残された者と追う者の地




  【1】



 空は高く、青く澄み渡り、風らしい風もない少しだけ蒸し暑い中、その異変は起こった。
 結局、もう兵達は限界だったのだろうとはシーグルも後で思った事だが、その日、クリュース軍陣内の一角で暴動が起きた。彼らは撤退を求めて裏門に押し寄せ、魔法任せで内に対して手薄だった警備を押しきって扉を開け、柵の外へ飛び出した。そこに外で待っていた蛮族達が押し寄せて柵内に雪崩込み、辺りはまさに阿鼻叫喚に包まれた。

 いくら馬鹿と言っても、旧貴族の当主を襲おうなんて思う事自体、あの傭兵達は相当に追い詰められていたと言える。そして、噂に踊らされてそれだけ追い詰められていたのが彼らだけだったなんて都合のいい話がある筈もない。彼らと同じくらいに追い詰められていた者達は大量にいて、それが爆発する方向が違ったというだけの話だ。

 この時まだマシだったのは、裏門の外で待機していた蛮族達の数はそこまでではなく、一気にクリュース陣内を蹂躙する程の数はいなかったという事だった。ただ早朝という事もあってすぐ戦える状態でいた兵の数が少なく、当然ながら指揮すべき上の者達はまだ寝ている者さえいて、すぐに混乱に対処する事が出来なかった。だから、数は少なくても被害は多く、そしてそれ以上に兵達の混乱が酷く、その時のクリュース軍はもはや軍隊として機能出来る状態ではなくなってしまっていた。

「撤退だ。兵を集めて裏門の敵を押し返し、そのままウロスまで撤退する」

 その判断をフスキスト卿が起きて即したのだけは賞賛すべき事で、すぐに鳴り響く撤退指示の風笛の音で、シーグルは自分の天幕から飛び出して辺りの兵に声を掛けた。

「とにかく、逃げ回ってる連中を中央に集めろ。バラバラに逃げても敵の標的になるだけだと言え」

 すぐ戦える状態でシーグルの元にやってきた隊の連中にそう声を掛け、シーグルも即身支度を終えて中央へと向かう。それについてくるのはキールとナレド、そしてアウドの三人で、ランは他の隊の者達と同じく兵に声を掛けて回る方へ行った。

「撤退命令が出ている。中央に集まれ、死にたくないなら個別に逃げるな」

 シーグル自身も走り回る兵達に声を掛けながら向かっていた為、自然とその後ろに兵達がそのままついてくる形になる。中央に着いた時には一部隊を率いているような状態になって、怒鳴り合いをしていたフスキスト卿以下の領主達が驚いて思わず口を閉じる事になった。

 ちなみにシーグルはここへくるまでの間、どうして兵達はさっさと中央に走って行かず自分の後ろをわざわざついてくるのだとアウドに愚痴をこぼしたのだが、それに対して彼は「そりゃ貴方が、この状況でも動じる事なく落ち着いて見えたから、貴方の傍にいる方が生き残れると思ったんでしょうね」と即答した。
 つまるところ、状況が良く分かっていない兵達は不安で仕方ないのだ。だからその不安を少しでも軽減する何かに縋りたいのだと。彼らが不安に押しつぶされる前に、希望を与えてそれに縋るようにもっていければまだどうにかなるとシーグルは思った。

「中央には魔法使いが既に撤退の準備をして待っている。裏門にいる敵の数はまだ少ない。きちんと隊列を組めば突破は難しくはない」

 だから歩きながら、不安な顔をしている彼らにそう声を掛けた。

「……でも、魔法も……奴らに効かないんじゃ」

 小さく誰かが言った声が聞こえたから、それにもシーグルはこたえて言った。

「惑わされるな、魔法が効かない敵はほんの僅かだ。敵が断魔石を使っているだけなら、数をそこまで揃えられている筈がない。強化系の術は事前に使っておき、魔法が効かない敵がいたら効く敵から倒せ、効かない敵には魔法に頼らず複数人で対処しろ」

 それで少しだけ兵士たちの顔が明るくなったのを見て、シーグルは内心ほっと息を付いた。けれどそんなやりとりをしていたせいで、集まってくる兵達は更に増え、中央にくるのが遅れたといういきさつがあったのだ。

 結局、役職持ち連中の中で一番早く装備を整えて出てきたシーグルだったが、ついて来ている兵達を置いて行かないようにしてやってきたため、一番最後に指揮官であるフスキスト卿の前に行く事になってしまった。
 しかも、後ろからぞろぞろと兵を引き連れてきたシーグルの姿に、フスキスト卿は勿論、騎士団の他の役職付き連中も思い切り嫌な顔を向けて来て、シーグルとしてはかなり気まずい事になってしまった。
 とはいえ今回、彼らに憎まれる事は想定の内だとシーグルはもう開き直っている。
 そうしてその場で作戦の確認がされた後、すみやかに隊長クラスは各自の隊に戻って、クリュース軍の撤退が始まった。






