【4】 それから一日飛んだ翌々日。シーグルがナレドと約束をしたその日、隊の仕事は守備隊の代わりに早朝の街周辺の見回りをしてくることだった為、シーグル達はこのところにしては珍しく、日が沈む時間には解散出来る事となっていた。 「シーーーーグルっ、話があるんだっ」 解散後、自分の執務室へと歩いていたシーグルは、必死の形相で走ってくる友人を見て軽く頭を押さえた。 その代わりに、シーグルの横にいた人物が大きく息を吸って怒鳴る。 「この馬鹿野郎っ」 もう少しでシーグルに手が届く、というところまできた時、ロウはその隣にいた古参騎士にそれで頭をはたかれた。 シーグルはそれを見て、深くため息を付いた。 「ロウ、その名で呼ぶところを他人に聞かれるといろいろ面倒なことになる。基本はちゃんと人払いをした時か、せめて執務室にいる時までにしてくれ。当然だが、今回のようにいくら近くに人がいなくても大声で呼ぶなんていうのは言語道断だ」 「う……わあったよ……」 頭を押さえて涙目になりながら、ロウはシーグルの顔をじっと見つめた。実を言えば、シーグルだってそんな事を気にするのが面倒なのだが、立場上仕方ない。 「それで、何の用だ」 「いや、用って言われると困るんだけどさ……」 「そうか、用がないなら行こう、グス」 そうしてあっさりシーグルが背を向けて歩いていこうとしたのを見て、ロウは焦ってそのマントを掴んだ。 「いや待て、ちょぉっと待ってくれ、本当にちょっとだけだからっ」 そこまで言われればシーグルも足を止め、胡散臭そうな顔をして、一応幼なじみである友人を振り返った。 「えーとな。お前と俺が会うの、どんくらいぶりだと思ってるんだよ。久しぶりに会ったんだから声くらい掛けてもいいだろ」 「用がそれだけなら……」 「わーったわーった、もうちょっと待ってくれ」 再び行こうとしたシーグルを縋るように引き留めると、ロウは今度は姿勢を正して表情を引き締める。それから、軽く咳払いをして喉を整えて、一旦真顔になった後、改めて微笑むと口を開いた。 「その……遅くなったけど、新しいシルバスピナの当主様になって……えーと、その、おめでとう。友人として、祝福の言葉くらいは言わせてくれ」 不審そうに曲げられていたシーグルの眉が、それで柔らかいカーブを描く。それから、シーグルもまた姿勢を正して真っ直ぐ友人に向き直ると、僅かに微笑んだ。 「ありがとう、ロウ」 その顔を見たロウが、途端にかっとしまりのない笑みを浮かべる。 「あの……さ、お前がシルバスピナ卿になっても、今まで通り友人と思っていいん……だよな。いやその、人目のつくとこじゃ名前呼びしちゃいけないとか、そういうのは仕方ないけどさ、その……友人と思っててもいいんだよな」 「勿論だ」 言っている内に不安そうになっていった友人に向けて、シーグルは強い声ではっきりと答える。 そうすればロウは、今度は少し泣きそうな顔になったかと思うと下を向き、シーグルの肩に手を掛けて、大きくため息をつきながら体中の力を抜いた。 「よぉぉかったぁぁああっ」 だが、そう言った後。 「なんてーか冷たそうに見えてもさ、やっぱそこまで薄情じゃないよな、お前って」 彼は調子に乗って、今度はシーグルに抱きついてこようとした……のだが、それが成される前に、シーグルの手がロウの胸を押して阻み、更に追加で、横で見ていたグスがロウの額を叩いた。 「調子に乗ンな。ったく」 叩くだけでなく、グスはロウの背後に回り込むと、羽交い締めの体勢で無理矢理シーグルから引きはがした。 「こんくらい、男同士のスキンシップの範疇だろっ」 もがきながらも離れていく友人に、大きなため息と冷たい一瞥をくれてやってから、シーグルは彼にくるりと背を向ける。 「おーい、シーグ……じゃない、シルバスピナ卿〜」 「お前の下心は見え透いていすぎるんだ。スキンシップ云々は、そのにやけ顔をどうにかしてからにしろ」 「おいっ、待ってくれってー」 背後に聞こえる声を完全に無視をして、シーグルは今度こそ、足を止める事も振り返る事もせずにその場から歩き去った。 「……まったく、あいつは何を考えてるんだ」 ため息をついたシーグルを見て、追いついてきたグスが声を抑えられずに笑っている。 