【7】 朝がくる前に目がさめて、確かに腕の中にいる体温を感じた後、それが『彼』だと分かった途端にそれだけで胸が喜びにあふれる。けれど、腕に力を入れたらそのまま彼を好きなだけ貪ってしまいそうで、目を閉じてただ彼の感触とその匂いを感じるのもいつもの事だ。 セイネリアは自嘲の笑みを浮かべてから、シーグル、と愛しいその名を声に出さずに唇だけで呟いた。そうしてただただ彼を今抱いているというその事だけを実感出来るように意識を向ける。今のこの時間をほんの少しでも惜しんで、ただ彼を感じようとする。 『愛しているわ、セイネリア』 だがそこに、唐突に赤い髪の女が幸せそうに呟くその姿が頭に浮かんで、セイネリアは軽く歯を噛みしめた。 思い出してからは最近ずっと、母親の記憶が何をするにもセイネリアに付きまとってくる。その度に思考が止まって決断が鈍りそうになったことも一度や二度ではなかった。自分が殺した女に思慕の情など感じないのに、女の笑顔と愛しているという声に酷く胸が苦しくなる。息苦しくて、鼓動があがって、無性にシーグルに触れて彼の存在を確かめたくなる。その衝動を押さえるのは困難で、彼に触れる代わりに指輪を握りしめてどうにかやりすごすのがいつものことだった。ただその代わり、毎夜見る夢はいつでもシーグルに関する悪夢という訳ではなくなって、半数近くはその女の夢になった。母親の夢の時は、彼を抱いている時のような安眠は得られなくてもまだ眠れるだけ前よりも精神的負担は軽くなった。 それでも、セイネリアは現状をそのまま続ければいいなどとは思ってはいなかった。 とはいえ、どうすることが最善なのかわからないのは変わらない。なぜ、自分を押さえられなかったのか、どうすれば自分を安定させる事が出来るのか。それを考えてみても今のところ確実に出せる結論は感情の高ぶりのままに彼に触れてはいけないとそれくらいで、どう考えても根本的な解決になりはしなかった。このままではいつか破綻すると分かっているのにいつまでも打開策が思い浮かばない。自分の無能さと臆病さにただ苛立つだけだった。 おそらく一番建設的な解決方法は、彼にすべてを打ち明ける事なのだろう。だがそれでも自分自身の状態が変えられないのは変わらない。そうする事で自分の感情面は今より安定したとしても、彼の心には陰を落とす事になるだろう。それくらいなら自分が耐えていた方がマシだとセイネリアは思う。 「ん……」 僅かに唸ったシーグルが寝返りをうって、体をこちらに寄せてくる。春とはいえ少し肌寒い朝方は、眠っているシーグルが無意識に体温に求めてくっついてくることがある。そんな彼を感じるのはかつてはこの上なく嬉しく幸福だと感じる瞬間だった筈なのに、今はそのまま彼を抱きしめてやる訳にいかなくて自分を抑えるのに苦労する。……冬場はそれが辛くて、起きたらすぐに部屋を出て行く事も多かった。 基本的にはシーグルは他人の気配に聡い。けれども、セイネリアが先に起きてベッドを出ても、最近のシーグルはまず気付く事はなかった。それは彼が疲れているから……というより彼が普段自らを疲れさせているからで、彼は自分が来ない夜はかなり遅くまで彼の部下となったアウド・ローシエと剣を合せて、くたくたになるまで体を動かしてから寝ているらしい。表向きはあの男のリハビリと言っているが、精神的に負担がある時、自分を徹底的に疲れさせる事でストレスを発散させるのはシーグルが昔からがやっていた事だった。だから、今回もその所為なのは間違いないだろう。 シーグルに精神的負荷を掛けている……それを分っていても、彼は大丈夫な筈だとセイネリアは自分の心に言い聞かせる。彼の精神的な負担を少しでも軽減する為、彼の傍には考えられるだけ彼を支えられる人間を置いた。シーグルは自分と違って、大切な人間がいればいる程強くなれる。彼を大切にする人間、彼が大切にする人間、その誰もが彼を強くする。けれども――……。 「今、お前がここにいるのは、俺の為か?」 寝返りをうったせいでこちらに寝顔がよく見えるようになったシーグルの顔をセイネリアは見つめて呟く。直後、自分でも馬鹿な事を言ったと自分を嘲笑う。 眠っていると普段の彼からは想像出来ないくらい子供っぽく見えるその顔は、それでも彼に拒絶されている時はいつでも苦しそうに眉が寄せられていた。……もっともその頃は彼が自ら自分の傍で寝てくれたのではなく、無理矢理抱いて気絶させていたからではあるのだが。 彼が、自分を受け入れてくれたのは何時からだろう。 彼が、自分を愛してくれたのは何時からだろう。 恐らくその時から奇跡は始まった。彼が自分と同じ時間を生きられると分かった時、どれほどの喜びを感じたか――シーグルは知らなくとも、セイネリアにとっては絶望が希望に変わった瞬間でもあった。 