmほど。府道は舗装道ではあるものの,吉永からすぐの内垣を過ぎると急に細くなり,うら寂しくなります。ただ,地図で見る分には吉永,一段,内垣,力石と,そんなに違いは感じられません。
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# 13-4
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力石の標高は210m,明治5年頃の戸数は31戸,往時は分校もある比較的大きな集落でしたが,昭和49年に廃村化したとのこと。坂口先生の論文によると離村の直接のきっかけは大火とのこと。また「亡び村」によると,村の跡地は兵庫県の会社に一括で買い取られたとのこと。
そんな経緯があるからか,力石をかつての住民が手入れしている様子は見当たらず,石垣や屋敷跡,コンクリート作りの水槽ぐらいしか痕跡を見つけることができませんでした。
一段や力石の廃村の風景は,多様な石碑があちこちに見かけられた高位集落(内山,木子,駒倉,味土野,吉津)とは対照的です。
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# 13-5
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三つ目の廃村 大石(Ooishi)は,力石から低い峠を挟んで1.5kmほど(峠の前後で,川は竹野川水系から宇川水系へ),府道から少しだけ入った川の近くにありました。
大石の標高は210m,明治5年頃の戸数は15戸,昭和52年に廃村化したとのこと。大石では,半壊した木造の廃屋(納屋ぐらいの大きさ)が残っていて,廃屋を見守るかのように小さい数体のお地蔵さんが立っていました。石垣や屋敷跡も力石よりもはっきりとしており,石碑は見当たらなかったものの,手入れがなされている様子です。
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# 13-6
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四つ目の廃村 神主(Kounushi)は,大石から緩い坂を下って1.5kmほどのところにあります。
神主の標高は190m,明治5年頃の戸数は18戸,昭和53年に廃村化したとのこと。古い住宅地図には神主にも学校の印があるのですが,これは昭和42年頃に力石から移転された分校のようです。
府道沿いにはお地蔵さんがあり,脇の山道を入って行くと,深い草に埋もれた半壊した廃屋が一軒ありました。また,府道沿いを少し進むとしっかりした作りの一軒の廃屋がありました。この家はていねいに草が刈られており,作業小屋などとして使われている様子でした。
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# 13-7
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五つ目の廃村 小脇(Kowaki)は,神主からおよそ2km,宇川を渡った山肌にへばりつくようにありました。
小脇の標高は120m,明治5年頃の戸数は12戸,昭和55年に廃村化したとのこと。小脇は,池井さんが先生をされていた虎杖小学校の校区でしたが,現在は校区の五つの集落のうち四つまでが廃村となっています。また「小脇乃里由来碑」という石碑は,平成5年建立とのこと。
公民館兼作業場があったり,廃屋は綺麗に手入れされていたりで,住民が居ても不思議ではありません。オートキャンプをしていた家族連れは,丹後町の廃村で初めて遭遇した人気だったのですが,声をかけてみると,小脇とは無関係とのことでした。
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# 13-8
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六つ目の廃村 弥栄町川久保(Kawakubo)は,小脇からおよそ1.5km,宇川の流れにほど近いところにあります。
川久保の標高は110m,明治5年頃の戸数は7戸,昭和55年に廃村化したとのこと。入母屋造の屋根の大きな廃屋は,小脇と同じく綺麗に手入れされています。ざっと見たところでは3軒ありました。
川久保到着は午後5時頃。ちょうど到着とともに天気が崩れ,身動きできないほどの雨になりました。仕方がないのでバイクを林の茂みに置いて,廃屋の軒を借りてひととき雨宿りとなりました。1時間強降り続いた雨は,一日の終わりを知らせてくれたようでもありました。
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# 13-9
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この日の宿泊は,伊根町の筒川文化センター。小学校(筒川小学校)跡を宿泊のできる研修施設に改造したという公共の施設で,素泊まり2000円はお手頃な値段です。ただ,電話で確かめると,宿のある筒川本坂には食堂はおろか酒屋も雑貨屋もないとのこと。
川久保からは小脇に戻り,経ヶ岬を回るルート(R.178)を選びました。日本海沿いには新鮮な魚料理が売り物の民宿がたくさんあるのですが,廃村巡りの単独ツーリングには,素泊まりの小学校跡のほうが似合っています。
途中,弁当とビールを買って文化センターに到着したのは,とっぷり日も暮れた午後7時55分でした。ビールの調達にひと苦労しました。
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# 13-10
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「亡び村」には,この地域の村人を離村に追いやった大きな理由として,「食糧輸入の農政により専業の農家が成り立たなくなり,それに合わせて導入された家内労働の機織り(丹後ちりめん,西陣織)が婦人の負担となったこと」との旨が記されています。
「家には狐狸が住み 田には葭草が背丈をこし 林には蔓がきのむくままにまきつき 天下御免の荒れ放題の世界が広がる」という池井さんが「亡び村」の序詩として記した廃村の風景は,書籍の発行(昭和52年)から25年を経て,その多くを自然に帰し,穏やかなものとなりました。そんな穏やかな風景の原点に,高度成長期における村人の辛苦があることは,心に留めておかなければなりません。
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