丹沢・夏至の頃 訪ねた営林集落跡

丹沢・夏至の頃 訪ねた営林集落跡 神奈川県清川村札掛,山北町地蔵平


廃村 地蔵平(じぞうだいら)の分校跡そばに残る大震災遭難者精魂碑です。



2007/6/23〜24 清川村札掛,山北町地蔵平

# 19-1
1年近く凍結してきた関東の「廃校廃村」17か所(当時)めぐりですが,甲信越,東海の気になる廃村をめぐることができ,「訪ねよう!」という気構えができました。夏至の頃,梅雨の合間に出かけたのは神奈川県のふたつの営林集落跡,札掛(Fudakake)と地蔵平(Jizoudaira)です。
神奈川県は横浜市という全国第二の都市を擁し(約360万人,H.18),県の人口も平成18年に大阪府を抜いて全国第2位になりました(約884万人)。また,大阪府とともに過疎市町村がひとつもなく,へき地校の数(6校)は全国最小で,廃村や過疎という言葉からはいちばん縁が薄い感じがあります。
しかし,県の真ん中に丹沢山系があり(主峰 丹沢山は標高1567m),塔ノ岳の麓には札掛,西丹沢・大又沢上流には地蔵平という廃村が存在します。

# 19-2
清川村札掛(標高480m)は,「神奈川県 角川日本地名大辞典」によると,明治14年に製材・製炭のための入植が始まり,学校の創設は大正7年。集落の戸数は「一時は40戸にもなった」とのこと。往時は小田急線本厚木駅から清川村役場経由,札掛終点のバス(神奈川中央交通)が通っていました。
平成元年の休校以来,丹沢の山中にポツンと残る学校跡として知られていた丹沢分校は平成15年に閉校し,校舎などの施設は平成16年2月に撤去されました。往時の分校の様子は「廃墟ちゃんねる」Web(管理者 楓さん)の「緑小中学校丹沢分校」レポートに記されています。
現在,札掛には「国民宿舎 丹沢ホーム」,「神奈川県立 札掛森の家」という公共の施設があり,一定の人の出入りがあることが予想されます。

# 19-3
一方,山北町地蔵平(別名 大又,標高580m)は「山北町史 別編」によると,明治30年代に山仕事の方が入植し,学校(大又沢分校)創設は大正12年。分校には「最も多い時で40名の児童が在籍していた」とのこと。そして,昭和35年の分校の閉校と同時期に,住民の方はすべて山を下りたとあります。
「yamanoko」Web(管理者 y-kさん)の「地蔵平(大又)の旧跡調査」レポートには,地蔵平に関する詳細がまとめられており,「ようこそ! 山へ!!」Web(管理者 S-OKさん)の「再び 地蔵平へ!」レポートとともに,探索にあたり参考とさせていただきました。
地蔵平へ通じる林道のゲート(浅瀬ゲート)は通年閉ざされており,釣りや山登りを趣味とする方以外には来られることはめったになさそうです。

# 19-4
そんな神奈川県・丹沢の営林集落跡への出発は,6月23日(土)。ソロのツーリングで天気はおおむね晴。1泊の予定でしたが,予約はなしです。南浦和を朝9時40分に出発し,環七通り,東名道経由で,秦野中井IC到着は11時45分。幸い渋滞はほとんどなく,予想よりもすんなり来れました。
県道で秦野市街を抜けて,コンビニでおにぎりを買って,秦野側の最終集落 蓑毛,菜の花台の展望台,ヤビツ峠などで一服しながら,札掛に到着したのは昼1時20分頃。蓑毛−札掛は14km,人家はありませんでしたが,クルマやバイク,自転車はよく通り,ヤビツ峠近くには喫茶店がありました。
丹沢は山は深いのですが過疎の匂いはなく,大きな公園のような風情です。また,県道から派生する林道のゲートは,すべて閉ざされていました。


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# 19-5
札掛では,まず大きな赤い屋根の「札掛森の家」に入り,見学とあわせて管理人さんとお話をすると,森の家は森林ボランティアの方の基地として使われており,季節によっては宿泊も可能とのこと。また,10数年前から「丹沢ホーム」関係の方以外は住まれていないとのことでした。
丹沢分校跡の入口は,森の家の入口のちょうど反対側にあり,急で荒れた坂を上っていくと3段に分かれた敷地がありました。「廃墟ちゃんねる」Webのレポートと見ると校舎は2段目の敷地に立っていた様子ですが,すべり台や二宮金次郎像を含めてすべてが撤去され,往時の様子をしのばせるのは,石垣と階段だけでした。2段目の敷地の隅には「丹沢分校記念の碑」が建っていて,沿革と分校の校歌(山の子校歌)が記されていました。

# 19-6
緑小学校丹沢分校は,へき地等級3級,児童数18名(S.34),平成元年休校,平成15年閉校。営林集落としての活況は昭和30年代後半に終わり,昭和41年以降,児童数は多い年でも5名,最終年度(昭和63年度)の児童数は1名でした。校舎やすべり台などが残っている頃に訪ねたかったところです。
分校を後にして少し上手の「丹沢ホーム」のほうに歩くと,林業に関係するらしい平屋の建物と山の神の祠が見つかりました。関係の方には会いませんでしたがともに荒んだ雰囲気はなく,定期的に関係の方が立ち寄られている様子です。「丹沢ホーム」から先の道は,ゲートで遮られていました。
境沢沿いを歩いて戻った森の家の前では,若い森林ボランティアの方が子供に竹トンボの作り方を教えていて,管理人らしき方は傍らで昼寝をしていました。