『愛しているわ、セイネリア』 また、セイネリアの頭の中に赤い髪の女の顔が浮かぶ。女は幸せそうな笑顔で見つめてくる。セイネリアはその女につられるように、『愛している』とまた声に出さず唇だけで呟いて、触れられる場所にあったシーグルの髪に口付けた。 彼が、彼だけはずっと傍にいてくれるというなら、自分を縛る全ての呪いも許せる程の……それは、確かにセイネリアにとっては奇跡だった。 「よーし、俺はこれな!」 「ちなうの、それぇおれのー」 「了解しました陛下、大人しくお座りになってお待ちくださいませ」 と、ウィアが手を伸ばそうとしたのに抗議して頬を膨らませるシグネットの頭をフェゼントは撫でた。そうすればウルダが専用の椅子を引いて、そこにシグネットがよじ登るようにしてから座る。本来なら抱き上げて座らせてやる歳なのだが、シグネットが自力で座りたがるので護衛官の一人が足場を作ってくれたのだ。 シグネットはまだ2歳半の幼さだというのに、出来るだけ人に頼らず自分でやれる事はやろうとする。大人になっても座っているだけで何から何までしてもらえる立場なのに、シグネットは一人で出来るという事に拘りを持っているようだった。それは多分、母親であるロージェンティがあまり会えない上に厳しい事と、父親であるシーグルの話を護衛官達にさせると熱が入って褒めまくる、というのが原因の一つではあるのだろう。ロージェンティがどれだけシーグルを愛していたかを感じとれている分、父に少しでも近づいて母親に見てもらいたい、褒めてもらいたいというのがあると思われた。 「ちぇーやっぱり、王様には勝てないよなぁ」 「うん、おれのかちー」 ……ただどうも、ウィアに対しての対抗心もあるようだとフェゼントは思うのだが。なにせ誰よりも一番傍にいる時間が長いのがウィアなのだから当然といえば当然だが、シグネットはウィアにくっついて歩いてはウィアのマネをよくする。言葉遣いに関しては危惧していた通りウィアの口調がうつってしまったらしく人前に出る度にはらはらするくらいだ。ただ意外な事にロージェンティはそこまで気にしていないようで、4歳まではそのままでも構わないと言っていた。 『4歳になったらアルスオード様がシルバスピナ家に引き取られた時の話をしてあげてください。それから、ちゃんとした言葉遣いを教える先生をつけましょう』 そう言っていたところからすれば、息子の父親への思慕と対抗心を彼女は理解しているのだろう。あとは、自分の息子を信頼しているというのもあるのか。 「今から食い意地が張っているようでは将来が心配ですわね」 そこで唐突に、既にテーブルについて大人しく自分のお茶とケーキが運ばれるのを待っていた少女が小さなシグネットにきつい声を掛けてきた。 「お父上であらせられるアルスオード様はほんとうにお綺麗な方でしたのに、シグネット様はきっとでぶになるんですのね、折角あの方に似てらっしゃるのに残念ですわ」 「カリストラ様、陛下はまだ小さくていらっしゃいますから……」 「いーえっ、小さい頃から気にしていないとでぶになるって先生が言ってましたわっ」 「カリストラ様、大丈夫です、もう少しして陛下が剣を習い始めたら太る余裕などなくなりますから。男性はあまり運動をしない貴婦人方とは違うのです」 ファンレーンの言葉に、それでも子供らしくぷくっと頬を膨らませるカリストラだが、久しぶりにこちらのお茶会に参加できるという事で今日は朝からかなり楽しそうだったと侍女たちからは聞いていた。この部屋はどうしても男ばかりになってしまう為、ターネイやファンレーン等、ある程度身分のある事情の分かる女性が一緒ではないと彼女はこの部屋に来る訳にはいかなくて、となれば当然午後のお茶会にも出られないのが常だった。彼女は彼女で教育係の別の女性達とのお茶会があるものの、やはりシルバスピナの屋敷からアッシセグまではずっとこちらの皆とのお茶会に参加していた為仲間はずれになったような気がしていたのだろう。最近ではシグネットもお茶会の席につくようになった所為か、ファンレーンは顔を合わせる度にせがまれて大変だと言っていた。 「でぶになる? しーうーもでぶ?」 「違いますわっ、アルスオード様は男の方なのにほっそりとしていらして、それはそれはとっってもお綺麗で、なのに強くていらっしゃいましたわっ」 「かりすーもしーうーすき?」 そうすれば少年王の婚約者である少女は顔を真っ赤にして叫ぶ。 「す、好きとかいう言葉は気軽に言ってはいけませんのよっ」 すみませんそれはウィアの所為です――とやりとりを見ていて思わずフェゼントは彼女に謝りたくなったものの、赤くなった少女はそこで丁度よく目の前に皿が置かれた事で無言でフォークを持ってケーキを食べ出した。それをじっと見ていたシグネットは、自分の目の前に置かれたケーキの皿を持つと、隣のウィアに差し出すように押した。 