しろくま3 
しろくま
Present BY Kasumi Yahagi

〃7〃



 私は白クマと浴室に行く。
 白クマは浴室の戸を爪の先で器用にあけて、そのまま中に入った。
 そうか、彼女はそれが裸なのだと、私は服を脱ぎながら思った。
 人が脱衣場で立ち止まらずに浴室に入って行く、と言うことに私の頭は慣れていないのだ。
 熊もまた然り。

 狭い浴室に、一人と一頭。
 私はあまりに広い彼女の背中を呆然と見上げた。
 ありったけのボディーシャンプーをその背中に浴びせ、爪を立てないように泡立たせる。
 「ぁぁぁ。とっても気持ちいいわねぇぇ」
 何やら満足している。
 白クマはあっという間に全身泡だらけになった。
 併せて、浴室も隈なく泡だらけになった。
 あまりに広い背中なので私の腕はすぐに重くなってしまった。

 私は深いため息と共に、浴槽に入って休ませて欲しいと願い出た。
 「えぇ、もちろんよ」
 白クマはおっとりとした口調で言った。
 私はお湯につかってしばらく。
 泡だらけの浴槽の中で、天井にくっついている泡をぼんやりと眺める。
 ふと、白クマに目線を移すと、彼女は礼儀正しく膝をおって座り、私をじっと眺めてる。
 私が再び立ち上がるのを待っているようだった。
 そう見つめられてはしかたがない。
 私は浴槽から出て、今度は白クマのお腹にとりかかることにした。
 白クマが「上向きに寝ころがった方がいいかしら?」と言うので、そうしてもらい、後悔した。
 私は足の踏み場を失う。
 仕方が無いので、あなたのお腹の上に乗ってもいいかと尋ねた。
 「えぇ、もちろんよ」
 白クマはおっとりとした口調で言った。

 白クマのお腹にまたがって、その強靭そうな胸を指の腹で洗う。
 白クマは首を上にむけて気持ちよさそうに目を瞑った。
 一瞬、彼女が猫に見えた。
 猫みたいよと喉まで出掛かったけれど、私はその言葉をのみこんだ。
 私の知らない常識の内に、この白クマがつかみ掛かってきたら堪らない。
 「まぁ!猫ですって!この私を猫よばわりするの!」
 浴室で血だらけになって死んでいる自分の姿を想像し、私は勝手にぞっとした。
 テレビの世界では、女がよく風呂で死ぬ。
 ホラー映画や探偵モノ、なんとかサスペンス劇場なんかで見たことのない人はいないと思う。
 男が風呂で死ぬシーンなんて滅多に見ない。
 しかし、女は風呂で死ぬのだ。
 おかげさまで、女のシャワーシーンは私に死を連想させる。
 でも、大丈夫かも。
 ドラマでは、女が風呂で白クマに殺されるシーンなんてなかったもの。

 気がつくと、白クマが私をじっと見つめていた。
 視線は私の体を這っている。
 しまった!と、私は思った。
 この白クマは毛を削がれた七面鳥を見るように、裸の私を見ているのではないか。
 私はこれから食べられてしまうのだ。
 しかも風呂で。
 私は、わざわざ服まで脱いで熊に食べられに来た律義な女になってしまったのだ。
 しかも風呂で。
 隠していた恐怖心がここで一気に沸き上がる。
 私は白クマのお腹にまたがったまま、唇を震わせて命乞いの台詞を考えた。
 「あの、私はあなたが猫だなんて思っていません」と、私は言った。
 本当は「あの、私なんか食べても美味しくないですよ」と、言うつもりだった。
 でも、もういいの。
 似たようなものだから。

 白クマはそれを聞いてしばらく。
 そして、ゆっくりと首をかしげ、微笑んで言った。
 「あらあら。こんな大きな猫がどこにいるのかしら?」
 「いないと思います…」
 私はあなたが猫だなんて思っていません。
 私はあなたが私を食べるだなんて思っていません。
 私は自分がかわいいだなんて思っていません。
 それは、思ったから言うのだ。
 「猫の方が好きだったら、ごめんなさいねぇ」
 白クマは本当に申し訳なさそうに言った。
 「ごめんなさい、そうじゃないんです」
 「わかってるわ。気にしないで」
 白クマは微笑んで言った。

