【1】 その発言が最初に出たのは、例えば場末の酒場で、酒の席で冒険者の誰かがいったよた話程度のものだったのかもしれない。それに同意する者がいて、後は恐らく人々の願望から出た想像だったのだろう。だからそれを信じる者はなく、ただそうであればいいのに、という冗談交じりの仮定の話だった。 将軍セイネリアの側近、レイリース・リッパーは実は死んだ筈のアルスオード・アゼル・リシェ・シルバスピナではないか――それはただの一部の者が言う、酔っ払いの空想で終わった話の筈だった。 けれど、誰も相手をしない――いや、英雄の死の悲しみをへたに掘り起こしたくない人々があまり話そうとしないその話が、何故か宮廷貴族の間では最近まことしやかに噂として広まっていた。 「その手の噂が流れる事自体は想定内だ、状況は揃い過ぎているしな」 セイネリアが呟けば、カリンとフユが頭を下げて一歩後ろへ下がる。 「ただたかが『噂』にしては貴族側に広がるのが早過ぎまスね。しかもただの『噂』ではなく本気にしてるモンが思った以上に多いのは少しおかしいんじゃないスかね」 「冒険者間での会話だと本気にしている者はまずいない印象です。『そうであればよいのに』という者はいても、そうだと断言しているのは酔っ払いくらいです。……なのに、貴族間ではさも真実のように言っている者が多いのは不自然かと」 現在、基本的に少年王を影から護衛するのが仕事のフユは主に王宮周りの貴族達を、対してカリンは首都周辺の冒険者達のその『噂』に関する反応を調べていた。 「魔法使いの誰かがバラしたと思うか?」 「例の過激派という者達ですか? どうでしょう……シーグル様を殺す為、としてあまりメリットを感じられませんが。ボスを失脚させて引き離そうとするのでしたら、彼らなら噂など使わず皆の前でシーグル様の正体を暴露しようとするのではないでしょうか」 「なら誰か、裏を知る者がどこかの貴族に接触した……と考えるのが妥当だろうな」 「魔法使いサン達程頭が回らず、力がない誰かサンっスね。まぁンでは俺は貴族サン方の噂の出所をちょっと探ってみまスかね」 最初から、こうしてその手の噂が立つところまではセイネリアの想定の内ではあった。将軍の側近などという位置に顔を隠している者がいると言うだけでも噂のネタはいくらでもあるのに、誰が見てもレイリースはシーグルと重なる部分が多すぎる。背格好と、セイネリアとシーグルの過去の噂だけでもあれはシーグルではないかといい出す者がいるのは当然で、いくら理由づけがちゃんとあったとしても疑う者は出るだろうと思っていた。 後は、そうであればよいのに、と皆がそう思うくらいにシーグルは人々からその死を惜しまれていたというのもある。 「貴族につてがあって、事実を知る者……といえば、一人まだ逃がしたままの者がいたな」 「そうっスね、ここまでこっちに見つからずに逃げられてたってだけでも、どっかの貴族に匿われてたって考えるのが妥当でしょうスかね」 元騎士団参謀部長リーズガン・イシュティト。シーグルに目をつけて、その体を弄びたいが為に陥れる側についた男。ただどれだけ悪運が強いのか、シーグルを逃がした事で王の怒りを買うのを恐れて自ら逃げだしていた為、リオロッツ失脚の時に城には既にいなかった。反乱軍勝利に湧く各地の騒ぎの所為で追い切れず逃がしたままだった男がまだ生きているなら、その男が原因の可能性が高いと考えられた。 「貴族に匿われていた、というだけでここまで姿を隠していられるか、という問題もあるがな」 「なら魔法使いがやはり関わっていると?」 「あるいは両方か。まぁ貴族側は人手が足りない所為で怪しい連中しか人をつけてないからな、ノーマークだった連中にも少し探りを入れておけ。その匿った貴族本人に反乱の意志はなく、ただ昔の恩義やらで匿っているだけというのもあり得る。元からこちらに好意的な連中はシーグルを推していた者が多い、ならあいつが生きているという話を聞けば信じたくもなるだろうさ」 「成程……了解っス」 言ってすぐにフユはぺこりとお辞儀をするとその部屋から消えるように去った。 それで軽く息をついて疲れたように背もたれに頭を預けたセイネリアに、カリンが苦笑して近づいてきた。 「シーグル様は、今日も朝から屋上で剣を振っているそうです」 カリンが言えば、セイネリアは口元に苦笑をうかべる。 