中日新聞の記事によると、試験湛水から丸1年(2007年9月24日)の徳山ダム(岐阜県揖斐川町)の貯水量は満水時の59%(3億9300万立方m)、貯水位は標高377m(満水時401m)、本格運用は2008年春からはじまるとのこと。堤体(堤高161m)がある位置の揖斐川水面の標高は245m。1年で132mの高さの水がたまったことになる。
私はこの記事で廃村 戸入(とにゅう、標高360m)が水没したことを確信した。戸入からその奥の廃村 門入(かどにゅう、標高440m)に延びていた旧町道の距離は9km。旧町道はどこでどのように水没しているのか、戸入の船着場はどんな様子になっているのか、ホハレ峠越えの道や門入の現況とともに、「この眼で確かめたい」と強く思った。
2006年8月6日早朝、私は戸入で目覚めて、集落跡や下手の橋、船着場の建設現場などを探索した。「ダム湖にフェリーが走る」という構想を知ったときは驚いたものだった。2007年8月より、下開田(徳山会館近く)から戸入を結ぶ水資源機構の定期船が週に1回運航されるようになったが、フェリーが運航されるのは2008年春以降だという。
2007年10月6日(土曜日)、ホハレ峠から山道を下り、門入に到着したのは午後12時頃。「無事に戸入の船着場まで徒歩で往復できるだろうか」という心配はあったが、歩かないと先には進まない。離村記念碑がある広場(八幡神社跡)の四阿で昼食をとり一休みした後、身軽な格好でMさん、Iさん夫妻ともに門入を出発したのは午後1時頃だった。
昨年は多くのダンプが走った町道も、今はほとんど4人の専用道。川のせせらぎの音や鳥の鳴き声が清々しい。ゆるやかに下る道の幅は3人並べるほど広く、順序を自由に変えながら歩く足取りは軽やかだ。地図を見ても今どこにいるのか見当がつかないので、私は15分を1kmと仮定して、帰りの目印になるように枯れ枝を道に置きながら歩いた。
2時頃(門入から約4kmの地点)、川の流れは止まり、湖がその姿を見せた。せせらぎの音がなくなり、景色はどこか寒々しくなった。少し歩くと町道(立石谷−甚酌線)とダム管理用道路の境界を示す掲示板があった。2時15分頃(約5kmの地点)、新設されたダム管理用道路と旧道との分岐に到着。私たちは迷わず旧道へと進んだ。
使われなくなった旧道には草が茂った箇所があり、ヘビには注意が必要だ。どこか重い雰囲気の中、旧道が水没したのは2時半頃(約6kmの地点)。靴を脱いでズボンを膝までめくって水の中を歩いてみたが、5mほどで歩けない深さになった。分岐まで戻る時間のロスを心配したが、すぐ近くに上りの工事用ダートがあったのは幸いだった。
新設道は見晴らしがよいせいか、どこか雰囲気が軽い。「どこまで歩けば船着場へ着くのか」という心配は、3時10分頃(約8kmの地点)、高台に作られた戸入の離村記念碑がある広場(望郷広場)に到着することで解消された。広場からは、小さく船着場を見下ろすことができる。昨夏泊まった戸入の集落跡が水に沈んでしまったことを実感した。
広場から船着場までは500mほどだっただろうか。船着場には小さな浮桟橋とモーターボートがあった。その他、戸入では、真新しい避難小屋と公共のものらしき建物を見かけた。船着場を後にしたのは3時40分頃で門入に戻り着いたのは夕方5時半頃。道中出会ったのは、門入で公共の建設作業をされている方のクルマ一台だけだった。
「徳山村史」(1973年)によると、江戸後期(天保7年)の戸入は、本郷をしのぐ戸数があったという。以後も74戸・393名(1920年)、59戸・199名(1970年)と、本郷に次ぐ規模であり続けた。「徳山村の語り部」増山たづ子さんの故郷であり、神山征二郎監督の映画「ふるさと」(1983年)のロケ地でもある戸入の風景は、二度と見ることができない。
私はこの旅で戸入を訪ねて、「なじみがある村がダムに沈むことはとても寂しいことだ」と強く感じた。「下手の橋はふたりのお気に入りの場所」というIさん夫妻はさらに強くそのことを感じたに違いない。私はダムの建設に対する賛否は言えないが、徳山村で生まれ暮らされた方の寂しさ、村を想う気持ちには少しだけ近づけた気がした。
「戸入の船着場まで歩きたい」は、Mさん、Iさん夫妻、私、4人共通の想いだった。この日歩いた距離は約24km(所要は7時間半)。想いがかなった夜、門入の沈下橋のたもとで焚き火をしながら、流れ星を見ながら皆で飲んだお酒と食事は最高だった。皆が眠りに着いたのは10時半頃、周囲の明かりがない夜空はとても黒く、静かだった。
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(注) 立石谷は町道・管理用道路分岐点近くの沢の名前、甚酌(じんしゃく)は門入より2kmほど先、入谷沿いの地名である。かつて甚酌の近辺には、水銀鉱山に関連する集落があったという。
* 画像は、左:旧道の水没地点、右:戸入の船着場