「いやまぁでも、あれであいつも考えて馬鹿やってんだとは思うんですけどね」 「どういう事だ?」 「そうですねぇ……んでは隊長は、あいつがもし、今会った途端いきなりかしこまって『シルバスピナ卿』って言い出したらどうしましたか?」 言われてシーグルは考える。 確かに、彼が急に他人行儀にそう呼んできたなら、自分はショックを受けたかもしれない。 「隊長としちゃぁ、あいつがいつも通り馬鹿言ってくれてほっとしたんじゃないですか。……本当はちょっと顔合わせ難かったんでしょう? 自分の立場が変わって、名前呼びはだめになって、どう接したらいいんだろって、違いますかね?」 シーグルは口を閉じる。それは否定できなかった。 騎士団に帰ってきてから、忙しくてロウと話す機会がなかったというのは事実だが、会えたら会えたらでどう接しようと考えていたのも本当の事だ。彼とは貴族とかそういうのを抜きにして、幼い頃に村で過ごした時の延長のような関係を続けて行きたかった。ただ、今の立場では、それを堂々とする訳にもいかない事も分かっていた。 「まー素でやってる可能性もありますがね。あいつ馬鹿ですから。ンでも最近は、あいつの普段の訓練態度みてたら馬鹿に出来なくてですね」 「そうなのか?」 「えーまぁ、隊長は特にここんとこ忙しすぎて見てないでしょうけどね。すごいですよ、暇さえありゃ何かしら鍛えてるようでしてね。朝も会う事はありませんが、どうも別のとこでずっと何かやってるみたいで、休憩してる姿もみませんね」 ロウは何度も何度もシーグルに友としてではなく、騎士団にいる間だけでもいいからそれ以上の関係を持ちたいと言い寄ってきていた。その度にわざと手ひどく振ってきたシーグルだったが、ロウは少し前に、セイネリアとの関係をシーグルに聞いてきた事があったのだ。 その時からだ、ロウはシーグルに、お前に釣り合うくらいに強くなる、と宣言して、今まで以上に必死に鍛えるようになった。実際、その後に一度だけ手合せをした事があるが、見違えるくらいに強くなっていたのを覚えている。 彼は、自分を支えたいと言ってくれた。 いつでもきつそうにしているシーグルの、心の深い部分を支えてやれる存在になりたいと。その為に、それが出来るくらい強くなると。――今の彼の鍛錬する姿が、それが本気だという事を教えてくれる。 彼が強くなる事は、友人として嬉しい事だ。 けれどそれが自分の為なのだと思えば、申し訳ない気持ちと、自分にそんな価値などないという気持ちにいたたまれなくなる。 「……長、隊長っ」 ふと、耳の近くで声を上げて呼ばれて、シーグルは驚いて足を止めた。 「すまない、グス、何だろうか?」 隊のまとめ役でもある古参騎士は、大きくため息をついて苦笑した。 「考え込んでいたなら、こちらこそ邪魔して申し訳ありませんでした、が……その、あの坊やを隊長はどうするつもりなのか気になりましてね」 「坊や?」 頭がすっかりロウの事を考えていた分、一瞬、本気でシーグルはグスの言葉が分からなかった。 「一昨日の坊やですよ。そろそろ来てる頃じゃないですかね」 そう言われて、急激に思い出す。 そもそもロウに会う前は、シーグルはグスと一昨日に会う事を約束した青年――ナレドの事について話していたのだ。 「そうだな、ロウと話し込んでいて遅くなってしまったから、もう来ているかもしれない」 焦って歩き出そうとしたシーグルだったが、即座にグスに引きとめられる。 「いやその前に、少々俺から提案があるんですが、いいでしょうか?」 他に人がいない時はいつも砕けた態度を取る彼が、こうやって真剣にこちらを見てくるのは珍しい。だからシーグルも、彼の話をちゃんと聞く為に姿勢を正した。 「隊長、あの坊やですけどね、隊長の従者にしてやるってのはどうですか?」 思いがけない事を言われて、シーグルは正直に驚いた。 「従者? いや俺はまだそこまでの……」 そんなシーグルの様子に、グスは思い切り顔を顰める。 「貴方の身分と実力でそこまでじゃないっていったら、誰も従者なんて取れませんよ」 「……だが、俺の歳ではまだ……」 「いや、そりゃ隊長は若すぎますが、貴方が従者連れてておかしいなんて思う奴はいやしません。