「そうか……」 セイネリアはそれだけ呟いてから、重い息を吐いて目を閉じた。 言うべき事は言った、あとはもうセイネリアには彼に説明すべき事も、ましてや弁明すべきこともない。これからについて結論を出すのはシーグルであり、彼が自分を憎むも許すも彼次第だ。 「お会いにならないのですか?」 「あいつの事だ、答えを出したら自分から声を掛けてくるだろう。あいつは馬鹿がつく程真面目だからな、いつまでも仕事を放棄している事に耐えられない。それが言ってこないという事はまだ一人で考えたいんだろう」 目を閉じたままのセイネリアを見て、カリンは悲しそうに眉を寄せると、その傍に座って肘掛けにあるセイネリアの腕にそっと手を置いた。 「会いたい、という理由で会いにいかれてもいいのではないのですか?」 「……今の俺には、その資格がない」 その言葉を聞いてカリンは思った。資格がない、などという言い方はまるでシーグルのようだと。 事前のごたごたはあったのものの、ウィズロンでの式典は何事もなく終わり、クリュースとアウグの正式な国交は無事開始された。 シーグル達を襲った敵で捕まえられた者はそのままアウグの国王守備兵に引き渡され、とりあえずこちらに死者が出なかったという事でアウグ側へ罪の追及もしない事となった。建前としてアウグの王側は親クリュースで、反クリュースであるデラ神殿側は共通の敵ともいえる状況の為、神殿側の罪はアウグ王に追及すべきではないという事になったのだ。 それにクリュースとしてもギルドが逃がした魔法使いの過激派が関わっていたという問題がある。捕まえた兵士達が頑なに魔法使いの介入を認めなかった為アウグ王は全てこちらの落ち度だと言ったが、クリュース側としては魔法使いが関わっていたと確信出来る材料がある分強く出るべきではないというのがセイネリアとロージェンティが出した結論だった。 そうして結局、アウグの王直々の公式での謝罪と感謝の文書が渡される事で、今回の件の犯人たちの後始末はアウグ王に任せるという事で決着した。アウグ王としてはこれで更に神殿側を追い詰める事が出来るという事で、王同士の会談も終始笑顔で、最後まで機嫌良くウィズロンでの滞在を楽しんで帰っていったという事だ。 ついでに言えばシーグル本人として気がかりだったラークの件も、現在は解放されて普通に今まで通りの生活を送っていると聞いていた。 「――と、まぁ結果だけ見ればなーーーんも問題なさそうなんだけどさ。まったマスターと何かあったのか、お前は」 シーグルが沈んでいるといち早くやってくるここでの兄である男は、屋上でまたひたすら剣を振っているシーグルのところにやってくるとそう言ってきた。 「やっぱり……分かるだろうか」 「あったりまえだ、あのマスターがお前を傍に呼ばないでカリンとばっか出掛けてんだぞ。それにお前もずっと暗い顔してるだろ……いや顔は見えないけどな、空気で分かる」 その言い方にはクスリと笑みが漏れて、それからシーグルはため息をついた。 そうしてふと考える――フユが言っていた通り、自分の正体を知っている人間はまず知っていた、というならエルも自分やセイネリアの事を知っていたのだろうかと。それでシーグルは唐突に兜を取ると軽く息をついてから改めて彼を見た。 「おいっ、どうしたんだ?」 「別に構わないだろ、ここには顔を見られて困るような人間はこない筈だ」 「いやそうだが、そうじゃなくてな……」 何故か焦るアッテラ神官の男に向かって、シーグルは真っ直ぐ目を合わせて思い切って聞いてみた。 「なぁエル、俺の見た目はやはりずっと変わってないか? 初めて会った時から」 そうすれば彼の表情は見る間に沈んで、青い髪のアッテラ神官は重い息を吐いてから苦々しげにつぶやいた。 「……あぁ、そのことか」 それから一度顔を手で覆って暫く考え込んでから、また彼は一つ重い息を吐くと今度は苦笑を顔に張り付けてシーグルに向き直った。 「そっか、とうとうマスターは全部バラしたのか」 「やはり知っていたのか」 「あぁ、といっても俺は知らされたのは遅い方だな。お前が国王に捕まった後な、団の幹部連中集めてこれからの団の方針ってか計画をマスターが話したのさ。そん時に初めて知った」 となればやはり、彼らが首都を離れた後に行った傭兵団で会った時の彼は、その時点では知らなかったのか。