【6】 ロウを突き飛ばし、足元の感覚がなくなったと同時にシーグルは呟いた。 「神……よ、光を我が、盾にッ」 胸に手を当てて呪文を言い切れば、後は運を天に任せるしかない。 この時点のシーグルはまだ、全てを諦めた訳ではなかった。リパの神殿魔法である『盾』の術は一度だけ攻撃を弾くことが出来るシーグルが割合得意な術である。前にもやはり高いところから落ちた時に有効であったから、焼け石に水程度でも死なない確率は上がるだろう。 ――とはいえ、深すぎるか。 聞こえるのは、ただ風の音だけだった。 感じるのもただ風だった。風となって体にぶつかってくる空気を感じて、あぁこれは相当深そうだなんて事を最初は割と冷静に考えていた。 だけれど、どこまでも続く暗闇だけを見つめて、辺りが闇に覆われて行けば、急激に生き残れる自信がなくなってくる。『死』が実感として心に迫ってくる。 そうしたら彼の顔が浮かんで。 彼を置いて死ぬのかと考えたら涙が出て来て、申し訳なくて、悔しくて、悲しくて目を閉じた。 すまない――と、呟いた後、腕を引かれて抱きしめられて――シーグルは確かに聞いたのだ、シーグル、と自分を呼ぶ彼の声を。 目を開いたら暗闇の中。体は動かなかった。 酷く体が重くて、指一つさえ動かなくて、息が出来なくて、顔が上げられなくて、それでもシーグルは口を開くととにかく目一杯空気を吸い込んだ。 「ぐがっ、がはっ」 そうすれば咳き込むと同時に急激に体の機能が動き出して、体中から痛みが襲ってくる。 痛くて痛くて――だが生きているのか、とシーグルは意識と感覚がクリアになってくることを自覚して僅かに安堵した。 それから、少しづつ体を動かそうとして、まずは指に力を入れる。指で数度地面を掻いて、力を入れて握り締めて、腕を動かす。そこから力を入れて肘をつき、上体を持ち上げようとすれば、ずるりと何かに滑ってそれは叶わなかった。篭手(ガントレット)をつけている手ではよく分からないが、どうやら下が濡れているせいで滑ったようだと理解して……そうして、急激に動き出した頭が最後に見たものを思い出す。 「まさか……」 シーグルはとにかく手を伸ばして辺りを探った。そうしてすぐに手に当たった何かの感触を確かめると、今度は慎重に腕に力を入れて上体を浮かせた。 「ぐ……かはっ」 重力に逆らって体を持ち上げれば、胸の痛みと共にまた咳き込む。それだけでなく力を入れた左足が酷く痛んでその場で固まる。ひとしきりその場で咳き込んで、こみあげてきた血を吐き出せば兜の中に血が溜まり、シーグルは焦って兜を外した。直で入る新鮮な空気を吸い込み、口元を拭って、それから覚悟を決めて腕に力を入れ、先ほど手に触れた何かがある方に向かって地面を這う。 すぐに手に当たった何かを、シーグルは触って、掴んで確かめる。そうしてそれが腕だと分かって……こみ上げてくる嫌な予感に、必死でまた体を引きずってそれのもとへ向かった。腕の付け根までいけば、今度は肩に触れる。肩当の上にマントを掛けるのは確かに彼と同じ、そうしてその鎧を着た胸を、体全体を手で探って、可能性が確定になるのに怯えながらシーグルはそれに呼びかけた。 「セイネリア……お前、なのか?」 声は返ってこない。触れる体が動く気配もない。 シーグルは手を伸ばして彼の顔に触れる、手探りで顔をなぞればそれはやはり彼だとわかってしまって、分かった途端に手が震えてそれ以上確かめたくなくて触(さわ)れなくなる。 「セイネリアっ、おいっセイネリアっ、返事をしろっ」 恐怖がこみ上げてくる。 彼が、死んだのではないかと。自分を守る為に、自分を庇って、死んだのではないかと。先ほど自分が滑ったのは彼の血ではないのかと、考えれば考える程恐ろしくてたまらなくなる。 「セイネリアっ、起きろっ、目を覚ましてくれっ、お前は死んだりなんかしないだろっ」 意識を失う前に聞こえた声は幻聴ではなく、本当に彼の声だった。 いくら『盾』の術があったとして、あの高さから落ちて生きているのは彼がいたからだと思えば、納得出来ると同時に何故自分の方が死ななかったのだという思いが込みあがってきて、シーグルはとにかく必死で呼びかけた。 「セイネリア、お願いだ、応えてくれ……ふざけるな、お前は俺の主なんだぞ、部下の俺を庇って死んだらだめだろ……」 誰よりも強い最強の男、誰からもおそれられ、魔法使いさえ彼に従う――人が使う事は不可能とされた黒の剣の主、その男が自分などの代わりに死んでいい筈はない。