 「さぁ。今度は私があなたを洗ってあげる番ね」
 私は息を呑んだ。
 泡だらけの白クマと見詰め合ってしばらく。
 奇妙な静寂だった。
 居間にある時計の針の音がここまで聞こえてきそうだった。
 そして、地に寝そべっていた左右の大きな熊の手が、突然私につかみかかってくる。
 私は逃げ様にも逃げられない。
 なぜなら、この浴室いっぱいにねそべっている白クマの上に、私はいるのだ。
 自分で洗います!と叫んだときは遅かった。
 そう、もう遅い。
 助かる人は声を上げて叫んだりはしない。
 喚き散らすのは、いつも死に役の仕事。
 「あなたお風呂に入って体も洗わずに出ているの?いけない子ねぇ」
 白クマは軽く私を持ち上げながら、風呂に入るということについての講釈を始めた。
 風呂は命の洗濯だと言う。
 白クマは私を膝の上に乗せて、後からその大きな肉球で私の体を撫で洗う。
 私は白クマの作った深すぎる膝ソファーから腰を起こせないでもがいた。
 「あわ♪あわ♪あわ♪」
 と、彼女は歌い始めた。
 「どぉお?気持いいでしょう?」
 白クマは上機嫌で私をお人形さんのように扱う。
 私は諦めて体の力を抜き、その肉球を全身で感じた。



〃8〃



 私は自分の部屋でぐったりとしていた。
 白クマを洗い、それに洗われ、箪笥へパジャマを取りにいく気力さえそがれている。
 私はろくに服も着ず、下着一枚でベッドにうつ伏せになった。
 体からは、必要以上に石鹸の香りがする。
 いつもの三倍は石鹸を体に擦り付けられた。
 私はもう一度白クマの事を考えてみた。
 しかし、私はもうあの白クマについて、何を疑問にすべきかさえ決められなくなっていた。
 彼女はれっきとした白クマのはずで、あんな風に人間の言葉を喋るはずがない。
 当たり前過ぎる事というのは、考えの枠から捨象されることが多い。
 そうやって人は、愛と平和のために拳銃を握るのだ。

 コンコンと、部屋をノックする音がした。
 「ねぇ、マキちゃん。牛乳はあるかしら?」
 「今、そっちにいくわ」
 服に袖を通しながら居間へ向かった。
 白クマはおもいっきり腰を丸めて冷蔵庫を覗き込んでいる。
 牛乳はなかった。
 しかし、他のものは飲めないという風だったので
 近くのコンビニへ牛乳を買いに行くことにした。
 「あら。いいわよ。私がいくわ」と、白クマは言った。
 冗談ではない。
 白クマに近所をほっつき歩きまわらせるわけにはいかない。
 それに、人に見つかればまっさきに捕獲されてしまうではないか。
 私は白クマを推し止め、急いでコンビニに走り、牛乳を買って戻った。
 「ごめんなさいねぇ、わざわざ買いにいかせちゃって。寒かったでしょう?」
 白クマは両手をへそ前に組んでもう仕分けなさそうに言った。

〃9〃


 居間で寝ているはずの白クマが私の部屋に入ってきた。
 のっそりと、黙って近づいてくる。
 私は寝ているフリを止められない。
 少しでも動いたら、同時に彼女の爪が振り落ちてくるかも知れない。
 「マキちゃん。寝ちゃった?」
 背中に柔らかい声が降り注ぐ。
 私は安堵と共に体を起こし、スタンドライトをつけた。
 そこには少し困ったような白クマの顔。
 ベッドのそばにペタンと座りこんでいる。
 その姿は、大きなぬいぐるみと大差ない。
 「どうしたの?毛布が足りない?」
 「違うの。マキちゃんと一緒に寝ようと思って」
 私は思い切り身構えてしまった。
 「・・・ここで?この小さなベッドに二人で?」
 「ううん、ベッド壊れちゃうから向こうで。その毛布を持って来てくれる?」
 私は一つ返事で毛布と枕を運んだ。
 思えば、私はこの白クマの何気ない言葉の全てに従っている気がした。
 実際、従っていたと思う。

 部屋のすみに置いてある、インテリアのスポットライトだけをつけておく。
 電球は部屋をオレンジ色に照らしている。
 突然、白クマが脇に手を入れおもむろに私を後ろから抱き上げた。
 私は小さな悲鳴を上げる。
 彼女は私を抱きかかえたまま、床へペタンと座りこんだ。
 ふわふわした羊顔負けの白い毛並みが、私の体を指先まで包み込む。
 まるで水中に、宇宙に浮かんでいるような、どんな高級ベッドだってこうは行かないだろう。
 白クマを見上げ、ふと目が合うと彼女は目を瞑って気持ちよさそうに体を左右にゆっくりと揺らした。
 そうされると、首から順に体中の力が抜けて、私はそのまま、この正体不明の白クマに身の全てを委ねてもいい気がした。
 この白クマに殺されようと、犯されようと、食べられてしまおうと。
 私は自分の持ちあわせていた常識の全てを忘れて、この白クマとの世界に身を浸した。
 それがいけないことであるようには思えなかった。

