【8】 ポロン、と軽やかな音を奏でていたその手が止まり、黒の剣傭兵団に現在所属している吟遊詩人は歌うように呟いた。 「王子という地位を捨てて、修道士となるべく逃避行……なかなかに詩人達が好むドラマティックな展開ではないですか」 その後に、くくく、とあまり性質の良くなさそうな笑い声を上げて、詩人は竪琴を床に置いた。 「そこから更に逃げ出して、現王を倒して王位につく……というシナリオだったら、吟遊詩人どもはこぞって詩にするだろうな」 皮肉をこめてセイネリアが言えば、詩人の男もまた笑う。 「いえいえ、そこで非業の死を遂げるというのもまた、詩人が好む題材ではありますよ。人々は成功の物語と同じくらい、悲劇も好きなものですから」 「他人の不幸を聞いて、自分はまだマシだと安心するためだろ。『かわいそう』なんて言葉は自分が『かわいそうではない』と思う奴しか言えない言葉だからな」 「それはあるでしょうね」 くすくすと笑いながら詩人が言えば、セイネリアは目を瞑って何かを考える。そんな話をしている主と詩人二人の目の前にグラスを置いたカリンは、何か不穏な場の雰囲気に溜め息をついた。そして、首都から帰ってきてからずっと、考え込んでいることが多い主の顔を見つめる。 「顔色があまりよくありません」 「そうでもない、いつも通りだ」 とはいっても声に覇気がないことは確かで、カリンはそれ以上を聞けない自分の立場に寂しさを感じた。 首都で何かあった……のは確実だろう。彼が首都へ行った目的を考えて、あの銀髪の青年に会ってきたのも確実だとカリンは思う。そしてあの青年と何かあった、その所為で主はこうしてずっと考え込んでいる。帰ってきた直後、妙に機嫌がいいような、違うような、あまり見ない顔をしていたのも気になる。とはいえ、それらを詳しく聞く事も出来ない彼女には、ただ彼にとって良いことがあったのならと願う事しか出来なかった。 「貴方の顔色も機嫌も、シルバスピナ卿に会えば一発でよくなるのでしょうね」 詩人の言葉に、今度はセイネリアの口元が僅かに笑みを浮かべた。 そうして彼は目を開けると、体を僅かに起こして詩人の方を見た。 「それで結局、お前の予想でもあの王子は死ぬしかないという訳だな」 「そうですね、死ぬのは確定でしょう。ただ問題は、彼もまた、アルスオード・シルバスピナの物語の登場人物としての役目があるという事でしょうね」 「つまり、その死があいつに影響を与えると」 「影響、だけならいいのですけれど」 ケーサラー神官である彼の言葉は、一般人が予想として話す言葉に比べて重い。カリンにも彼の示す言葉の意味が、王子の死が利用されてシーグルに何かが起こる事を告げているのだと理解出来た。 「ならいっそ、こちらでさっさと殺しておくか」 セイネリアが口元だけで笑いながら言えば、吟遊詩人は逆にその顔から笑みを消す。 「いいえ、それはやめた方がいい。それは貴方とシルバスピナ卿の距離を離すだけで、世界が動くのが遅れるだけの結果にしかなりません」 言ってから、不気味ともいえる薄ら笑みを浮かべた吟遊詩人は、カリンでさえ眉を顰めるような得体の知れない昏い空気を纏っていた。 「あいつの火種になることを知っていて、あえて放っておけということか?」 詩人はそこで立ち上がると、帽子を取ってお辞儀してみせる。 「危険を恐れるだけでは、目的は果たせないという事です。臆病者が怯えて冒険をしなかった結果、得るべきチャンスを逃すというのはよくある話ではないですか」 セイネリアは瞳に剣呑な光を宿しながら、喉だけを僅かに鳴らした。 「臆病者とは、なかなかいうじゃないか」 「貴方には怖いものが一つしかありませんから。だからこそそれだけにはどこまでも臆病になる、違いますか?」 「……間違っていないな」 セイネリアは笑う。喉を震わせるだけでなく、声を上げて笑う。けれどもその目がまったく笑っていない事が分かっているカリンは、詩人がこれ以上余計な事を言わないよう祈るしかなかった。 詩人がずっと帽子を抱えて頭を下げたままでいる中、セイネリアの笑い声は次第に小さくなる。そうして、机に肘をついて軽く口元を抑えると、彼はじっとその琥珀の瞳を詩人に向けた。 「そういえばお前の望みは、俺がこの国を作りかえるところを見る事だったか」 吟遊詩人はそこで顔を上げる。にっこりと満面の笑みをセイネリアに返す。 「私は単に、ケーサラーの神官として、世界が変るその時を見たいだけです。それを成し遂げるだろう貴方の傍という特等席で」 セイネリアはそれには何も返さなかった。 ただ、思うところがあるらしく、黙ったまま詩人から視線を外し、また彼は目を閉じた。 そして詩人は、彼にとっても現在は主である男のそんな様子を見て、床に置いていた竪琴を持ち上げると椅子に座り、また弦を鳴らし始めた。