【8】 朝日の中、バン卿の屋敷の奥の庭に、ひたすら剣を振っている影が一つ。 いくら朝の鍛錬とはいえ、この時間から完全な甲冑姿というのは相当な違和感があるが、その姿を一目見ればそんな事は忘れて思わず見とれる程、その人物の持つ緊張感の中の無駄のない正確な動きは見事であった。 それを暫く見ていたエルは、一度彼が動きを止めたところで手に持っていた長棒で自分の肩を叩くと、よし、と小声で気合を入れて彼に近づいていった。 「レイリース、本当にお前はいっつも早いな」 セイネリアに午前の予定がなくて邪魔された時以外は大抵朝早く起きて剣を振っている彼は、エルに気付くと一度剣を鞘に納めて一息つく。 「エルも朝食会に呼ばれたんじゃないのか?」 「いやー、貴族様と一緒の席で食うとかさすがに俺には無理だ。ってことで謹んでカリンに役目を譲ってきた」 「バン卿はそんな貴族貴族した人物ではないぞ」 「でもあのオッサンすげー気難しそうな顔してっだろ」 「まぁ、厳しい方であるのは確かだが、小言をあれこれいうタイプでもない」 今朝はここの領主であるバン卿と、ロージェンティやセイネリア、その他参加している主要貴族達が集まって朝食会が開かれていた。付き添いの者も共にと言っていたから、交流を兼ねた割合くだけた席ではあるのだろう。まぁともかく、それでセイネリアからさっさと解放されたシーグルはここで剣を振っていたという訳だ。 「まぁ貴族というより騎士って人物らしいとは聞いてるがね……まぁどっちにしろ、一緒の貴族様方がうるせぇだろ。そういう席で食ったら美味いモンも絶対味が分らなくなンだろうしよ、楽しい食事が台無しになるのはお断りだね」 「楽しい食事、か……」 返された彼の少し寂しそうな声に、エルは苦笑する。 彼にとって食事は『楽しいもの』ではない。小食過ぎる彼はだからこそ今回のような食事の席には同行しなくていい事になっているが、いつまでもそれでは正体を隠し通すのは難しいのではないかとも思う。……ただ、そういう理由でなくとも、エルはどうにかして彼のこの小食を治してやりたいと思っている。本物ではないといえ兄を名乗っている身としては、どうしても彼に肩入れしたくなるのは仕方ない。しかも役目を決めた段階で主の公認なのだから、誰にも文句を言われる筋合いなく堂々と構ってやっていい立場だ。 ――まぁでもそっちは無事王様を倒して落ち着いてからの目標だな。とりあえず今は出来るだけ早く、こいつに覚悟を決めて貰わなきゃならねぇからな。 トントン、と愛用の長棒で肩を叩いて、エルは一度大きく息をつく。 そうして、何か考え込んでいるらしいシーグルに向かって聞いてみた。 「で、だ。なんか悩んでるってーか苛ついてる事あんだろ。言ったろ、そーゆーのはいつでも兄ちゃんに相談しろってさ。ただ聞いて貰うだけでも結構違うもんだぜ」 先ほどのシーグルの鍛錬風景を見ていて分かってしまった事を聞けば、彼がばつが悪そうに迷う気配を見せてこちらを向いてくる。その所作が少し子供っぽく見えたから、なんだかエルは嬉しくなって笑ってしまった。 「適わないな。……確かに、ちょっといろいろな事が重過ぎて……それが不安で……そんな自分に苛ついていた」 「重い、か……まぁ、分かるがね」 この国の王座さえあっさり奪おうとする男の愛情をただ一身に受けるというのはそりゃ重すぎるわな、とエルだって思う。よくおとぎ話で『お前の望みなら何でも叶えよう』なんていう魔物や権力者の発言があるが、実際本気でそれを喜べるのは馬鹿だけだ。叶えられる望みが極限られる、一般人の発言ならまだ微笑ましくても、本当に力ある者からその言葉を言われたら、たとえ最初は喜んでいられてもマトモな人間なら怖くなるに違いない。 「残念ながら俺はお前の背負ってるモノを代わってもやれないし、手伝う事も出来ない。お前の代わりは誰もいない……あの男にはお前しかいないからな、お前しかセイネリア・クロッセスを支えられる人間はいないんだ」 「あぁ……分ってる」 それでもその重圧に抗えるからこそ、この青年はあの男に選ばれた。何も執着しない男が唯一執着するだけの存在になり得た。長くあの男といる身としては、彼にあの男を全部背負わせるのは正直申し訳ない気持ちもになるのだが、それでもあの男の心を支えられるのはこの青年しかいないのだ。だからエルが彼に言える事は一つだけしかない。 「だからな、その分、お前は俺達が全力で支えっから。まぁ、支えるって言っても愚痴聞いてやるくらいしか出来ないかもしれないけどよ。……なぁ、お前の立場的には不安も恐怖も感じて当然の事だ、それに弱音を吐きたくなったって当然なンだ、だからそれは自分の中でため込まないで俺達……俺やカリンやフユやソフィア、団でお前の事知ってる奴らにぶつけてくれていいんだよ。