 白クマの揺り篭にゆられてしばらく。
 私はふと自分の身の内を切り出した。
 「私のお母さん。私が高校生の時に死んじゃったんだ」
 人にこんなことを言うのは始めてだった。
 大した事の無い不幸なら、いくらでも人に愚痴った。
 だけど、このことを自分から口にすることは、一生しないと思っていた。
 それなのに。
 それを聞いて、白クマは慰めるようにうなずいた。
 私の心を全て見透かすかのように。
 「ごめんなさい」
 私は謝る。
 白クマは小首を傾げた。
 どうしてあやまるの?とは聞かなかった。
 聞かないでいてくれた。
 だけど、私は心の中で白クマに答えた。
 あやまったのは、同情してもらいたくてそんなことを言ったから。
 なぐさめてもらいたかったの。
 名前を呼んで、頭をなでてもらいたかったの。

 白クマはそっとわたしの頭をなで、爪で器用に髪をとく。
 私はその大きな手を掴んで、肉球の部分を頬に当てた。
 柔らかくて、暖かかった。
 まるで、自分が白クマの子供になったような気がした。
 それから、私は思いきりその白クマに甘えてみる。
 無意味に抱きついてみたり、その大きなお腹をくすぐってみたりした。
 すると、彼女は嬉しそうに身を捩って、私を両手で抱きしめる。
 私の体は、その胸に柔らかく沈んだ。
 ぎゅっと抱きしめられると、とても気持いい。
 天国はきっとこんな場所なんだろうなと思った。

〃10〃

 朝、目が覚めると白クマの姿はなかった。
 私は飛び起きて部屋中を探しまわる。
 しかし、彼女はもうどこにもいなかった。

 私はソファーに膝を揃えて座った。
 行儀正しく膝に手を添えて、風に揺れるカーテンをしばらくぼんやりと眺める。
 クリーム色のカーテンがいつもより明るく光っていることに気づいた。
 外は、雲一つない快晴。
 太陽の光が雪に反射して、外をよりいっそう明るくしている。
 私は淡く光るそのカーテンを見つめてしばらく。
 風が優しく、私の髪を梳く。

 “あら。素敵なお洋服ね。とても可愛いわ”

 彼女はここに座って、私にそう言った。
 もう一度、その言葉をなぞって見る。

 「あら。素敵なお洋服ね。とても…」

 声に出したら、鳴咽で言葉にならなかった。
 涙があふれて止らなかった。
 私は子供のように、顔を覆って泣いた。
 私はいつだって、失ってから気がつく。

 もっと、いろいろなことを聞きたかった。
 もっと、いろいろなことを伝えておけばよかった。
 もっと、優しくしておけばよかった。親切にしておけばよかった。
 ミルクだって、ビスケットだって、ボディーソープだって、いっぱい用意しておいて、もっと、もっと。

 だって、彼女は白クマで、人間の言葉を喋るはずがない。
 コップで牛乳を飲んだり、私の体を洗ってくれたり、添寝してくれたりするはずがない。
 そもそも白クマは、こんな都会のど真ん中に現れたりはしない。人を尋ねてきたりはしない。
 そんなはずがない。それはおかしなことで、まちがったことだ。

 私はやっとそこから抜け出せたというのに、彼女にその事を伝えられない。
 彼女はそこから私を救い上げて、そのまま立ち去ってしまった。
 私は冬の間、牛乳とボディーソープを沢山用意して、白クマの訪問を待ち続けた。
 しかし、彼女はとうとう現れなかった。
 やがて冬は終わりを告げた。

〃11〃

 半年が経って、夏がやってきた。
 私は夏がどうにも苦手で、今朝はクーラーをガンガンに効かせて肌布団にくるまって寝た。
 私にはそれくらいが丁度よいのだ。
 そろそろ起きようかという頃、玄関から戸を叩く音がした。
 まさかと思って飛び起きる。
 しかし、ドアの小窓を覗いてみると、そこには誰もいなかった。
 彼女なら大きいから一目でわかる。
 私は一応ドアを開けて左右を確認した。
 やはり、誰もいない。
 諦めて戸を閉めかけたその時、足元から声がした。

 「起こしちゃってゴメンナサイ。中に入ってもいいかな?暑くて、溶けそうなんだ」

 部屋が冷えていてよかったわね。
 私はそのペンギンを中に入れた。



 † あとがき †

 当初は人に見せるつもりがなかったので、おもいきり勝手気侭に書いたものです。
 読み終えて、頭の中ハテナマークいっぱいの人も少なくはないかと思います。
 これはある種の抽象論なので深く考えないで下さい。人によって捕らえ方様々です。
 お読み頂いた公開版は、多少の手直しと、物語のキーとなる部分を太字にしてみました。
 いかがでしたでしょうか。

 何より、しろくまとマキとの楽しい一時を感じて頂けたならいいなって思っています。


BACK EXIT