# 19-7
探索を終えて札掛を出発したのは2時50分。「丹沢の山をぐるりと回って,丹沢湖あたりの宿に泊まろう」と,清川村宮ノ平(宮ヶ瀬湖),両国橋で山梨県に入って道志村,山中湖村,三国峠を越えて静岡県に入って小山町,再び神奈川県に入って山北町丹沢湖と約90kmを3時間で走りました。
宮ヶ瀬ダムは堤高156m,貯水量 1億9300万立方m,平成12年竣工。旧宮ヶ瀬集落の多くの方は,昭和58年頃に厚木市宮の里に集団移転しました。宮ノ平は住居用代替地で,水没地から移転した小中学校があります。山が迫っていないからか,大きな噴水があるからか,宮ヶ瀬湖には町の匂いがありました。
また,浅瀬ゲートの手前の三保ダムは堤高 95m,貯水量 6490万立方m,昭和53年竣工。丹沢湖畔では世附(Yoduku)集落の離村記念碑を見かけました。

# 19-8
週末ということで,丹沢湖には観光の方がたくさん居て,離村記念碑の影もどこか薄く感じられます。この日の宿は永歳橋近くの「落合館」。「素泊まりが気楽でよい」と思いきや,食事処は夜の7時にはすべて閉まっており,閉店食前の酒屋で調達したカップ焼きそばとパンで急場をしのぎました。
土曜の夜,団体客のカラオケで賑わう宿には,ご馳走よりも急場しのぎの軽食が似合っていた感じがします。この日の走行距離は218kmでした。
翌24日(日)の起床は未明3時40分。夏至近くだけあって空はすぐに白みはじめ,宿を出発してすぐ,永歳橋では朝焼けを映した富士山が大きく見えました。浅瀬ゲート前にバイクを停めて,地蔵平に向かって歩き始めたのは朝4時50分。あたりに人影はなく,気分は上々です。


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# 19-9
浅瀬ゲートから地蔵平までは,往時は森林鉄道だったという林道を歩いて8km。ゆるい上りが続くダートの林道を淡々と歩くのは案外たいへんで,「8km」は少々重く感じられる距離でしたが,1時間強歩いて千鳥橋を渡ったあたりから「地蔵平はどんな様子だろう」とワクワク感が出てきました。
道の左手のスギ林に集落跡の気配を感じ,しばらく歩いて右手にお地蔵さんを見つけ,地蔵平への到着を確信したのは6時35分頃。お地蔵さんは手入れされた地蔵堂に鎮座していて,白い装束を羽織っていました。お地蔵さんより少し上手,往時は民家が立ち並んでいたという広い空地まで歩くと,遠くに山登り風の方が3人いましたが,すぐに見えなくなりました。空地の隅に腰を下してパンを食べていると,釣りの方が2人やってきてご挨拶しました。

# 19-10
食事後は待望の地蔵平の探索です。まず,お地蔵さんより少し下手のスギ林を入ると2つ並んだ石碑が見つかりました。「大震災殉難者精霊碑」は大正12年の関東大震災,「遭難者精魂碑」は大正9年の水害に係わる碑とのこと。「yamanoko」Webのレポートによると,碑のすぐ上手に分校,すぐ下手に営林署の施設(治山事務所,休泊所,人夫長屋)があったとのこと。施設の雰囲気は,スギ林の中の石垣から垣間見ることができます。 次に営林署の施設よりも下手の山の神を探したのですが、スギ林の中、なかなか見つかりません。大又沢沿いをずいぶん歩くと,小高い塚が視界に入り,上には祠が奉られていました。山の神と林道の間には道があり,林道から見直すと往路では気付かなかった山の神をはっきり見ることができました。


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# 19-11
最後に「これは見つけたい!」と探したのは,「ようこそ! 山へ!!」Webのレポートに載っている鉄の風呂釜と林鉄の線路です。「東沢の左岸にある」という記述をヒントに,大又沢から東沢へと丹念に歩くと,沢から上った林の一角に風呂釜,線路,一升瓶などを見つけることができました。
三保小学校大又沢分校は,へき地等級4級,児童数8名(S.34),昭和35年閉校。その後,y-kさんにネット上で教えていただいた分校の配置図では,2つの石碑のすぐ上手に運動場を隔てて校舎があり,校舎は川側に教室,中央に職員室,道側に教員宿舎という配置でできていました。位置的な関係から推測すると,風呂釜は教員宿舎のものだったように思われます。風呂釜の場所から少し勾配を上ると,お地蔵さんがいる場所へ戻り着きました。

# 19-12
多くの収穫を得て,満足をして地蔵平を後にしたのは8時45分。玄橋のあたりに地面からニョキッと突き出た林鉄の線路を見つけてびっくり。曇り空,ゆるやかな下りが続く帰路は,1時間半で浅瀬ゲートに到達することができました。この間,2台のクルマと3組6名ほどの歩きの方に出会いました。
浅瀬ゲート前でジュースを飲んでくつろいでいると,ポツポツと雨の雫が落ちてきました。梅雨時のことなので,文句は言えません。
「落合館」に戻って身繕いをすると,すぐに大井松田ICを目指しました。東名道,環八通り経由で,南浦和に帰り着いたのは昼の1時半。この日の走行距離は115km(2日間のトータルは333km)。昨夜酒屋で買ったパンが残っていたので,お昼も東京IC近くのガソリンスタンドでパンを食べました。

(追記) 地蔵平は,同年11月23日(金・祝)に再訪し,「大震災遭難者精魂碑」上手の分校跡の敷地を確認することができました。川寄りの敷地ははっきりわかりましたが,道寄りの敷地には大量の土砂が入れられた様子でした。帰り道ではハンターに出会い,11月15日が狩猟の解禁ということを知りました。



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