三河・春枯れ森で昭和にタイムスリップ

三河・春枯れ森で昭和にタイムスリップ 愛知県豊田市牛地,設楽町宇連


廃村 宇連(うれ)の分校跡です(閉校から40年目(H.19))。



2007/3/25 豊田市(旧旭町)牛地,設楽町宇連

# 15-1
平成19年に入り,「学校跡を有する廃村」リストの作成も足かけ3年目となり,調査の重点は見出すことから確認することへ移りました。「廃校廃村」の数も1000か所で落ち着き,「全国各所に散らばる廃校廃村の中から行きたい場所を探す」という贅沢な構図にも,すっかり馴染んできました。
リストの中から何を基準で「行く」場所を探すかですが,「行ってみなければ何があるかわからない」が,大きな要因として挙げられます。皮肉なことに「ネット上にレポートがない」ことが動機づけになります。幸い廃村探索はマイナーなテーマなので,そんな場所が全国あちこちにあります。
そして,まだ花粉症の嵐がおさまらない春一番の頃に訪ねたのは,愛知県・奥三河の廃校廃村,旧旭町牛地,設楽町宇連の2か所となりました。

# 15-2
この頃の愛知県は,製造業の活況を受けて「いちばん景気がよい県」というイメージが浸透していました。確かに名古屋の街には,大阪と比べると明らかに活気があります。しかし,三河の北東部,矢作川の中流域,豊川の上中流域,天竜川の中流域は意外に山が深く,静かな過疎の村が点在します。
牛地(Ushidi)は矢作川中流,岐阜県恵那市(旧串原村)との県境に位置する高度過疎集落です。学校,郵便局があった旧牛地集落は,矢作第一ダム(堤高 100m,貯水量 8000万立方m,昭和45年竣工)の建設によって水没しました。現牛地集落(黒谷)は,ダム湖近くの高台の代替地で,学校は昭和44年に現地に移転しました。生駒小学校は平成9年に閉校となり(最終年度の児童数は5名),現戸数(H.18)は龍渕寺というお寺さんを含めて3戸です。

# 15-3
宇連(Ure)は,豊川水系 宇連川の源流部に位置する廃村です。最寄りの集落(旧鳳来町川合)からは11kmも山に入った場所にあり,地図で見ると設楽町の飛地のようです。道の途中には宇連ダム(堤高 69m,貯水量 2911万立方m,昭和33年竣工)がありますが,宇連集落はダム湖の先端から3km先です。宇連の分校(神田小学校宇連分校)の閉校は昭和42年。これらのことから,宇連の離村とダムの建設は,直接の関係はないのではと推測されます。
愛知県は,昨夏岐阜県揖斐川町 旧徳山村を一緒に探索した水上さん夫妻,ばばしんさん,zinzinさん,きたたびさんの地元ですが,みなさん,牛地,宇連とも知らない様子です。mixiなどネット上で調整した結果,水上みなみさんと私とkeiko(妻)の3名で出かけることになりました。

# 15-4
愛知県の廃校廃村探索の実行は,3月25日(日)。天気予報は曇り時々雨,夕方より晴。「今いちな天気だなあ…」と思いながら大阪・堺の実家を出発し,名古屋で新幹線から名鉄に乗り継いで,知立で乗り換えて三河線若林駅に到着したのは朝9時頃。水上さんのクルマが今回の探索の足です。
典型的クルマ社会の豊田市街を走り過ぎて,川霧が立つ矢作川の流れをさかのぼる県道は,ライダーでもある水上さんにはなじみの道とのこと。しかし,奥矢作湖の中に徳山村と同じように水没した村があるとは思わなかったそうです。旧旭町の火葬場跡や矢作第一ダムの堤体で一服しながら,生駒小学校跡に着いたのは11時少し前。道の右手に見えた校舎はRC造2階建で,2階の窓には「きょうもげんきだ生駒っ子」という文字が貼られていました。



# 15-5
小雨の中クルマを降りて探索すると,校庭の隅にはニワトリが棲む鳥小屋があり,学校跡は何かに転用されている様子です。校舎の入口には「牛地屋内運動場」という貼り紙があり,クルマも2台ほど停まっています。しかし,10分ほどの校内探索の間,関係の方に出会うことはありませんでした。
旭町立生駒小学校は,へき地等級1級,児童数126名(S.34)。「旭町誌」には,明治6年に牛地 龍渕寺で開校とあります。移転(S.44)の前後の児童数は68名(S.42)と36名(S.44)。閉校前の最終年度(H.8)の児童数は5名。代替地に引っ越された方の数が行政の予測よりも少なかったため,大きな校舎となったようです。龍渕寺ともう一軒,家を訪ねてお話ができたにもかかわらず,学校跡がどのように使われているか,わからず終いでした。


# 15-6
小学校跡を後にして湖沿いに2kmほど上手にクルマを走らせると,急に視界が広くなりました。地図で確認するとこのあたりが旧牛地集落で,山側には花が飾られたお地蔵さんが立っていました。また,湖は水際まで簡単に降りることができ,ダム湖には珍しい親しみやすい雰囲気がありました。
この辺りから雨は本降りになり,ドライブも辛いぐらいになりました。「このまま山深い宇連に行くか,豊田市街に戻るか」。ダム湖を見下ろす旧串原村相走の商店跡の軒先のベンチで,しばし作戦会議です。ちょうど昼時でお腹がすいたところになぜか現れたのが軽トラの焼き芋屋さん。「渡りに舟!」と2本買って,焼き芋をほおばりながら3人話すと,「天気はきっとよくなるでしょう」と意見が一致して,予定通り宇連に向かいました。


