【5】 シーグルの部屋に入ってそのドアを閉めても、アウドはそこから一歩も動かずただ部屋の中へと歩いて行く青年の後ろ姿を見るだけだった。暫くすれば気づいた彼が足を止めて振り向いたものの、彼は何も言わず、そうしてアウドも何も言わなかった。 だが、そこから暫くして、彼は無言で顔を隠していた兜を取る。 髪の色が違う所為で微妙に違和感があっても間違いなく彼だと分かるその顔を見て、そしてその表情が辛そうに沈んでいるのを見て、アウドは困ったように笑みを浮かべて言った。 「だめですよ、俺の前でそいつを取ったら。貴方の顔を見たら俺が抑えられなくなるじゃないですか」 シーグルは少しだけ驚いた顔をして見せて、そうして下を向いた。 「すまない」 「いいんですよ、貴方が自暴自棄になってあてつけに部下と寝るような人間じゃないってのは分かってますから。ただ、俺もいつでもチャンスがあればとは思ってますんで、出来ればあまり気を持たせるようなマネは止めて貰いたいとこです」 「……すまない」 「貴方はそのまま今日はお休みください。俺は今夜はここで寝ます、部屋に帰ってしまうと何もなかった事が分かってしまいますから」 「……すまない、アウド」 下を向いたまま顔を上げない青年の顔は、窓から入る月明りの淡い光の中ではよく見えない。だが却ってそれで良かったとアウドは思う、もしここで彼の泣き顔など見てしまった日には本気で抑えが利かなくなる。 「さぁ、早くそのままベッドに行って俺の視界から消えて下さい。これ以上貴方を見ていたら、俺も本気で抑えられなくなります」 「すまない……」 そうして一歩、後ろに下がった彼に、アウドは恭しく頭を下げた。 「おやすみなさいませ、レイリース様」 「あぁ……おやすみ」 最後に小さく呟くような返事をくれて奥の部屋へと彼が消えた後、アウドはドアに背をつけて大きく息を吐いた。それから、ずるずると崩れるようにその場に座り込むと、再び大きくため息をついてがくりと前に頭を垂れた。 正直、まいった、という言葉だけしか頭に浮かばない。 セイネリアとシーグルの間に何があったのかはわからない。ついちょっと前に、あの二人は互いに求め合っているのだとそれを思い知らされたばかりなのに一体なにがあったのか。あの仮面の意味も分からないし、自分が足の事で一杯一杯だったちょっとの間に何があってシーグルに対するあの男の態度がああまで急変したというのだろう。あのセイネリア・クロッセスがあれだけ愛情を露わにして、あの意志の強いシーグルが完全に身を委ねていたあの状況がそう簡単に覆るなんてあり得ない。だからこそ、自分は覚悟が出来たのに。 「まったく、やめてくれよ……俺はあの人の部下でいられるだけでいいんだ」 呟いて、自分の中で僅かに疼く望みの灯を否定して、アウドは軽く首を振る。 正直、自分で先に線引きしなければ危なかったとアウドは思う。もし少しでも彼が自分に触れる事を許していたら抑えていられたかは怪しい。あの男に対する怒りと、彼に対する欲望が暴走していたかもしれない。 ――俺は、貴方に少しでも楽になって貰いたいだけなんですよ。貴方が傷つくのを少しでも肩代わりして、貴方に救われて欲しいだけなんです。 それが彼に対する恩返しだとアウドは思っていた。最低な人間に成り下がった自分に誇りを取り戻してくれた彼が、出来るだけ彼の思う道を歩めるよう、ただ彼を守りたかっただけなのだ。その為なら、自分の想いなど押し込めておけると思っていたのに……。 ――俺に期待させないで下さい。俺は貴方を欲しくても、もう貴方を傷つけたくないんですよ。貴方の傷つく姿を見たくないんです。 体を丸めて、両腕で自分の肩を抱いて、歯を噛みしめるとアウドは出来るだけ何も聞かないようにして目を閉じた。 「本当にあんたは最っ低ーの酷い男だよな」 エルクアが言えば、予想通りだが相手はピクリとも表情を変える事なく、どこを見ているのか分らない金茶色の瞳を軽く閉じた。 「あぁ、俺は人として最低だろうな」 まさかそこまであっさり肯定されると思わなかったエルクアは言葉に詰まる。 「俺は最初から『イカレ』てる。マトモな人間じゃない」 「いや、そりゃそうなのかもしれないけどさ……」 なんだかそこまで言われると、フォローしなくてはいけない気もしてくるから困ったものである。というか、いつでも自信満々で弱味なんか欠片もなさそうなこの男のこんな抜け殻みたいに覇気も生気もなさそうな様子を見ていれば、どうにも調子が狂うのは仕方ないではないか。 「つまりあんたはどうしてもシーグルと寝る訳にいかなくて、そんで代わりに俺なのは分かったけどさ、その理由が俺の事がどうでもいいから、ってのは流石に酷くないか?」 