願いと想いが向かう処
※文中には一部性的表現が含まれています。シーグルの回想分、ほ〜んとにちょっとだけです。




  【8】



 空の色が闇から水色へと切り替わっていく丁度その時間、その狭間にある深い青色を眺めながら、セイネリアは夜行性の肉食獣のような金茶色の目を細めた。
 朝の早いアッシセグでも、港はともかく、海を眺める高台には流石に人の気配はない。こうして、誰もいない早朝に一人で夜が明ける空を見にくるのが、今ではセイネリアの日課のようになってしまった。潮風と遠い波の音をその身に受けて、人からはおそれを持ってその名を呼ばれる黒い騎士は静かに目を閉じた。

 セイネリアが、シーグルの結婚が決まったとの知らせを受けたのはつい昨日の事であった。
 シーグルが相手を変えずヴィド卿の娘と結婚するのは予想している事であったし、相手の事情から結婚を急ぐだろうという事も想定内の事だった。それ以前に、彼が結婚する、なんて事は分かり切っていた事で、だからと言っても自分にとっては何も関係ない事だと思っていた。

 だのに実際、彼が公然と誰かのモノになるという事には、少なからず心が波立つらしい。

 自分は女ではないし、そもそも結婚などという物にも何の意味も見出していないから、彼が結婚したところで何も感じないだろうと思っていた。
 けれども、こうして心が平静を保ちにくくなっているのは、おそらくシーグルの発言のせいなのだろうとセイネリアは思う。

『シルバスピナの家を継ぐと決めた時から、ずっと決めていたんだ。誰とも恋愛はしない、どうせ祖父が決めた人と結婚するのだから、その人だけを愛そうと』

 考えてみれば、シーグルは家族というものに特別強い思い入れがある。幼い頃に家族と引き離された所為もあって、彼自身が作るだろう『家族』というものにもきっと相当な覚悟と想いがあるとは予想出来る。
 だから、セイネリアは不安になるのだ。
 首都ではその名を聞いただけで逆らう気をなくす最強の男が、不安で、不安でたまらなくなる。
 あの、真っ直ぐで真面目で不器用な青年は、きっと言葉通り、妻だけを愛そうとする――セイネリアの事など頭の中から追い出して、追い出そうとして、誠意を持って妻を迎えるのだろう。

「……人間というのは、一度味を占めてしまえばどこまでも貪欲になるものだな」

 彼の事を思うといつでも口元に浮かぶ自嘲の笑みのまま、セイネリアは自分を嘲笑う。

 たとえ手に入らなくても、彼が彼で在るならば、自分の中の空虚は埋められる。

 それは嘘偽りのない真実で、セイネリアの感情にとって核ともいえる切実な願いである。
 けれども、それだけで満足しない感情がある事もまた、セイネリア自身自覚があった。想いのまま彼に触れて、抱いて、傍にずっといて欲しい――それは愛情というものには当然ついてくる欲で、セイネリアでさえその欲求を抑える事は難し過ぎた。自分の欲と願いが相反する時に、願いを取る事は恐ろしい程の苦痛と覚悟が必要だった。
 だからこそ、一度満たされる事を知ってしまった欲は更に膨らむ。もっと触れていたい、離したくないという欲は、正しく判断しようとする思考を浸食してくる。

 既に空の大半が水色に切り替わろうとする中、追いやられて消えて行こうとする深い青色に向けてセイネリアは呟く。

「シーグル、俺はお前の中でどれだけの意味を持っている?」

 消えていく闇を追いかけて、空から失われていく夜と朝の狭間の青は、誰よりも強く真っ直ぐな銀髪の青年の瞳の色そのものだった。








 シーグルは、目の前の男を見つめて思う。

 いつからだったか、自分を見つめる彼の瞳は、いつでもどこか不安そうだった。
 誰よりも強く、誰よりも自信に溢れた男は、自分を見つめる時だけ、琥珀の瞳に不安というこれ以上なく彼らしくない感情を灯す。

 ――俺は、お前といけない、セイネリア。

 言えば彼は毎回答える、『分かっている』と。
 それでも何度も言ってくるのだ『愛している』と。

 おおよそ彼らしくない感情ばかりをうかべて自分を見つめてくる男に、シーグルは叫びたくなる。
 もう、自分を見るなと。
 愛している、なんて言わないでくれと。
 それでも、彼が唇を合わせてくるとそれを受け入れてしまう。体を触れられると熱がこみ上がる、彼を受け入れると体が歓喜に震える。

「愛している、シーグル」

 誰よりも強い男の切実な声が、耳の中に低く、心地よく響く。
 浅ましい身体はそれだけで快感に震え、受け入れた男を更に締め付ける。中を満たされ、かき回されるその熱い肉の感触に、女のような高い声が口から溢れる。
 理想的な戦士の体に縋りつき、その体温を感じて、匂いに包まれる。与えられるキスを自ら強請って思うまま喘いで、ただ快感に流されれば悦びで全身が満たされる。
 それは、とてつもない快楽であり、満たされているという満足感であり、全てを委ねられる腕に包まれた安心感であり、そして幸福感だった。
 このままずっと彼に全てを委ねていれば、いつでも楽にそれらを手に入れられるのだと、耐えがたい甘い誘惑が押し寄せてくる。自分の立場を捨て、彼を選んでしまえば楽になれると、心の奥がささやき掛ける。

