平成23年3月11日(金)午後2時46分頃、気象庁開設以来最大規模という東北地方太平洋沖地震が起こった(マグニチュード7.9、その後8.8、さらに9.0に訂正された)。
私は東京・神楽坂のオフィス(ビルの9階)で震度5強の地震を受け、埼玉・南浦和の自宅まで、22.5kmを4時間45分かけて歩いて帰った。
大きな地震の時など、緊急時において、役に立つ情報になるのではないかと思い、徒歩帰宅の様子をレポートにまとめる。
===
地震(本震)の揺れは、2分ぐらい続いたと思う。席から立ちあがって机と棚に手をつきながら回りの様子を見ていたが、だんだん揺れが強くなり、2.4mほどの高さのスチール本棚が「倒れるかも」というほど揺れ始めた。このとき、危険を感じて机の下にもぐりこんだが、幸いもぐりこんですぐに揺れは収まった。私が生まれて48年、人生経験の中では最大の地震だったが、わりあい冷静に対応できたように思える。
収まってから、オフィスの様子を見ると、書類やファイルが床一面にちらばり、高所のスチール棚が3つ床に落ちた。電気器具では扇風機とスキャナが床に落ちて壊れた。部の仲間も全員無事で、しっかりしていた。
余震の合間を縫いながら、書類やファイル、棚を元の位置に戻すと、1時間ほどである程度の整理はできた。夕方4時頃には「今日は帰宅してよい」という連絡が総務の方からあったが、部の仲間は、みんな5時(定時)まで仕事をした。
電話は、おおむねどこにかけても通じなかった。夕方4時頃、固定電話で大阪の実家に連絡がつき、両親に無事を伝えることができた。
●1.夕方5時15分、神楽坂のオフィス出発
私は足には自信があり、帰りの経路の見当もついていたので、「定時を過ぎたら、歩いて帰る」という判断になった。地図は持ち合わせなかった。飯田橋で私事の待合わせがあったこともあり、夕方5時15分、練馬方面に歩いて帰るという派遣社員の方と一緒に、オフィスを後にした。他にも何名かは歩きを選択したが、「電車が動き出すまで残る」という道を選んだ仲間も多かった。
管理職になったら、この場合は「残る」という選択をすべきなのだろうと思った。
●2.夕方5時半頃、飯田橋五差路到着 (歩行総距離0.7km、歩行時間15分)
大久保通りを歩く方はかなりの数だったが、歩くスピードに支障が生じるほどではない。飯田橋に着く手前で、待合わせの相手から携帯に電話が入り、お互いの無事は確認できたが、待合わせはキャンセルすることになった。Eメールも出してくれたそうだが、規制のためか着信していなかった。
#このメールは、明朝確認できた。
●3.夕方5時40分頃、水道橋交差点到着 (1.6km、25分)
水道橋で左折して、外堀通りから白山通りに入る。趣味で町歩きをするときは、できるだけ主要道ではなく脇道を選ぶのだが、今回は無事に帰ることが目的なので、わかりやすい主要道を早いペースで歩く。白山通りでは時々車道に出て、小走りで先を急いだ。
●4.夕方6時 8分頃、千石交差点付近到着 (4.7km、53分)
千石1丁目交差点で、白山通りから中山道(国道17号線)に入るのだが、並行すると思われる脇道を見つけ、巣鴨までこの道を歩く。脇道を歩く徒歩帰宅の方はほとんど見られす、ひとときほっとした気分になる。ちょうどこの頃、夜の帳が下りた。
●5.夜6時15分頃、JR・地下鉄巣鴨駅前到着 (5.4km、1時間)
巣鴨から蕨までは、戸田橋経由で中山道を一直線だ。しかし、駅前バス停に王子駅前行きの空いた都バスが停まっていて、ひと休みするにもちょうどよかったので、乗り込んで席に座る。王子に行くことも考えたが、車道はクルマで一杯で、バスの速度は歩くよりもはるかに遅い。結局一つ目のバス停(巣鴨4丁目)で下車した。出発待ち時間を含めて、500mが18分かかった。この時間で途中の主要地点への到着時刻を推測し、南浦和到着は9時半から10時頃と推測することができた。
#このバスに乗った時間・距離も、便宜的に歩行時間・距離に加える。
●6.夜7時頃、仲宿交差点到着 (9.1km、1時間45分)
新板橋と仲宿の間で、妻から「無事です」というCメールが入ったので、「歩いて帰っています」と返信をする。
仲宿交差点は三差路で、ここで山手通りと合流する。この交差点での人数が、道中最大だったが、すぐに青信号になったので、走って人ごみから抜け出した。
この辺りに、板橋宿がある旧中山道(並行する脇道)があることは知っていたが、探しはしないで先を急いだ。後で調べると、巣鴨駅前で地蔵通り商店街に入ると、旧中山道板橋宿を経由して、本蓮沼までおよそ6kmも脇道を歩けることらしいことがわかった。どんな道か、今度、歩いて確かめてみようと思う。
●7.夜7時25分頃、地下鉄本蓮沼駅到着 (11.2km、2時間10分)