# 15-7
設楽町に入り,コーヒー店で一休みしていると,携帯にきたたびさんから電話があり,「私も宇連に行きます」とのこと。mixiの「廃村コミュ」に,「午前中牛地,午後宇連」と予定を記した甲斐がありました。幸い,設楽町の中心 田口に着いた頃には,雨も上がっていました。
ダム湖を越えて,道が二股に分かれるところできたたびさんと合流したのは午後2時40分頃。ここでクルマを停めて,残り1km強は歩いて探索することになりました。道は舗装はしているものの,とても急で,横を流れる川も賑やかに水音を立てています。そのうち,川を挟んだ林の間に木造の廃屋が見えました。「どうやって渡るんだろう?」と,川の様子を伺ってみましたが,結局渡り口は見当たりませんでした。

# 15-8
しばらく歩くと,道の脇に林道の竣功記念碑と小さな祠がありました。林道の開通は分校の閉校と同じく昭和42年。クルマが入れるようになり,山深い小さな集落の暮らしは,この頃大きく変化したに違いありません。
古い地形図では,道の行き止まりに鳥居マークが記されています。これを目指して道を進むと,新しい物置と古い家屋がありました。宇連に住まれていた方が作業小屋として使われている様子で,物置前のサクラはわずかにつぼみを開いていました。スギが生えた苔むした石垣がある段々畑の跡を見ながらさらに進むと,川の流れの向こうによく手入れされた神社(諏訪神社)が姿を見せました。橋の左手には小さな滝があり,とてもよい雰囲気です。


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# 15-9
古い地形図を見ると,文マークは脇道に入った山の中にあります。しかし,その脇道の入口はダートで,急な傾斜の道を進んでも何もなさそうな雰囲気です。「とりあえず,何か痕跡がみつかればよしとしましょう」と,4人でゆっくり先を進むと,宇連山荘というプレハブの建物があり,クルマが停まれるスペースがありました。あたりはスギ林ですが,雑草の茂みは薄く,春の芽生えというよりも「春枯れ」という言葉が似合います。
雨あがりの山の空気を味わいながら,「文マークはこのあたりかな」と,道なき春枯れのスギ林を探索すると,行く手に木造の廃屋が2棟見当たりました。「もしかすると…」と,ニマリとしたことは言うまでもありません。「行ってみて何があるかわかった」,至福のひとときです。

# 15-10
縦に板が貼られた木造の廃屋に入ってみると,「カタカナ五十音」「ほんをよむしせい」「ありがとうといわれるように言うように」という貼り紙があり,それは間違いなく分校跡でした。その存在感に,4人とも昭和の頃にタイムスリップをしたような気分になったようです。
神田小学校宇連分校は,へき地等級4級,児童数11名(S.34)。「設楽町誌」によると地域の要請により分校が開校したのは昭和22年。閉校前の最終年度(S.41)の児童数は3名。この深い山の中,40年前にはここに子供たちの元気な声が響いていたと思うと,時代の流れを感じるとともに,「この先,時代はどのように流れていくんだろう」と頭に浮かびました。40年後,元気だったら私は85歳。どんな時代になっているのでしょうか。

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# 15-11
奥の棟は教師の宿直室だった様子で,教科書が落ちていて奥にはかまどがありました。山の中の先生のひとり暮らしはどんな様子だったのでしょうか。
また,手前の棟の廊下を見上げていると,「建築用材十石,杉皮十間,金壱千円也」などの提供物資・金額に提供者の氏名が書かれた木札が見つかりました。 神社や寺ではよく見かけるものですが,学校で見たのは初めてです。 集落と密着した分校だったことが偲ばれました。
私は気付かなかったのですが,水上さん,keikoは「こいのぼり」と書かれた木札を見て,こいのぼりが飾られた分校の姿を想像されたそうです。
満足感につつまれながら,クルマを停めた場所まで道を下り,夜は新城に用事があるというきたたびさんとはここでお別れとなりました。

# 15-12
夕陽を浴びながら帰り道をたどり,豊田市街に戻ってきたのは夜7時過ぎ。水上さんの馴染みのお店で乾杯をして飲み食いしていると,廃村探索の余韻がにじみ始め,尽きぬ話題に夜遅くの新幹線で埼玉に帰るという当初の予定はかき消えました。
その後,携帯電話でお誘いして,再会の乾杯をすることとなったきたたびさんのクルマで送られて名古屋駅に着いたのは,夜の12時。この夜はkeikoと太閤口方向のビジネスホテルに泊まり,翌朝は朝一番の新幹線で名古屋から東京・神楽坂のオフィスに出社しました。
牛地と宇連,特に宇連は昭和にタイムスリップするにはよい場所ですが,「ネット上のレポート」は,見ないで行くほうが楽しめるかもしれません。

(注) 宇連分校の宿直室の画像は水上さんにお借りしました。



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