彼がこんなところで死ぬことなんてあっていい筈がない。 「契約違反だぞ……お前は俺を部下として扱うと言ったじゃないか……」 呼びかけても反応がないことが、怖くて怖くて仕方がない。 何時の間にか目からは涙が溢れ、呼びかける声が嗚咽に妨害される。 体を引きずって、彼の顔の近くまで行く。震える手でもう一度、今度はそっと彼の顔に触れて、頬を両手で覆って、軽く叩いてもやはり反応を返さないその事実に絶望する。 「だめだ、セイネリア……死ぬな……俺は……」 もう後は言葉に出来なくて涙を流す事しか出来ない。 ただ彼の顔の傍に頭を押し付けて、震える歯を噛み締めながら嗚咽を漏らして泣く事しか出来ない。いやだと、だめだと、嗚咽と共にそれだけの言葉を搾り出すのがやっとだった。 けれども。 「……少しは……俺の気持ちが分かったか」 聞こえた声に、シーグルは顔を上げた。 暗闇の中では何も見えなかったものの、確かに先ほどまで感じなかった『気配』を感じて、シーグルは再び彼の顔に手を伸ばす。そうすれば、その手が彼の頬に触れた途端掴まれて、そうして掌に動く感触が返って来る。 「まったく……お前はどれだけ俺を振り回せばいいんだ。たまには俺の気持ちを味わえ」 言って彼は気配で笑う。それから腕をそのまま引っ張られて、体を引き寄せられて、倒れているままの彼の腕の中に抱きこまれた。鎧の上からとはいえ彼に包まれた確かな感触に、シーグルの瞳から一度は止まった筈の涙がまた溢れ出してきた。 「馬鹿かッ……生きてるなら……さっさと、返事……しろ」 どうにか泣き止もうと息を飲み込んでいれば、セイネリアの手が顔に触れてくる。頬を撫ぜて、そうして穏やかな声で聞いてくる。 「泣いているのか? この涙は……俺のためか?」 それに、素直にそうだと返すのは癪でシーグルが黙っていれば、セイネリアの手は優しく目元の涙を拭って離れていく。 「俺のために泣いて、俺のことだけを考えたか? 俺を呼んでいる時は、お前の頭の中には俺だけしかいなかったか?」 その声には穏やかなのにどこか祈るような切実な響きがあって、シーグルも子供じみた意地を張れなくなくなってしまう。 「当然だろ……こういう場合、お前以外の事を考えてる余裕なんかある筈がない」 だから仕方なくそう返せば、彼の手が伸びてきてこちらの頭を彼の胸へと押し付けられる。 「ならいい」 満足そうな声にはこちらの方が恥ずかしくなってしまうものの、彼に抱き締められて、いつもみたいに頭を撫でられていればほっと気が抜けてしまう。そうして自分から彼に抱きつこうと動けば、一時忘れていた感覚が戻ってくる。 「――ッツ」 ついでに咳き込めば、すぐにセイネリアの腕が緩んだ。 「怪我をしてるのか? どこだ?」 聞かれてシーグルは体を動かしてみる。腕は大丈夫そうだが、左足の痛みは酷く立てそうにない。また左足か、と小さく舌打ちしても、この場合は右が動きそうなだけ幸運だったと思うべきだろう。 「左足があやしいな……折れてまではいないと思うんだが。後は多分、胸は多少アバラがイったな。それよりお前は大丈夫なのか、お前の方がマズイだろ、待ってろ今見てや……」 だが言葉が終るかどうかというところでセイネリアが動きだす。彼の体が一度離れて起き上がったと思えば、シーグルの体に腕が回されて、そこから彼はこちらを抱き上げながら立ち上がった。 「おいっ、お前は何をしてるんだ?」 「何と言ってもな、お前が歩ける状態じゃないなら抱き上げた方が早いだろ」 「そういう問題じゃない。お前の怪我は? どう考えてもお前の方が大怪我してるだろ」 「生憎お前とは頑丈さが違ってな、打ち身程度だ」 「馬鹿いうな、頑丈の一言で済ませられるレベルの話じゃないぞ」 どう考えてもあの高さで、しかも自分を抱いて庇ったと思われる彼が無傷で済む筈がない。更に言えばこちらは術の補助があって彼にはなかった筈なのだ、身動き一つ取れなくても生きてるだけで奇跡だろう、あり得ないとシーグルは思う。だがそうすれば、彼はまた気配で笑ってみせる。 「お前の魔剣がずっと風で押し上げようとしてくれてた所為で、かなり落下速度が落ちたんだ」 「……そう、だったのか」 自分を抱きあげる腕はいつも通り力強くしっかりとして、立ち上がっていてもすこしもよろけた気配はない。 だからそれでシーグルも一応は納得をする。 確かに落ちてる最中、ずっと耳には風の音が聞こえていた。