――それでも、俺は、お前を選べない。

 暗闇に映える琥珀の瞳が、愛おしげに自分を見つめてくる。
 愛していると何度も囁く声が聞こえる。
 揺れる視界と思考の中、快感に塗りつぶされながらも、ただ彼を求めればすべてが満たされる気がした――。

 シーグルが目を開けばそこは暗闇で、朝はまだ遠い時間である事を告げていた。
 ふと、見開いた瞳の傍を手で触れればそこは濡れていて、自分は泣いていたのかと思う。
 シーグルは起き上がり、ベッドからも下りると、バルコニーに出る為の自分の身長よりも大きな窓へと歩いていく。

 あの、アッシセグの領主の館で、シーグルは何度もセイネリアに抱かれた。
 シーグルは初めて、彼が与えてくれる感覚を全て受け入れた。自ら彼を求めて声を上げた。そうして、彼に抱きしめられて眠った。

 例え、自分が結婚したとしても、セイネリアは変わらず愛しているというだろう。
 それは予想ではなく確信だった。彼の想いは変わらないと、そう信じてしまえるだけのものが、自分に触れる彼のそのひとつひとつの動作や見つめる瞳にあった。

「それでも、セイネリア、俺はお前を愛さない、お前を選ぶ訳にはいかない」

 幼い頃からの誓いを放棄する気はシーグルにはなかった。彼女と結婚すると決めた時点で彼女だけを愛すると決めた。シーグルがシルバスピナ卿としてあるべき道をゆくのなら、あの黒い騎士に全てを委ねる訳にはいかなかった。
 それはシルバスピナを名乗った時から一度も変わる事なく決めていた事だった。変わる筈のない結論だった。

 なのに、どうして、こんなに心が沈むのか。こんなに苦しく、痛いのか。

 シーグルは自嘲を込めて暗闇だけの窓の外を眺める。
 忘れよう、なんて卑怯な事はいわない、いえる筈がない。
 この心の痛み以上にあの男が傷ついている事をシーグルは知っている。彼が今でも自分の事を求めて、けれども手を離して、そして恐れている事実を知っている。だから忘れて、自分だけが楽になろうなどとは思わない。
 そのくらいしか、今のシーグルが彼に対して出来る事はない。
 例えただの自己満足でも、彼の想いを心に刻みこんでおくことしか自分には出来ない。

「次にお前に会った時、俺はもう、お前を求めない……俺は、彼女を裏切れない」

 言い切れば、また涙が落ちる。
 その理由を、シーグルは自分の中で見つける事は出来なかった。








「姫様、そのお花は何という花なのですか?」

 ターネイが聞けば、彼女の主はにこやかに、本当に嬉しそうな微笑みと共に答えてくれる。

「花の名前はないの。シルバスピナ卿の弟君が植物操作の魔法使い見習いだという事で、調合で作られた花から一番綺麗なものを選んで持ってきてくださったの」
「まぁそれでは、それはこの世の中に一つしかない花、という事になるのですか?」
「えぇ、そうね」
「では、姫様がその花に名前をつけるべきでしょう」
「えぇ、あの方もそう言って渡してくれたわ」

 言いながら、幸せそうに鉢を撫でる彼女に、ターネイの頬も緩むのは仕方ない。

「とても綺麗な青ですね」
「えぇ本当に」

 うっとりと、いつまでもその花を見ていそうな主の様子に微笑みながらも、ターネイもまたうっとりとその花を見つめる。青い花は、一言で青といってしまえばそれまでだが、花びらは中心に近い程深い青色で、外にいくほど薄い色へと美しいグラデーションを描いていた。

「前回、好きな色を聞かれたから……それでこの花を選んでくださったのでしょう」

 それには思わずクスリと音が漏れてしまう。なにせターネイは、彼女が元は赤い色が好きだという事を知っている。けれども勿論、彼女が嘘をついたのではない事もまた分かっている。つまるところ彼女は、シルバスピナ卿を見た時から青が好きな色になったというだけの事だ。

「でも、切り花よりも鉢植えで頂けて良かったですね。切り花なら枯れたら捨てるしかありませんが、これなら花が落ちても育てる楽しみがありますもの」
「えぇそうね……これの育て方で何か聞きたい事があれば連絡してくれっていわれてましたし」
「あらあら、では、マメにお世話をしていろいろお聞きしなくては」

 言えば彼女はぽっと頬を染めて、それからやはり幸せそうに笑う。

「そうね……そうよね」

 ただの連絡だけだと、あまり頻繁にするのは礼儀上どうかと思って抑えていた彼女の気持ちを汲み取ってくれたのか、あの真面目すぎて不器用そうな青年にしては気の利いた贈り物だとターネイは思う、それに――。

「きっと、これが完全に枯れる前には結婚式ですから、もう、連絡をわざわざ取る必要などなくなります」





 ――それから二月後、リシェの街では領主の結婚式がとり行われた。





END
 >>>> 次のエピソードへ。


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そんな訳でやっとこのお話も終了。次回エピソードはエロちゃんと書きます〜。




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