心の壁と忘れた記憶




  【9】



 首都セニエティの中でも西の下区とよばれる南西にあたる区画は、かつて治安が悪い事で有名であった。ただそこにあった黒の剣傭兵団が将軍府になった事で辺りがかなり整備され、今では少なくとも『悪い』と特別に言われる程ではなくなっていた。

 昼食後のゆったりとした昼下がりの時間。だが、ここ将軍府の中庭ではレイリースとエルが出てくると途端に大騒ぎになる。
 冬が近い今は割合急ぎの仕事が少ない事もあって、シーグルはここのところほぼ毎日昼休みの間に行われる皆の遊び試合によく出ていた。将軍府となった今は元騎士団の者達もいたが、彼らもこの自主訓練の一つとなっている遊び試合に参加する事で元傭兵団の面々と交流する事が出来、結果的に思ったよりはすんなりと互いに打ち解ける事になったという。大体において、この手の傭兵部隊が正規兵に組み込まれる場合は正規兵側がプライド的に傭兵達を見下すのが常だが、今回の場合は傭兵とは言っても冒険者間では名高い黒の剣傭兵団であるという事と、なによりセイネリアの存在が大きかった。正規兵側も見下すという事はほぼなくどちらかといえば恐れて近寄れなかったといったところが、試合をする事で近づく切っ掛けとなったらしい。
 今日もエルと軽く手合せをした後、他の者と2、3試合をこなしてから、シーグルは彼らに別れを告げて戻ろうとした。エルは時間があるからもう少し付き合うそうだが、シーグルの方は今日はセイネリアがいる為あまり長く息抜きをする訳にもいかなかった。……ちなみに、最近では中庭で剣を振るとあまりに声を掛けられ過ぎる為、一人で集中して剣を振りたい時は屋上の方に行っている事が多く、昼に中庭に行くのは自分の息抜きというよりも他の者達との付き合いの面が大きくなってしまっていた。さんざん皆から名残惜し気に別れの言葉を掛けられて、やっと将軍府の建物の入り口へついたところで、シーグルはここには珍しい人影を見つけて声を掛けた。

「カリン様、珍しいですね、貴女が昼間に一人で外に出られるのは」

 今はレイリースであるから彼女は自分の上になる、それを意識して彼女に声を掛けたのだが、その所為なのか、掛けられた方の彼女は少しだけ驚いた顔をした後に笑いだした。

「えぇ……そうですね、部屋からだと声が聞こえないのでたまには外で見ようかと思っただけです」

 それで彼女の方からは『シーグル』に対しての言葉で返されてしまったのもあって、シーグルとしては少し気まずかった。

「普段は窓から見ているだけですから、動きは見れても空気感が掴めないのです」
「成程」

 彼女の視線の先が遊び試合に興じている者達なのを理解すれば、彼女がここで彼らの腕を確認しているのだろうというのは分かる。ただ、こうしてセイネリアがいないところで彼女に会ったのはとても久しぶりな事に気付いて、シーグルは彼女に思い切って聞いてみる事にした。

「少し、話があるんですが、付き合って頂けますか? ……マスターの事で」

 そうすれば、恐らくセイネリアの一番傍にいて一番彼を知っている女性は、顔にあった笑みを消して静かに答えた。

「そうですね、私も貴方と話したい事がありましたし」

 言ってすぐに彼女は歩き出す。ついて行けば彼女は役人達がいる事務部を通り過ぎた先にある小部屋の一つの前で止まって中に入った。確かここは客人を一時的に待たせる為の部屋だったかと思って入ったシーグルは、彼女が座るのを確認してから、自分も向かい合うようにあるソファに座った。

「マスター……セイネリアは、かなり無理をしてるんじゃないだろうか?」

 口を開いてまずそう切り出せば、彼女はその美貌を少し悲しそうに歪ませた。

「えぇ、そうです。かなり無理をしてらっしゃいます」

 それには、やはり、と呟いてしまってから、次に何をどう聞くべきかシーグルが考えている間に、カリンの方から会話を繋げてくる。

「ボスは貴方の部屋にいかなくなってから、ほとんどまともには眠れていません」
「……どういう事なんだ?」
「今のボスは剣の影響が濃くなって、貴方の傍でないと本当には眠れないのです」

 悲しそうにそう言うカリンに、シーグルの顔は顰められる。両の拳を膝の上で固く握り締めて、舌打ちさえして、シーグルは歯を噛みしめてから呟いた。

「馬鹿な……あれからひと月近く経っているだろ、あいつは何故言わないんだ、そこまで無理をする意味があるのか。……いくら俺を危険にあわせたくないと言っても、自分を壊す気かあいつはっ」
「今回はボスもそろそろ限界だと思われます」

 だからボスを助けて下さい、とカリンに言われて、シーグルは固く握っていた拳を更に強く握り締める。立ち上がって、カリンに頭を下げて、すぐに部屋を出て行く。

 それを黙って見送ってから、カリンは自嘲気味に唇を歪めると天井を見つめた。

「今回ばかりは命令違反でしょうね」

 呟いて彼女は黒い瞳を歪ませてから瞼の下に隠す。
 胸に両手を置いて、ぎゅ、と祈りの形に組む。
 カリンは部下としてセイネリアの命(めい)には絶対に従う。今まで意見を言う事はあっても、従わなかった事はなかった。けれど今回に関してだけは、カリンはセイネリアの命に従わなかった。