丁度貴族位を継いだところですし、いい機会ではないでしょうか」 「だが……まだ俺は未熟すぎて……人の見本になれる程の人間では」 なにせシーグルは、自分が従者を取るなどという事を考えた事がなかった。 自分はまだ子供過ぎて、いろいろ未熟すぎる部分が多い――いつもそう思っているシーグルであるから、まだまだ従者など取れる身分ではないと思っていたのだ。 「だーかーら、その件に関しては誰にも否定させやしませんよ。歳がどーこー関係なく、あんた程立派な貴族騎士は他にいません」 グスは怒鳴る勢いでシーグルに言ってくる。 怒ったようにも見える彼の態度に、シーグルは自然と身を引いてしまった。 そうすればグスは自分の態度に気付いたのか、気を落ち着かせる為に一度息をつくと、今度は穏やかなの声で言ってくる。 「……隊長、あの坊やはいい子じゃないですか、騎士になりたいっていってたあの目は実に真っ直ぐでいい目だった。彼みたいなのが騎士になるべきだって思いませんかね?」 それにはシーグルも即答する。 「あぁ、そう思う」 グスは、それで嬉しそうに笑った。 「貴方は立場上苦労しなかったと思いますけどね、平民が騎士になるので一番大変なのは、従者にしてくれる騎士様を探して試験の許可証を貰う事なんですよ。あーやってあの子みたいに騎士になりたいってがんばってる連中の大半は、それが無理で諦めるんですよ。だから……彼の夢を現実にしてやるなら、貴方があの青年を従者にしてやるのが一番いいと思いませんか?」 確かに、シーグルはその事にすぐ思い至らなかった。それはシーグルが、立場上、あっさりと祖父が決めてきた騎士の従者になれたからだ。 貴族の特権を使わずに騎士になったというのは、シーグルにとっては誇るべき事であった。けれども、本当に平民と同じ立場で騎士という称号を手に入れた訳ではないという事も、ちゃんと理解しているつもりであった。それでも自分はまだ、貴族として当たり前にあったものを当たり前に受けていたのだと、言われて改めて実感する。 「あぁ……確かにそうだな。ありがとう、グス」 ナレドはその日、まるで自分は夢の中にいるのではないかという錯覚に陥った。 もしかしたら、自分は何かあって瀕死の状態で、死ぬ間際に神様が見せてくれた幸せ過ぎる夢を見ているのではないかとさえ思った。 それくらい、ナレドにとっては、あり得ない程いい事ばかりが起こったからだった。こんな都合が良すぎる展開、絶対に夢に違いないとしか思えない出来事が彼の身に起こったのだ。 一昨日の約束通り騎士団へ向かえば、最初は鷹揚な態度だった騎士団の者は、シルバスピナ卿の名前とナレドという自分の名を伝えた途端、態度を一変させて個室へ通して待っているように言ってくれた。 暫くすれば、騎士とはとても思えない頼りなさそうな青年がやってきて、シルバスピナ卿の執務室へと案内してくれた。 そうしてそこで待っていれば、本当にシルバスピナ卿本人が来て、彼と暫く話をする事が出来た。それだけでもナレドとすれば、十分、夢の中の出来事のような幸せな時間だったのだ。 けれども、そうして暫く話した後に彼が言ってくれた言葉は、ナレドを更に現実だとは到底思えないどころか、夢にさえ思わなかった世界へと導いてくれた。 「ナレド、君さえよければ……俺の、従者にならないか?」 この時ナレドは、すぐには本当にその言葉が現実なのか理解できなかった。完全に、自分の幻聴だと思ったくらいに思ってもいない言葉だった。だって、あまりにもそんな事、おそれおおすぎて全く期待していなかった。 騎士を目指している以上ナレドだって、いつかは騎士の従者になって、試験の許可証を貰わなくてはいけない事は知っていた。けれどもまさか、ナレドにとっては騎士としても貴族としても最高の人物だと思っている彼の従者になれるなんて、自分の身分を思えば考える事さえ申し訳ないくらいあり得ない事だと思っていた。 だから、言葉を理解した途端、そんな事が頭の中をぐるぐると駆け回って、ナレドは思わず泣き出してしまったのだ。 「ナレド? どうしたんだ」 驚いて立ち上がったシーグルに、ナレドは椅子から下りて、その場で蹲って頭を下げた。 「ありがとうござます。本当に、本当に、本当に嬉しいです。