「おいぼーず、危ないからな、お前は出来るだけ内側の方にいんだぞ」
「はい、ありがとうございます」

 撤退作戦が始まって動き出した部隊の中で、年配の戦士――どうやら騎士らしい――にそう声を掛けられて、ソフィアは出来るだけ内側の列にいくように移動した。本当はシーグルのすぐ傍についていたいのだが、この間のようにキールに声を掛けられない限りは傭兵風情がそうそう彼の傍にいく事が出来る訳がない。クリムゾンはもっと前に近い部隊にいて更にシーグルからは遠く、その他の傭兵団の者達はそれよりまた更にシーグルから遠い部隊にいる。だから何かあったら、ソフィアが彼のところにいかなくてはならない。

 予め、ラタからの報告で聞いていた通りならば、裏門周囲にいる蛮族の数はそこまで多くはない筈だった。というか正式にそこに配置されていた敵はおらず、まだ揉めている蛮族達の一部の部族が勝手にそこにいたという程度の筈で、彼らは扉が開いた時点で既に全員、中に入り込んで暴れているだろうと考えられた。だから今、裏門から入ってきている敵は急いで駆けつけてきた他にいた部族で、外に隊列を組んで待ち構えているといる連中がいるという訳ではない筈だった。
 ソフィアの眼にも裏門周囲の混乱ぶりは見えているものの、部隊として纏まってやってくる敵の姿は見えていなかった。
 だからこの柵を出るまでは問題がない筈。
 けれども何故か嫌な予感がして仕方なくて、ソフィアの心臓は先程からずっと落ち着かずに騒いでいたのだった。






 裏門を出るまでは、クリュース軍として特に大きな問題はなかった。
 蛮族達は隊列を組む事もなくばらばらに入り込んで来ていたから、きちんと隊になっているクリュース側が彼らを蹴散らして門から出るのは割合にすんなりと事が進んだ。出た途端矢の雨が降ってきた事も、それでも準備していた魔法使い達のお蔭で大きな被害が出る事はなかった。
 だがそれより問題は、弓矢部隊が待ち構えていたという事は当然敵の主力である歩兵部隊も待ち構えているという事で、クリュース軍が矢の雨の地帯の抜けた後、そのすぐ先の丘の上に蛮族達の部隊が姿を現した。

 この時、敵に断魔石を持つ者がいる事を前提として、突破口を開くべく槍騎兵部隊の防御に、常に呪文を唱えて守る持続魔法系ではなく、事前に掛けておく系統の防御魔法に切り替えたのは正しい判断だと言えた。その系の魔法が使える魔法使いが少ない為一度に突撃出来る人数は減るものの、持続魔法のようにずっと唱えていなくていいため次々と突撃部隊を送り出せるという利点もある。更にはその所為で部隊全体も無駄に横に広がる事なく縦に長くなり、突破力の高い陣形となる。
 前回の敗戦の原因となったとも言える槍騎兵隊だが、やはりクリュース軍内では一番の精鋭というだけあって、今回の対応は素晴らしいと言えるものだった。近年、槍騎兵隊の指揮官は平民出が多いというのも考え方が柔軟な理由なのだろうとシーグルは思う。

 とはいえ、そうして実戦経験と訓練に裏付けられた正規兵達はいいとしても、それ以外の者達との連携が今一つ噛み合わない。クリュースとしては槍騎兵隊の開けた敵陣の穴を広げてそのまま突っ切りたいのだが、早く逃げたい者達が焦って前に進み過ぎ、前が詰まってどうしても陣形が横に広がり出す。そうすれば横に飛び出した者達を蛮族達が分断しに来て確実に人数が削られていき、ただでさえ左右の敵と交戦しながら前に進む為、足を止めて戦っている者達とひたすら前に進む者達の違いで、自然と縦の隊列も長くなっていく。

 それでもどうにか前衛部隊は敵を突っ切ることに成功し、蛮族達の隊を分断して突破口が作られる。シーグルのいる位置は元から中央前よりの比較的安全な場所というのもあって、程なくして敵の包囲を抜けた場所にまでたどり着いていた。
 だが、そこで馬の足を一度止めたシーグルは、後続部隊を振り返って背筋を冷やした。

――分断される。

 シーグルのように馬に乗っていた部隊は抜けられたものの、既に包囲の出口は塞がり掛けていて、このままでは大半の兵が敵に囲まれたまま取り残されてしまうとシーグルは判断した。

「アルスオード様、どうされたんですか? まだここは危険です」

 ナレドの声を聞き、歯を噛みしめたシーグルは、今は腰に差しているセイネリアから渡された魔剣に手を掛けた。まだ実践で使った事はなくても、この剣が何を出来るかは大まかには分かっている。この剣の中にいる魔法使いの能力、つまり風で矢を払う事が出来る筈だった。実際、アウグの指揮官バウステン・デク・レザという男と戦っていた時放たれた矢からシーグルを守ったのは、この剣の所為だとシーグルは確信していた。

「距離を保っていれば、問題ない、か……」

 呟いて、魔剣を抜き、シーグルは大きく息を吸う。
 それから馬首を回して馬を蹴った。





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戦場編の決着編。シーグルはいきなりまたアレです。




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