バーチャル廃村紀行
バーチャル廃村紀行
福島県塙町殿畑,矢祭町追分
〜廃村は見つからなかったけれど・・・〜
殿畑で見つけた,銀色の立派な屋根の廃屋です。
2000/3/31〜4/1 塙町殿畑,矢祭町追分
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# 4-1
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塙(Hanawa)という福島県の町のことを調べたのは,旅に出る3日前でした。いちばんの目的は廃村探索ですが,塙に廃村があるという情報があったわけではありません。
秋田の佐藤晃之輔さんから送っていただいた河北新報(新聞;仙台市)に「国土庁によると1960年から98年までに,全国の過疎地域で消滅した集落は1712に上り・・・」という記事があり,これをきっかけに国土庁のホームページを見ると,過疎地域と呼ばれる1230の市町村の名前と,記事の根拠となる「過疎地域における中心集落の振興と集落整備に係る調査」(平成10年度)という論文を見出すことができました。
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# 4-2
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この過疎地域は,日本全国に対して市町村数で40%,人口で6%,面積では実に48%を占めるという,巨大な地域です。もちろん塙町も過疎地域に含まれています。
全国に過疎地域だけで1700以上も廃村があるのならば,行き当たりばったりにそれらしいところに出かけると,廃村が見つかるのではないかと思い,塙というまったく未知な田舎町が浮上しました。
水郡線という長距離ローカルJR(約140km)に乗るのも初めてで,郡山まで行ったら妻の実家(栃木県塩原町)にも寄れます。
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# 4-3
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塙町のホームページによると,町にはいくつか温泉があるとか,富永一朗さんというベテラン漫画家さんのイラストがあちこちにあるとか,小野田寛郎さん(ルバング島の小野田さん)の小野田自然塾があるとか,面白みのある話がありました。
宿は「志保の湯」という萱葺き屋根らしい山の一軒宿の温泉に決めました。お値段は一人で一部屋使って一泊二食9,000円です。
当日の金曜日は午後半休,上野駅発午後2時の「ひたち」に乗って,水戸で乗換え,磐城塙駅に着いたのは夕方5時少し過ぎでした。
改札をくぐると,「アサハラさんですか?」と志保の湯の宿主さん登場。気を利かせて迎えに来てくれたようです。
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# 4-4
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クルマに揺られて15分ほどで宿に到着。残念ながら萱葺きの宿は廃止になっていて,さっぱりした平屋立ての新しい宿となっていました。
宿主さんには,「廃村を探しに来た」とは言えません。「山の散策に・・・」が関の山です。
宿に着いたのは夕暮れの頃だったのですが,温泉に入って飯を食べて酒を飲んでTVを見るくらいしかやることがありません。
温泉は鉱泉で,源泉の温度は29度ほどということで今ひとつです。まだ初春の山中の宿は結構冷えます。仕方がないので,夕飯では普段はあまり飲まない熱燗など頼んで,明日の計画を練ります。
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# 4-5
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地図を見たところ,南の端の殿畑(Tonohata)あたりはかなり山が深そうですし,峠を越えた矢祭町(Yamatsuri)の追分(Oiwake),馬渡戸(Mawatarido)あたりは,廃村のような感じもします。
宿の方に塙町史を貸していただいたのですが,興味ある話は山間の矢塚(Yatsuka)という集落に分校があるというくらいのものでした。
宿の電話のところにタウンページがあったので,殿畑,追分,馬渡戸の現況を確認したところ,殿畑は3軒ほど,追分,馬渡戸は記載がなかったので,可能性は大と読みました。
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# 4-6
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殿畑入口発13時40分頃のバスを塙駅に戻る足と予定を立てて,宿の方にクルマで殿畑まで送ってもらって,4時間くらい探索しようとなりました。志保の湯から殿畑までは20分ほど,到着は9時少し前。宿の方もめったに来ることはないとのことでした。
殿畑は,10数戸ほどの明るい雰囲気の集落。この雰囲気は山が低くて雪もそれほど積もらないことからなのでしょう。
山のほうに行くと,「小野田自然塾1.4km,追分・矢祭8km」という看板。追分に向かう道はダートの林道。
今や定住人口がある集落に行く道はほとんど舗装されているので,「これはチャンスかも・・・」と期待が高まります。
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# 4-7