その所為でセイネリアの声が聞き取りずらかったというのもあるが、それがなければこの高さから落ちて助かりはしなかっただろう。 「どこへ向かってるんだ?」 セイネリアが歩き出したのを感じてシーグルが聞けば、彼は足を止める事なく答える。 「なに、魔力が溜まってる場所にな。何かあるのは確かだろうし、どうせその内魔法使いどももそこを目指してやってくるだろうからな」 成程、と納得してからすぐにシーグルは気づいて聞き返した。 「お前、魔力が見えるのか?」 「あぁ、魔剣の影響でな。これだけ暗いと普通の視力は役に立たんからな、見えるものを目指してるという訳だ」 魔法が効かないことといい、やはり彼は魔剣の影響を普段から受けているのだ。そうシーグルは思って、今この機会に彼に他にも魔剣の影響があるのかと聞くべきかと考える。けれどやはり、それを聞くのは何処か怖くて、シーグルが黙っていればセイネリアの足が止まった。 「やはりな、迎えだぞ」 セイネリアの声と同時に、視界が光で満たされる。シーグルは思わず目を細めたが、暗闇から急に明るくなったせいで眩しく感じただけで、その明るさは単に携帯ランプの明かりだった。 「御二方共、ご無事でしょうか?」 手をかざしながら前を見れば、ローブに杖をもった人物のシルエットが見える。魔法使いだろう。 「あぁ。ただシーグルは怪我をしている。命に別条はないが」 「それはよかった。なによりまず安心しました」 聞き覚えのない声は、目が慣れてきて顔が見えても知らない人物だった。ただ、相当にその魔法使いに魔力がありそうなのは空気で分かる。 「そこにあるのはなんだ? 魔法陣か?」 よく見れば魔法使いはその場にもう一人いて、一人はしゃがみこんで何かをしていた。セイネリアの質問には、そちらの方の魔法使いが立ち上がって答えた。 「えぇそうです。……やられました、どうやら向うは予め地下の空洞に魔法陣を描いておいたようです」 「なるほど、上で戦闘を起こして足止めをしている間に召還した、というところか」 「そのようです、召喚しきったところで地面を割って化け物共を一気に地上に出したんでしょう。……我々もこんな地下深くまでは警戒していませんでしたから」 言って魔法使いはそこでこちらに向かってお辞儀する。 「それでは、私は次の魔法陣に行きますので失礼いたします。貴方がたはこちらの者が地上に送りますのでもう少々お待ち下さい」 そうすれば、最初に会った方の魔法使いが呪文を唱え、別れを告げた魔法使いを何処かへ飛ばした。つまりこちらの魔法使いが転送を使えるタイプの術者なのだろうと思っていれば、残った魔法使いはセイネリアとシーグルに恭しくお辞儀をした。 「まだ地上は化け物共があばれていますから、イキナリ元の場所に戻らず少しずらした場所に上がります。貴方がたが下に落ちていた、というのを兵士に知らせるのもあまり良くありませんし」 それで目を瞑った魔法使いを見たシーグルは、クーア神官のように出る場所を確認でもしているのだろうかと思った。 「今飛ばした彼は何をしているんだ?」 ふと思いついてシーグルが聞いてみれば、確認が終わったらしい魔法使いが目を開いてシーグルを見る。 「完全に召還されていると、魔法陣を消しても召喚物がすぐには消えないので。逆に元の魔法陣を使って化け物を帰してるんですよ。彼も召喚術士ですからね」 「そうなのか」 「はい、そして私のように転送をが得意なものは空間系魔法使いに分類されます」 「クーア神官の能力と似ているのだろうか」 「そうですね……我々の能力は神官達と似ているモノも多いです。貴方はもっと我々の事を知るべきです、なにせ……」 だがそこで魔法使いの話をセイネリアが遮った。 「余計なおしゃべりは止めておけ。お前はお前の仕事をすればいいだけだ、魔法使い」 魔法使いはそれで口を閉ざし、お辞儀をすると杖を掲げ術を唱えだす。 シーグルはセイネリアに抱かれたまま彼の顔を見上げて、その表情の硬さにかつてキールから聞いた言葉を思い出した。 『セイネリア・クロッセスは貴方がこちら側に来る事は嫌がるでしょうねぇ』 それはシーグルが魔法使いとしての知識を得て、彼と黒の剣の関係を知るのが嫌だという事でもあるのだろうか。セイネリアは知られたくないのだろうか――シーグルは彼に聞こうと出そうになった言葉を止めた。 --------------------------------------------- 二人が無事で一安心……というところで次回はウィア達サイドのお話から二人のその後。 |