「嫌なら別に俺と寝なくてもいいぞ」 「いや、嫌ってんじゃないけど、どうでもいいってのは……」 確かに彼にとって自分が『どうでもいい人間』だという事は分かっていたし今更なのだが、だから寝る事が出来るというのは意味不明だろう――というエルクアの疑問は、とんでもない言葉で説明された。 「お前なら間違って殺しても問題ないからだと言えばいいか?」 「いぃっ?」 それには反射的におかしな声が上がる。とはいえ相手はやはり微塵も感情の揺れがなくて、ちらとこちらの反応を見ておもしろくもなさそうに言葉を続けるだけだ。 「まぁ多分お前相手ならそんな心配はないと思うが」 そこでほっとはするものの、彼の言葉の意味を考えれば当然聞きたくなる。 「シーグルならあるのか?」 「そうだ」 ……訳が分らない。 と、しか思えないが、彼の顔は完全な真顔でこちらを揶揄っているのではないというのは分かって、エルクアは頭が痛くなってきた。 「……ちなみに、俺だとなんで心配ないんだ?」 「お前が馬鹿過ぎてシーグルだと錯覚する事がないからだ」 即答で返された言葉の意味はやっぱり訳が分らない。ただ確実に分かる事は、彼にとっての自分は『どうでも良い馬鹿』だという事くらいだろう。 まぁそもそも、彼との出会いからして馬鹿にされるのは仕方ないといえば仕方ない、とはエルクアも分かっている。彼女にフラれてやけになって、ぐでんぐでんに酔っぱらってヤバイ連中に連れていかれそうになったところを助けて貰った、というのだから虚勢を張っても意味がない。しかもいかにも貴族の馬鹿息子的な愚痴を言って呆れさせた上、なんだかこの強い男に自分を見て貰いたくて、彼の最愛の青年の事を知らせる代わりに抱いてくれと自分から言ったのだ。 いまでも我ながらどういう気の迷いだったのだろうと思うが、不思議な事にそこからエルクアの人生は全てが上手く行くようになった。シーグルと友人になって真面目に訓練に出るようになったら部下達にも慕われるようになったし、今は今で将軍府直属になったといえばあれだけ馬鹿にしていた家族達も家の誇りだという始末。エルクア本人としても実践部隊より事務処理の方が気楽というのもあって、今回の移動は願ったりかなったりだと言っていい。 実質は将軍様の愛人予備的な、男としてはなさけなーい立場だとしても、それはそれで嬉しいと思ってしまったのだから文句のつけようがない。 どれだけ馬鹿にされてもいい加減にあしらわれれてもどうでもいいなんて言われても、この男に必要とされてる、というのが嬉しいのだ、自分は。 「……やっぱりあんた酷い人間だよな」 言えば、顎に手が添えられて、彼の顔が近づいてくる。 「だからイカレていると言っただろ」 近づいてくる彼の口元には自嘲の笑みがあって、エルクアは手を伸ばしてこのとんでもなく酷い男の頭を抱きしめた。 見張りとして、立ったままや座ったままで寝る事はそれなりにあった。だからこの手の浅い眠りでもそこそこに疲労は回復出来るし、何かあった時にはすぐ反応が出来る。ドアに背を掛けて眠っていたアウドは、深夜に人の気配を感じて意識だけが覚醒した。 そこにいるのが誰かなど目を開けなくても分かる。いや、目を開けたら戻れないと分かっているから、アウドは目を閉じたまま寝たふりを続けた。 固く拳を握りしめ、意識がその人物に向かないようにする。彼の気配でも、彼の匂いでも、声でも、今彼を感じてしまったら戻れないと分かっているから出来るだけ意識を彼に行かないように逸らそうとする。 とはいえ、こちらがおきていることなど、相手には分かってしまっているだろう。 「起きてるんだろ、少し付き合ってくれないか。話もある」 間違いなくかつての記憶と同じ彼の声だと思った後、アウドは一度歯を噛みしめて、それから思い切って目を開けた。そうすれば目の前には彼の白い足があって、そっと顔を上げれば僅かな月の光をうけて浮かび上がる彼の顔があった。その姿に引かれるように立ち上がって、アウドは思わず息を飲む。そこにいる彼のあまりの記憶の中のイメージと同じ姿に、一瞬呆けたように見惚れて何も言えなくなる。 そういえば、彼が王によって投獄されてからこうして完全な素顔の彼を見たのは今が初めてではないだろうか。ここでは普段彼は兜をかぶりっぱなしだし、かぶっていない時でも髪と瞳の色を変えている状態でしかみていなかった。声だってそうだ、彼の素の声を聞いたのは騎士団で彼が捕らわれた時ぶりになる。 久しぶりの彼の声と、しかも青白い光に浮かび上がるその白い容貌の艶めかしさは反則的で、アウドは理性を総動員して自分を抑えなければならなくなった。 「話、ですか……」 聞けば、どこか虚ろに見えた彼の顔に苦笑が浮かぶ。 「あぁ、少し愚痴を聞いてくれ、だめか?」 --------------------------------------------- このへんの展開だけだとセイネリアは恋愛ドラマにおける酷い男の典型ですね(==; |