歌はなく、ただ優しい旋律が流れる部屋で、目を閉じたセイネリアの顔をずっと見ていたカリンは、彼の口元が自嘲を浮かべて歪むのを見た。 港町リシェの街中は夜でも明るく、高台からの遠い眺めでもその喧騒が聞こえてくる気がする程賑やかだった。 実を言うとシーグルの部屋からはこの眺めはあまり良く見えず、別館と本館の客室の一部からが一番良く見える。一応領主の執務室からも見えるそうだが、その窓は普段は保全の為分厚い内窓に閉ざされていて、シーグルはそこから外を見た事はなかった。 「もう、夜風に当たるのは勧められない時期です」 バルコニーに出て外を眺めていたシーグルの元へ、ロージェンティがやってくる。 「ターネイがハーブのお茶を入れてくれたので、中に入ってくださいませんか?」 「あぁ、すぐ行く」 言うと同時に、シーグルはその美しい、自分が守らなければいけない街の明かりから視線を移し、部屋の中へと歩き出した。 「最近、朝と夜はかなり冷えてきましたから、部屋着で外に出ないで下さい」 そうして、勧められるままティーカップを手に取って、シーグルは中のお茶を一口飲んだ。ハーブの香りが鼻を抜け、熱い流れが喉を伝っていく。それと同時に体がじんわりと温かくなってきたのを感じて、シーグルは自分の体が冷えていたらしい事を知った。 ほわりと、お茶で温まった息を吐き出し、そうして改めて妻の顔を見つめる。 「ロージェ、少し話しておきたい事があるんだ」 「なんでしょう?」 彼女も飲んでいたカップを皿に戻して、シーグルの顔をじっと見つめてくる。 「どうも、最近北の蛮族達の動きがおかしいらしい。様子を見るようにつついてくる事はあっても、前のように部隊を組んで攻めてくる事はなくなったそうだ」 「それは、良い報告ではないのですか?」 「いや……現地の人間からすれば、逆に悪い報告だという事だ。北の蛮族達はそれぞれの部族で対立しあっているんだが、最近彼らの間では盛んに使者の送り合いをしているらしい」 そこまで言えば、戦場に疎くても頭の回転が速い彼女はすぐに気がつく。 「つまり、部族間で同盟を組んで大部隊で攻めてくる可能性があるという事でしょうか?」 「そういう事だ」 チュリアン卿が帰る前にわざわざシーグルの元に来たのはそれを告げる為だった。この国でも一番蛮族との小競り合いが多いバージステ砦を守る彼は、だからこそ彼らの動向に一番詳しい。その彼が、最近の敵方の動きと、独自の情報ルートから探った結果をシーグルに教えてくれたのだ。 「この時期だ、もうすぐに冬になる。だからすぐにという話ではなく、早くても何か動きがあるのは春以降の話だろう。ただ、現地の人間の見解だと、同盟する部族の数が多く、ここ数年なかった規模の戦いになりそうだという事だ」 そこまで言えば、シーグルが何を言いたいのか分かって、ロージェンティの顔も青ざめる。 「貴方が、戦場に行くこともあるという事でしょうか?」 彼女の声の震えに気付いたシーグルは、一瞬だけそれを肯定する事を躊躇した。だが聡明な彼女にヘタな誤魔化しもすべきではないと思って、考えている事をそのまま言う事にした。 「あぁ、予想する規模で奴らが攻めてきたら、俺の隊はまず間違いなく行かされる事になると思う」 「貴方は旧貴族の当主です、貴族院がそれを許すとは思えません」 「それでもだ。理由は君も分かるだろう?」 それでロージェンティも口を閉ざす。今にも泣きそうに瞳を潤ませて、顔を下に向けてしまう。 「私と結婚したから、余計……ですね」 「それは違う。君と結婚する前から、俺はウォールト王子側の人間だと思われていた。王からすれば、機会があれば即戦場に送りこもうとしていたのは変わらない。もし君と結婚していなかったとしても同じ事だったろう」 それでも彼女は顔を上げない。すすり泣く声まで聞こえてきて、シーグルは咄嗟に手を彼女の肩に伸ばした。けれどそこで一度迷って手を止め、立ちあがって彼女の傍まで行くと、その肩に手を置いて彼女の体を軽く抱きよせた。 「元からそれが俺の仕事だ、誰の所為という事はない。騎士であるからには戦場に出る事があって当然だ。……大丈夫、その為に俺も部下達も常日頃から鍛えてきているんだ」 それでも彼女は、やはりシーグルに抱かれた腕の中で肩を震わせている。 酷く頼りなく、細い体は力を入れて抱きしめる事を戸惑わせる程で、シーグルは緩く彼女を抱いたままその頭に自分の顔を被せるように近づけた。 「信じてくれ、戦場に行く事があってもきっと帰ってくる。俺はそう簡単に死なないから」 死ぬ訳にはいかないから――そう、呟いてシーグルは彼女が落ち着くまでずっとその肩を抱いていた。 >>>>>>END.次のエピソードへ。 --------------------------------------------- えぇ、ラストがまたこの夫婦のラヴいシーンですいませんが、そろそろ不穏な影が見えてきてるんで大目にみてやってください。 |