その言葉だけで俺、一生生きていけます。――でも、だめです。貴方みたいな立派なお方の従者なんて、俺じゃだめです、勿体ないです、おそれおおいです。立派な貴方の傍に、俺みたいなのを置いたらいけません」 言葉だけでも夢のようにナレドにとっては嬉しかった。それでもナレドが尊敬する、誰よりも立派で綺麗なこの騎士に、自分なんてものが傍にいてケチがつくのは許される事ではないと思った。 「いや、そんな事はない。君は立派な志を持った素晴らしい青年だ、もっと自信を持って……」 「いえ、俺なんかが貴方のお傍にいていい訳がありません、どうか――」 シーグルもどう宥めればいいのか困惑して、だがナレドは頭を床に擦り付けたまま、絶対に折れようとはしなかった。 だが、そこで突然、ナレドの首、というか首根っこの服を誰かの手ががっしりと掴むと、無理矢理頭を上げさせるように強引に持ち上げた。そうして顔を上げたナレドの前に、シルバスピナ卿の傍にずっとついていた中年の騎士が顔を近づけてきた。 「まぁ、ちょっと聞けボーズ。うちの隊長はな、お前さんを従者にしたらどうかって話を振ったらだ、自分はまだ若すぎてそんな身分じゃないと言い出したんだぞ」 ナレドはそれを聞いて、大急ぎで首をぶんぶんと左右に振った。 「そんな、シルバスピナ卿以上に立派な騎士様はいません。ただ俺ではシルバスピナ卿の従者などという身分は恐れおおすぎて……」 すると騎士は、こちらの首を掴んでいないもう片方の手を前に出して、まるで口を塞ぐように顔の目の前で掌を広げた。 「いやまぁ、まず聞け。まぁそういう訳でな、この言葉から分かる通り、うちの隊長さんはちぃっと自覚が足りない訳だ。この人がどんだけ立派で、どんだけ皆から尊敬されてるかってのを、ちゃんと自覚して貰わないとならないというのが俺らの悩みの種なんだ」 「……は、はぁ、そ、そうなんですか……」 騎士は心底困ったように溜め息をついて、ナレドは困惑して気の抜けた返事を返した。 そこでこっそり、シーグル本人に視線を向けると、彼は少し恥ずかしそうに目をさ迷わせていて、そんな彼の少し子供じみた表情に、ナレドの顔も自然と緩む。 「そこでだ」 急に大きい声を出されて、驚いて視線を目の前に騎士に戻したナレドは、今まで難しそうな顔をしていた騎士がにやっと笑顔を浮かべているのに気付いた。 「お前が傍にいて、うちの隊長がどんだけの事をして、下々の者からどう思われてるかってのをちゃんと教えてやって欲しいんだ。お前さんの態度見てれば、うちの隊長も自分がどういう身分かってのを、ちっとは自覚すると思う訳だ」 「で、でも……俺なんかがお傍にいたら……」 再びちらとシーグルに視線を向けると、今度は彼もこちらに気付いたようで、微笑みながら優しく頷いてくれた。ナレドは思わず、そんな彼の顔に見蕩れてしまってから、今度は顔を赤くして視線を戻した。 ナレドの様子を見ていた目の前の騎士の方はやはり笑っていて、そして今度は優しい声で言ってきた。 「そんな事は問題ない。なにせうちの隊長は、俺らみたいなはみ出し者を引きつれてても、皆から一目も二目も置かれてる立派な方だ。お前さん一人増えたくらいじゃまったく問題はねぇよ」 ナレドはぐるりと、今度は部屋全体に視線をめぐらせた。 優しく微笑んでいるシーグルの表情はそのままで、更にこの部屋にもう一人いた最初にここへ案内してくれた青年は、目があうとにんまりと笑って、更に手を軽く振ってウインクをしてくれた。それに驚いてから、ナレドは思わず口元だけで笑ってしまった。 そうして、視線が再び目の前の騎士に合うと、彼はそれを待っていたのか、ナレドの目を真っ直ぐに見つめて口を開いた。 「なぁ、お前は将来隊長の役に立ちたくて騎士になんだろ? ……だったら、この人を守れる従者って役をここで引き受けなかったら、何時、この人の役に立つんだ?」 力強いその声に押されるように、ナレドの口からは声が出る――俺、従者になります、と。 --------------------------------------------- 最後のグスのセリフに。『今だろう』とかつけたくなるのはいいとして、ナレド君が仲間になるとこまででした。 |