僕はカヌーのような形をした、小さなボートを漕いでいた。
「すいませーん、乗せてくれませんかー?」
岸辺でひとりの女性が、こちらに向かって声を上げている。
僕は何とかボートを陸に寄せて、その女性を船に乗せてあげた。
「ありがとう。この川、どこへ続いているのかしら?」
「さぁ、どこへ行くのかなぁ」僕らは流れの行く先を見つめた。
ここは青空だが、向こうは空も景色も白っぽい。眩い光に包まれている。
女性はその美しい光を見つめて涙を流した。
「どうしたの?」僕は彼女に涙のわけを聞いた。

婚約者の男に、裏切られたのだという。
勤め先にはそのまま黙って寿退社をし、流産して後、彼女は次の仕事を探した。しかし、職はなかなか見つからなかった。
そんな苦悩の中、彼が子を儲け、家を買い、順調に出世していることを友人から聞いた。
スマホ画面に並ぶ、幸せいっぱいの彼の家族。『俺、妻と子供のために頑張ります!』
嘗て私が彼と語り、夢描いたものが、そこに並んでいた。
憎しみや悲しみに蝕まれ、不安定になっていく心。こんな自分は、もう嫌だ。
彼女は疲れ果て、ふらふらとさ迷い歩いて、この川辺に辿り着いたのだという。
「あなたはどうしてここへ来たの?」彼女は涙を誤魔化すように言った。

しばらくの間、僕らは口を噤み、流れ行く小船に身をゆだねていた。
このとき、おそらく僕らは、同じことを考えていたに違いない。
人生の意味について。生きる意味について。この命の意味について。
彼女の美しい横顔と、その頬を伝う涙を見ていたとき、僕はふとひとつの確信を抱いた。
彼女はここにいてはいけない。この人を、この先に行かせてはいけない!
僕は急いでボートを川縁に寄せようとした。性急な僕の行動に、おどろく彼女。
しかし、川の流れはさっきよりもずっと早くなっていて、とてもボートを制御できそうにない。
「僕が川に飛び込んで、泳いで向こう岸に渡る!」
彼女は目に涙を浮かべ、嬉しいような、困ったような、複雑な笑みを浮かべていた。
僕は叫んだ「君の名前と住所を教えて!」「私は奏(かなで)。住所はー…」

どすんっ!!
急に体ごと放り出されるような衝撃を覚えて、僕は目を覚ました。
視界には、天井から伸びた首吊り用のロープが揺れている。
(僕は失敗したのか…)いや、今はそんなことどうでもいい。奏!
驚くべきことに、奏の口にした住所は、うちの向かいにあるアパートの一室だった。
ふたりの距離は、彼女が川縁から僕のボートを呼んだ距離とほぼ一緒だ。
僕はアパートの階段を駆け上がり、廊下に設置してあった防災用の斧で、奏の部屋のドアを叩き壊した。
部屋はガスで充満していた。僕はガス線を閉めて、手当たり次第に部屋の窓を開けながら叫んだ。「奏!かなでー!」
彼女は居間で倒れていた。僕は彼女の細い体を抱き起こし、その名を何度も呼んだ。
「奏!目を開けてくれ、奏!僕らは…僕らは!」
奏はうっすらと目を開き、僕の頬に手を伸ばす。そして、目に微笑みと涙を浮かべて言った。
「もう一度、生きてみます」