お腹がすいてきたので、都営地下鉄三田線の本蓮沼駅そばでコンビニに入ってカツパンを買って、歩きながら食べる。コンビニでは、トイレに5〜6人の行列ができていた。オフィスで出発前に、トイレに行っておいたのは、正しい判断だった。
後で調べたところ、本蓮沼がこの道程の中間点になることがわかった。
●8.夜7時35分頃、地下鉄志村坂上駅到着 (12.2km、2時間20分)
志村坂上には、中山道の大きな一里塚がある。昔の旅人になった気分だ。志村の坂を下る辺りから、革靴のためか、疲れが出てきたか、歩くのは早いはずの私が、たくさんの方に抜かれるようになる。
歩いて帰るという選択をしたのは、足に自信がある元気な方が多いのだろう。都心方面へと走るバスには、満員の乗客が乗っていた。速度も遅いことだろうし、歩ける元気があることをありがたく思った。
●9.夜8時13分頃、戸田橋北詰(埼玉側)到着 (15.6km、2時間58分)
戸田橋がかかる荒川は、東京都と埼玉県の都県境だ。渡り切ったとき、「埼玉まで戻ってきた!」と思った。埼玉県に住み始めて18年。東京在勤とはいえ、やはり埼玉に地元意識を感じることがよくわかった。
橋を渡ってしばらく歩くと、「めん龍」という個人ラーメン店があったので、一服がてらラーメンとギョーザを食べる。お店には年配のおかみさんと、地域の方が3人。TVには、千葉のコンビナートの火災、宮城の津波の被災状況など、すごい映像が流れている。「神楽坂から歩いてきた」というと、「お疲れさまだねえ」と声がかかり、地震について妙にフレンドリーに話をした。
店の窓からは、たくさんの方が歩いて蕨・浦和方面に歩いていく姿が見えたが、店に入る方はいなかった。「ビールも飲みたいところだけど、家まで我慢」と言って、25分ほどで店を後にした。
#この食休みの時間も、便宜的に歩行時間に加える。
●10.夜9時5分頃、蕨宿南口到着 (17.9km、3時間50分)
戸田本町を過ぎた辺りで、地震のため側面の壁が崩れて、明かりが点いていないマンションがあった。数はわずかだが、埼玉でも建物への被害が出ているようである。
蕨は板橋の次の中山道の宿場町だ。蕨宿がある旧中山道(並行する脇道)にはなじみがあるので、迷わず脇道に入った。
脇道を歩く方の数は少なく、宿場町の伝統的な家屋を横目に見ながら、ひととき息抜きをすることができた。
●11.夜9時30分頃、文蔵3丁目交差点到着 (20.0km、4時間15分)
蕨宿北口の少し先で中山道と分かれ、地域の道に入り、徒歩帰宅の道も終盤戦になった。蕨高校の過ぎたところで、さいたま市(旧浦和市)に戻った。文蔵3丁目は、外環(国道298号)の側道との交差点。前に住んだ賃貸マンションがある町だ。
「久しぶりだなあ」とマンションの前を通った辺りで、友人から「大丈夫ですか」という電話が携帯に入った。
●12.夜9時45分頃、JR南浦和駅西口到着 (21.4km、4時間30分)
昔の駅までの通勤路を歩いて、南浦和駅西口まで帰ってきた(今住んでいるマンションは東口方面にある)。東口に自転車を置いているので、駅構内(跨線橋)に進もうとすると、シャッターが降りていた。
貼り紙を見ると、「通路内に危険な個所がある」とのこと。南浦和で暮らして18年目、初めてのことだ。仕方がないので、来た道を少し戻って、地下道を通って東口に向かった。
自転車置場には、夜10時前にして、たくさんの自転車が置かれたままになっていた。
#JR京浜東北線が復旧したのは、翌朝になったようである。
●13.夜10時頃、南浦和の自宅に帰宅 (22.5km、4時間45分)
南浦和東口からは、いつものように自転車に乗って家路を急いだが、自転車には空を飛ぶかのようなスピードを感じた。
無事に家に着いて、妻の顔を見たとき、歩いて帰るという判断をして良かったと思った。
#この自転車に乗った時間・距離も、便宜的に歩行時間・距離に加える。
===
妻が元気なことは確認できていたものの、家具が倒れたり、TVが転がったりして、たいへんなことになっていないかと心配した部屋は、棚から上に置いておいた箱やシュラフが落ちたぐらいだった。
埼玉南部の震度は6弱ということで、たいへんだったと思ったのだが、妻は「買い物に出かけていた」とのことで、地震(本震)の揺れには、ショッピングセンターの中で遭遇したそうだ。「たくさんの人が居たので心強かった」とのことだが、ショッピングセンターは商品が散らばったため、すぐに外に誘導されたそうだ(どうも、震度は5弱ぐらいだったらしい)。
風呂に入って温まり、黒ホッピーを飲んで、この夜は11時半頃に妻と一緒に就寝。前夜の私事の作業での寝不足、徒歩帰宅にもかかわらず、疲れはあまり感じなかった。