私には幼い頃の記憶がない。
それは、子供の頃に命に関わるほどの重い病にかかったからだと、母は言った。
それがある日、私は思い出したのである。そのころに慣れしたんだ、玩具、着物、友達。
そして、私に乳を飲ませ、あやし、添い寝をしてくれた、もうひとりの母のことを。
とある桜の木の下で、突然に、私は自分の過去を知った。
ふと振り返ると、父と母が私の後ろに立っていた。
私が何を思い出したのか分かっている、そんな顔をしていた。
私は自分の記憶を、父と母に訴えた。私を愛してくれた、もうひとりの母のことも。
すると母は、もう一人の母、乳母のお袖のことを、私に話して聞かせてくれた。
重い病に倒れ、医者にもう長くはないと言われた、幼子の私。
涙に暮れる父と母。ところが、翌朝私はまるで何もなかったかのように健康を取り戻した。
屋敷中が大きな喜びに沸きたった。父は近所の人々を招き、この奇跡を祝って宴を催したほどだった。
しかし、宴が夜を迎えると、にわかに乳母のお袖が具合を悪くしてしまう。
一体彼女の身に、何が起こっているのか。お袖は翌日、眩い朝日の中で、その若い命を終えた。
お袖は死の床で父と母に言った。
「私の祈りは聞き届けられました。実は、私は不動様にこの子の代わりに、
自分が死ぬことをお許し頂けませんかと、懇願したのでございます。
願いは叶えられました。私は今、とてもしあわせです。
なぜなら、この命を愛する人のために使うことができたのですから。
ご主人様、私からひとつお願いがございます・・・」
主人はお袖の手を握り、涙ながらに言った。「なんでも言ってくれ!」
「私は不動様と約束しました。願いが果たされたなら、お寺の境内に桜の木を植えると。
ですが、今の私にはもう、自分でそこに木を植える力が残っておりません。ご主人様。
どうか、私に替わってこの約束を―」
力強く頷く父と母。お袖はそれに応え、口元に笑みを浮かべたまま、息をひきとったという。
お袖の葬儀が済むと、父と母は探し得る中で最上の桜の若木を、西法寺の境内に植えた。
それが、今私の目の前に聳え立つ桜の木。美しい乳白色の花びらを散らしている―。
なぜ、乳母の存在を隠していたのかと私が問うと、母は涙ながらに言った。
それが、お袖の願いだったからだと。
この子には、ひとりの優しいお母さまがいる。
それで、十分ではありませんかと。
そこに、悲しい物語はいらないのだと。