『あいつにはいうな』

 その命令にカリンは背いた事になる。けれど、どんな罰を受けても、例え殺されるとしてさえ、今回はこのままではいけないと彼女は思っていた。いつでも間違えなかったあの男の行動を今回は間違っていると思った。

「助けられるのは、貴方だけなのです」

 だからお願いします、と心で呟いて、彼女は大きなため息を付いた。








 セイネリアの執務室に帰ってきたシーグルは、内扉が閉められるのと同時に兜を取ると、彼を睨んでわざと大股の乱暴な足取りで近づいていった。
 それだけでセイネリアには、自分が怒っている事も、いつも通りの『レイリース』としてのやりとりなどする気もないのだという事が分かる筈だった。彼も今は仮面をしているから表情は分からなくても、琥珀の瞳がこちらをじっと見つめているのが分かればシーグルには十分だった。

「セイネリア、お前、相当無理してるだろ」

 机を叩くと、わざとなのか、セイネリアは殊更ゆっくりと椅子に背を深く預けてシーグルを見あげた。

「例え俺が無理をしていたとしても許容範囲だ、お前がとやかくいう必要はない」
「いや、ある。俺はお前の側近で、お前が将軍として仕事をするのに支障が出るならそれをどうにかしなくてはならない」
「自分の事くらいは自分で管理する」
「自分を優先しない人間に、自己管理など任せられない」

 言えばセイネリアが軽く喉を震わせて笑う。

「お前が……人の事を言えるのか?」

 皮肉を滲ませたその言葉に、だがシーグルは睨んで返した。

「その理論で言えば、お前は人の事が言えないのに俺に自分の身を優先しろと言っていた訳だな」

 今度は黙ったセイネリアに、シーグルは大きくため息をついてみせた。

「お前、まともに眠れてないんだろ。いいか、人間は寝ないと持たないものだ」
「横にはなっている、問題はない」

 セイネリアの声に動揺は微塵も感じられないが、それはそう装っているだけだというのはシーグルには分かっていた。

「いくらお前が馬鹿体力があって体はそれで問題ないとしても、頭が休めないとおかしくなるぞ。言わせて貰うが、お前が自分が暴走するかもしれないから危険だというなら、眠れないでいれば余計精神を消耗して暴走しやすくなるんじゃないのか? 俺に触れないようにお前が我慢するのはいいが、それでストレスをため込んだほうが余程危険じゃないのか?」

 そこでまたセイネリアが黙ったから、シーグルは少し考えて、彼の机の横から回り込んで彼の傍にいく。それでも黙って座っている彼の傍にしゃがみ込んで、彼から仮面を剥ぎ取る。それから、大人しくされるがままで黙っている彼の顔を掴んで向かせ、正面から向き合った。

――大丈夫だ、もう、怖くない。震えも来ない。

 まったく体が竦まないと言えば嘘になるが、それは振り切れる程度のものだ。シーグルは自分自身を落ち着かせる為に一度大きく深呼吸をすると、セイネリアの目をじっと見つめて口を開いた。

「お前は自分がそれでも抑えきれると思っているんだろうが、それこそ矛盾している。そもそもお前は自分が抑えられなかったから俺から離れたんだろ、自分を抑える力を信用出来ないのに余計に自分に負担を掛けてれば自分で自分を壊そうとしているようにしか見えない。お前の立場でそんな事をしたら被害甚大だ、放っておく訳にいかないだろ」

 琥珀の瞳が大きく開かれて自分を見ている。彼の手が震えながら彼の顔を押さえる自分の手を掴む。いや、それは掴むというよりただ上から覆って触れているだけのようで、彼は何かを言いたそうに唇を開いた後、唐突に苦しそうに目を細めると唇を噛みしめて視線を背けるように目を伏せた。
 だからシーグルは唇を彼に押し付ける、自分から彼に口づけてその口腔内に強引に舌を入れる。舌と舌が触れ合えばすぐにそれは絡めとられて、彼の舌が自分を貪るように求めてくる。力強い手が身体に回されて引き寄せられる、抱きしめられて、唇を強く押しつけられて、荒々しく口内で舌を絡ませ合う。求めて求めて、唇を合わせ直されては唾液が溢れて、ぬるぬると唾液だらけになった口は口内なのか唇なのかさえ舌の感触で区別がつかない。ただひたすらに求めてくる彼を受け止めて、こちらからも求めて、彼の頭を抱いて体を密着させて強く抱きしめ合う。
 どれだけそうしてキスしていたのか、夢中になっていてぼうっとしていた頭が少しはっきりすれば、耳にはただ酷く苦し気で荒い彼の息づかいの音が聞こえていて、時折嗚咽のように高い声が混じっているからシーグルは驚いて彼の顔を見ようとした。
 けれど、それは叶わず、セイネリアはシーグルに覆いかぶさるように抱きついたまま顔をこちらの肩に埋めて体重を預けてくる。それから、小さく、本当に小さい声で呟いた。