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ダートにはクルマもめったに走らず,せせらぎ沿いの林道には,秘境の雰囲気が醸し出されています。このあたりの山からはかなりの量の木材が搬出されているらしく,道沿いの所々に木材の山がありました。
なだらかな峠を越えて,追分集落の家が見えたところで林道は舗装道になりました。家の新築の工事をしているくらいですから,立派に元気な集落です。追分は矢祭町という隣町になるので,人の流れも矢祭の中心部の東舘に向くようです。
林道の延長は4kmほど,小1時間のよい運動でした。
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# 4-8
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追分という地名には分岐点という意味があり,地図でも追分で,東舘のほうに向かう道と,馬渡戸のほうに向かう道に分かれています。
馬渡戸に向かうと思われる道がダートだったので,「よし,行こうやないけ!」と気合を入れ直します。
歩いて20分ほどの山間はちょっと視界が広くなって,畑も広がる場所に着きました。
家は見当たらないのですが,壊れた作業小屋や道から入ったところに石垣のある広い平地があったりで,「これは馬渡戸の集落跡では」という感じもしないでもない・・・
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# 4-9
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といって,決め手があるわけでもなく,上り坂はだんだん険しくなってきました。干草が入っているらしい大きな建物があった所で,この先に何もなさそうな気配がしたので,前進を断念しました。
戻り道の途中で,フキを摘んでいるおじさんがいたので尋ねてみると,「ワシはもともと猟師なので,この辺の山は詳しいんじゃが,集落云々の細かい話はわからんで・・・」と連れない返事。何でも住んでいるのは栃木県ということ。
道から30mほど入った耕地に,手製の古い鍬が落ちていたので,これを記念とすることにしました。
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# 4-10
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来た道を戻った殿畑では,道沿いにしっかりした屋根のまだ新しい廃屋があって,山の暮らしの大変さが伺えました。
バス停には13時15分頃に到着したのですが,到着後すぐ地元のおじさんが「塙駅までなら,俺も行くから送ってあげるよ」と声をかけてくれて,あっさりと山歩きは終止符となりました。
おじさんは神奈川県の川崎出身で,「塙は四季の違いがはっきりしていて,なかなか住みやすい」とのこと。
確かに,今回の散策では枯草色が多くを占めていた山も,ひと月も立てば緑色に包まれることなのでしょう。
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# 4-11
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塙の駅舎には喫茶店やら富永一朗さんの漫画廊やら図書館やらがあり,なかなか洒落ています。
図書館で調べたところでは,江戸時代の塙は豊かな林業資源により天領だったとのこと。地味ながら,豊かな所なのですね。観光パンフのコピーには「ロマネスクタウンはなわ」とあります。
意外なところでは,駅前通りの中華料理屋さんには「四川料理」とあって,「凝っているなあ・・・」と思ったら,東京は世田谷で四川料理のお店の料理長をしていた方が里帰りして,オーナーシェフをしているとのこと。鳥料理のランチ(850円)は,とても美味でした。
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# 4-12
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後に国土地理院の1/25000の地形図で調べてみると,馬渡戸の集落は,私が入った道より下手の道を辿ったところにあるようでした。ようするに道を間違えたようです。大きな建物を示す印もあったので,古い鍬を見つけた場所が集落とは係わりがないこともわかりました。
しかし,最初から廃村があることを知っていて訪れるよりも面白い部分は多々あったので,このような結果にして,まずまずの満足感を味わうことができました。
「バーチャル廃村紀行」の経験は,何かしら,今後の廃村探索に生かされるように思えます。
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# 4-13
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まず,歩いて廃村巡りをするときは,事前にしっかり下調べをすること。国土地理院の1/25000または1/50000の地形図があるとよい。
次に,地元の宿に泊まったからといって,地元の廃村の話を伺える可能性は皆無に近いと考えるべきである。事前に役場の教育委員会(社会教育課)などに尋ねるのは有効かもしれない。
あと,タウンページの住所の表記は,地図の地名の表記とは異なることが多く,大した戦力にはならない。人文社の「日本地名総覧」に載っている郵便番号の下2桁が「00」の場所は,無人になっている可能性があり,参考になる。
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