「……あげる ちーさいのでいいっ、でぶになぅから」 ちょっとしょんぼりしたその顔は可愛らしくて、思わずフェゼントも笑ってしまう。それはこの部屋にいる大人たちにとって皆同じらしく、テーブルにいる面々もだが、壁際で見ている護衛官達の顔もにやけっぱなしだった。 「いーんだよ、まだまだぐんぐん成長するんだからお前は好きなだけ食ってもっ、んででっかくなれ」 「うぃーあーよりおっきくなれる?」 それには、ファンレーンがいる事で口を出さないように我慢していた護衛官達からもぷっと吹きだす笑い声が起こる。 「そ、そうだな、なれるんだろーなー、なにせシーグルの子だしな」 そこでひきつった声でそう言いながらケーキを食べだしたウィアに代わって、向かいに座っていたファンレーンがにっこりとシグネットに微笑み掛けた。 「はい陛下、きっとすぐそこのウィア先生より大きくおなりになれるかと」 「ほんとー? らーくよりもー?」 「えぇ、陛下ならきっと」 「うーだ(※ウルダの事らしい)よりもー?」 「そうですね、たくさん食べてたくさん剣を振っていればおそらく……」 「じゃー、しょーうんよりもー?」 だが、一際元気の良いその言葉には、全員から一瞬の沈黙が返る。 「それは……ちょっと難しいかと。それにあそこまで大きくなられたら、カリストラ様はあまり嬉しくないと思われますわ」 「そっかー、そーなの?」 無邪気に聞き返すその姿には笑みしか湧かないが、聞かれたカリストラの方は真っ赤な顔のままぼそりとだけ返す。 「将軍様は私、苦手ですわ」 「そっかー」 シグネットがちょっとがっかりした顔をしたのは、自分の大好きな人物を苦手と言われたからだろう。ただシグネットもセイネリアに関しては『自分以外の人間は基本彼を恐れているか苦手意識を持っている』というのを雰囲気で分かってはいるらしい。好き、という言葉をやたらと使いたがるのはウィアの所為だが、将軍を好きかどうかをよく聞くのは誰かに自分の大好きな将軍を好きだと言ってもらいたいのかもしれない。 ――あぁ、だからもしかしたらあの時も、先にシグネットが尋ねたのかもしれませんね。 ドアごしに聞いた、セイネリアの側近である青年とシグネットの会話。あの話がいつものシグネットの将軍を好きかどうかという質問から続いたものなら納得できる。 ――彼がもし、本当にシーグルなら……。 と、考えそうになって、フェゼントはすぐに思考を止めた。確定しない内に期待しすぎない、自分はまだ何も気づいていないふりをしていないと。 だがそこでシグネットから視線を外したフェゼントは、いつもの席に座っているラークが、考え事でもしているのか妙に沈んだ顔をしているのに気が付いた。あまりにも静かすぎて気づかなかったが、考えれば先ほどのようなウィアの身長話にはいつものラークなら便乗して嫌がらせの一つ二つは確実に言っている筈だった。 「ラーク、何かあったんですか?」 だから声を掛けてみたのだが、末の弟は黙ったまま反応しなかったので、これはますますおかしいとフェゼントは確信する。 「ラーク、お茶がさめますよ」 今度は彼の耳元で言えば、びくりと肩をあげたラークが顔をあげてきて目があう。びっくりしたという大きな目でこちらを見つめる彼もさすがにもう少年とはいえない歳で、それでも幼さがどこかに残る彼は、そこで口を開いて、それでもすぐに言葉を出さずに躊躇する間があってから、瞳を伏せてやっと声を出した。 「……ごめんなさい」 「どうかしたんですか?」 すかさず聞けば、ラークの反応より早くウィアが声を上げる。 「なんかさー、昨日おししょー様に会ってきてからそいつおかしいんだよな」 そういえば、昨日はラークは帰ってきてからすぐ導師の塔に呼ばれてそのまま泊まりだったから、フェゼントは彼がウィアと出かけた後に今初めてあった事になる。ラークが城の魔法使いの手伝いに呼ばれて数日単位でいないことも最近珍しくなくなっていたから特に気にしていなかったが、そういう時は必ず終わって会った時は『にいさんーやっと帰ってこれたよー』といいながら抱きついてきたり、ついて回ってきてあれこれ愚痴を言ってくる筈だった。シグネットといるとどうしても注意がそちらに向いてしまうとはいえ、今まで気付かなかったのは兄として失格だと我ながらに思う。 「ラーク?」 だから今度はあえて名前だけ呼んでにっこり笑えば、末の弟は少し悲しそうな顔をしてから下を向く。それから。 「……にーさんには、後で話すよ」 「分かりました。では後で声を掛けてくださいね、時間を作りますから」 「うん」 --------------------------------------------- シグネットとその周りの話は書いてて楽しいです。 |