「馬鹿め……あぁだが……俺も、馬鹿だ、確かにな」

 そうして完全に彼が身体をこちらに預けてくれば、当然ながらシーグルでは支えるのが辛くなる。しかもしゃがんでいる中途半場な体勢では、ただでさえ自分より重く大きな男が鎧までつけた重さに耐えられる訳がない。シーグルは非力ではないのだが流石にこの重さをいつまでも支えきれなくて、結果としてそのまま彼と一緒に床に倒れ込む事になった。

「本当に馬鹿だ、お前も、俺も」

 床にあおむけに倒れた体勢でその上に倒れ込む重い男の身体を抱きかかえながら、シーグルは天井を見上げて呟いた。体勢的に彼の顔は見えないものの耳元から静かな寝息が聞こえてくれば安堵と共につい笑みが湧いてしまう。
 それから大きく息をついて、この状況を彼女達のどちらかでも『見て』いてくれているだろう事を祈りながら、シーグルは助けを求めてみる事にした。

「カリン、ソフィア、どちらでもいい、見てるか聞こえているなら来て貰えるだろうか」

 そうすれば、暫くして。
 何も起こらないかと思って、これは自力でどうにかするしかないかとシーグルが考え出した頃、呼んだ二人の両方共が唐突に姿を現した。この部屋は断魔石で守られている筈だが、ソフィアなら抜け道を教えられているのではないかという予想は当たっていたらしい。だがそうして現れた彼女達は、状況を見て暫くの間絶句する。

「……すまない、セイネリアを運ぶのを手伝って貰えるだろうか」

 それで我に返ったらしい二人が急いで近づいてきた。

「ボスは眠っているの……ですか?」
「あぁ、寝てる。俺はしがみつかれていて動けないんだ、ソフィア、このままベッドに転送して貰う事は可能か?」
「あ、はいっ。マスターとシーグル様なら多分、出来ると思います」
「なら頼む」

 ソフィアは慌てたようにこちらに手を伸ばしてくると、呟く程度の呪文を唱えた。一瞬、ちょっとした耳鳴りのようなものを感じたものの、それですぐに風景は切り替わってシーグルはベッドの上に投げ出された。

「ぐっ」

 ベッドに受け止められたとはいえ、すぐ上にセイネリアの重い体が落ちてきたのには参ったが、それでもベッドに乗ってしまえば安堵する。……ただ出来れば鎧を……それが叶わなくてもせめて靴くらいは脱ぎたかったとは思ったが。

「まったく、こんな事になるなら意地を張らずにさっさとくれば良かったんだ」

 怒ってもどうにもならないとはいえ、大きな男の体を抱きながらシーグルは天井を見つめて呟く。その天井でここが自分の部屋だと分かったシーグルは、ソフィアはセイネリアのベッドではなく自分の部屋のベッドに飛ばしたのかと呆れて、それから思い出したように苦笑した。

「最初から俺の部屋で寝るつもりで全部用意させたくせに、なんでそこまで怖がってるんだろうな、お前は」

 それでもなんだか、あの最強の男が自分に抱きついたまま眠ってしまったなんて考えれば笑ってしまって困る。レザ男爵の言っていた『ガキ』という言葉を思い出したら余計に笑えてしまって、思わず彼の背中をトン、トン、と母親が昔してくれたように優しく、ゆっくりとリズム取るように叩いてみる。そうしていれば自然と口からはその時母が歌ってくれた子守唄が零れ出て――歌詞はちゃんと覚えている、一人だけしかいない冷たく広いベッドの中で、必死に思い出して自分で歌いながら寝た事もあったから。寂しくて、怖くて、家に帰りたくて泣きそうになりながら眠ろうとした幼い日々、温かい家族の思い出だけが自分を助けてくれるぬくもりの全てだった。セイネリアにとって自分しか縋るものがないのであればもっと頼ってくれれば良いのにとシーグルは思う。

――いや……俺が悪いのか、お前にくだらない条件をつきつけなれば、もう少しお前を安心させられたのかもしれない。

 途方に暮れるような思いで天井を見上げて、少し大きく息を吐き出す。それからふと思い立って彼の手を探ってみる。最近デスクワークも多くなったセイネリアは、篭手を付ける事がほぼなくなって腕甲にグローブを付けているだけが普通になっていた。だからグローブの上から触れば、自分のマントを握り締めるその手の方に指輪の感触を見つけて、シーグルは苦笑してため息をついた。

「……本当に、どれだけ怖いんだ、俺はどうすればいいんだ」

 そうしてシーグルはふたたび彼の身体を抱きしめて背を緩く叩くと子守唄を口ずさむ。それから目を閉じて、愛しい男の体温と匂いに包まれながら意識が薄くなっていくままに身を委ねた。



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 自分的にこのエピソードで気に入ってるシーンが書けたのでちょっと満足。
 



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