あの時エルが言っていた疑問は少なくともセイネリアの事を知らないからのものであった。だから、もしかしたら彼はまだ知らない可能性もあると思ったのだ。 「聞いて最初はどう思った?」 「うーん……そうだな、突拍子もない話だなって。いやだって最初の感想はそれこそ『マジかよ』しかなかったし、あんまりにも現実離れしてて実感わかなかったし。……ただまぁ俺たちはさ、結局だからってやる事が変わるわけじゃないし、あの男ならどんだけとんでもない事態でもあり得そうだしさ。まぁ、特に何かが変わるってこっちゃなかった。ただな……」 エルはそこで一度口を閉じて、頭を掻きながら少し目を逸らして気まずそうにした。 「やっぱお前さんがいざ団にきた時はな……ちょっと申し訳ねぇなって。お前は真面目過ぎるから何でもかんでも自分の所為って背負い込んでで、そんなんでずっとあの男を支えなくちゃならないなんてきついだろなって。俺ァこれでもマスターとはカリンの次に長い仲だったからさ、あの男の我がまま身勝手ぶりにはそりゃ振り回されまくってきたから……だからな、それ全部お前に押し付けて俺はついていけないってのは申し訳なかった。……あぁでも、だから後ろめたくてお前に親切だったって訳じゃねぇからな。お前の立場が大変だろうからこっちで少しでも支えてやりたいって思ったのは確かだったけどさ、ンでも名目だけでも弟って呼べる事になってすっげー嬉しかったし、ンでお前さんはトンでもなく素直で人が良くて意地っ張りで優し過ぎてちょっと遠慮し過ぎで……単純に可愛かったからな」 「可愛い、というのは……」 そこで思わずそう返せば、いつも陽気なアッテラ神官はニカっと笑う。 「まぁ男でいわれると微妙だよな。でもなんてーかな、すれてなくて一生懸命で真面目で……世の中のいろいろ汚いものをいっぱい見てきた俺からすっとさ、なんか可愛いんだよ。弟って事じゃなくてもさ、そういう奴は助けたくなるモンだ」 「それは俺が……世間知らずという事だろうか」 「お前の場合は世間知らずというより世間慣れしてないって感じかな、嫌なモンもたくさん見てきてる筈なのにそれに染まり切ってないってのが可愛いんじゃねぇか」 彼が自分を好意的に考えてくれるそれ自体は嬉しくても、こうも『可愛い』を連発されると流石にちょっとシーグルも微妙な気持ちになる。ウィアがよく『可愛いは男にとっては褒め言葉じゃねぇっ』と言っていたのが今更ながらによくわかった気がした。 そうして暫く考え込むシーグルを観察するように楽しそうに見ていたエルは、だが急に表情を崩して寂しそうに微笑んだ。 「ただな……正直、少し羨ましくもあったよ。あの男にずっとついていけるお前にさ。マスターの状況は絶対代わりたくはねぇけど、あんたはただ歳を取らないだけだ、死にたくなったら死ねる。俺はお前と違って身内はもういないから未練なくあの男についてけるんでな、あの男が何をするかずっと先まで付き合えるお前がちょっとだけ羨ましいかな」 そう言われれば、シーグルだって考えるところはある。何せ、この状況になってどうしても心情的に納得できないのはセイネリアが全て勝手に決めて勝手に状況を進めて後戻りできない状態を作り上げてしまった事で、正直自分の時が止まった事それ自体に怒りは湧いていない。……いや、まだ実感出来ない、という方が正解なのかもしれないが。 「俺だって……あいつについていくそのこと自体が嫌な訳じゃないし、あいつの所為で俺の時間が止まった事だって……あいつの所為ではないといえばそうだし、それを責める気はないんだ」 自分が歳を取らなくなったその事自体に怒りが湧かないのは、まだ実感が湧かないというのも大きいが、彼が狙ってそうした訳ではないのだから怒りようがないというのが正しいだろう。結果を分っていて意図的に仕向けた訳ではなく、ただ『こうであれば良いのに』と願っていた事が勝手に剣によって実現されただけなら彼のせいと言える話じゃない。ただそれが分かった時点で彼が自分に告げてくれていれば良かったのだ。そうすれば少なくとも怒る事はなかった。 --------------------------------------------- とりあえず、エルはシーグルを構いたい。 |