俺達は直接マスターを支えられねぇからさ、お前を支えてやる事でマスターを支えたいのさ」 そうすれば生真面目過ぎる青年はまず、ありがとう、と礼を言って、それから視線を外して遠くをみた。エルも彼に合わせるように、一緒に彼が見つめる遠くに視線を向けた。眩しい朝日に思わず目を細めながら暫く二人して遠くをみていれば、やがて抑えた声で彼が話しだす。 「あいつと共に行くと決めた段階で覚悟はしていた筈なのに、これからあいつがたくさん……殺すのだろうなと考えると、怖くて……それが自分の為にだと思うと一人でじっとしていれないんだ。多分、セイネリアにそんな事を言えば、俺が気にする事じゃないと言うんだろうが……」 あのセイネリア・クロッセスは、この青年の為にならどこまでも優しくなれる……それはエルも分かっている、実際みれば信じられない光景だと思ってしまうが、だからこそ今彼が抱えている不安はセイネリアには言えないのだろう。 さて自分は何と言おうかと口を開き掛けたエルは、また彼がこちらを向いた事で言葉を返すタイミングを失った。 「前にエルが言った通りだ。俺はやはり人の上に立てる人間じゃないのだろう。ここに来てまだ弱音を言っていたらとてもじゃないが軍を率いる事は出来ないな」 やれやれ、と更に返す言葉に困ったエルは面倒そうに頭を掻く。 「そんでもそれは、お前さんのいいとこでもあんだろ。いいか、人が死ぬのを見て何も感じないのは異常だ。だが戦場にいれば誰でもその異常が普通になってきちまう。お前は誰も憎めなくて、誰もが幸せであって欲しいと思うお人好しなんだ」 「そんな事はない、人を憎んだ事も、殺したいと思った事もある」 「ンなの別に誰でもあるだろ、特にお前の生い立ちでそんな事思った事もないって言われたらおかしいさ。……それでも、もしいざその人間が死んだとしてもお前はざまあ見ろと最後まで思えない人間だ。憎い人間が死んでさえ罪悪感を感じちまうんだろ」 俺はざまぁみろと思ったがな、とこっそりエルは心の中で思って、それでもその後感じた後味の悪さと虚しさも思い出して苦笑する。 「いいんだよ、それでさ。お前がそういう人間だからあの男と釣り合うんだろうしな。あの男が唯一選んだのがお前で良かったって俺は思ってる」 それでもまた俯いて考え込む彼を見て、エルはそこで思い切り息を吸った。それから。 「大丈夫だ、お前は一人じゃねぇっ」 言って、彼の背中を鎧の上ならと遠慮なく力いっぱい叩いてやって、驚いて体勢を崩しながらこちらを向いた彼に今度は笑ってウインクしてやる。 「……こういう時のお約束としちゃ使い古した台詞だが……まぁ、俺に言えるのはそんくらいだ。いいか、お前についてるのは俺達だけじゃない、例えお前が生きてるのを知らなくても、お前の家族や部下や友人がお前の心を支えてくれてるンだろ。いや、見知らぬ人の笑顔でさえお前は自分の支えに出来ンだろ。……つまりな、お前が大切だって、幸せになって欲しいって思える人の分、その人達の為にお前は強くなれる。お前の強さはそこなんだよ、それはマスターにはない強さなンだ」 それから、自分からは甘えられないだろうシーグルの頭を兜ごと強引に自分の肩に押し付けて寄り掛からせると、それをゆるく抱いてやって子供をあやすように背中をぽんぽんと叩いてやる。 「そんでもきっつい時はいつでも吐き出しにこいよ。お前のにーちゃんとして、俺はいつでもお前に胸を貸してやるつもりでいっから、辛いなーって思ったらいつでも泣き言いって甘えにきな。……まぁ、マスターの目の前以外、にしないと後が大変そーだけどな」 そうすればシーグルはこちらに頭を預けたまま笑って、それからまた、ありがとう、と礼を言った。 それは、冬が近づくのを実感できるような灰色の空の下、少し強めの北風が吹く日の事だった。グネービクデの城壁にいる見張り役のロックラン信徒の兵士かかろうじて視認できる位置に、とうとう現王軍の大部隊が姿を現した。 「リオロッツ軍の数は4千近くいるだろうという事です」 最初にその報告を受けた時には、さすがにその場にいた貴族たちの顔が鼻白んだ。こちらの予想の倍となるその人数は、かつてのファサンとの大戦の時でさえ一度に集められた事はない数であり、こちらの戦力の4倍になる。いくらこちら側が強固な城壁に守られているとはいえ、それに恐れを抱くなというのは無理な話だろう。 「そうか、なかなかかき集めてきたじゃないか」 ただし、この会議における決定権を持つ男は、それに驚く様子もなく、その獣じみた琥珀の瞳を僅かに細めて軽く笑うだけであったが。 「実質はそこまでの人数はいません。見た目だけですよ」 そこで壁に立っていた魔法ギルドからの使者が発言して、貴族達の間でざわめきが広がる。 「ふん、幻術か木偶か、見た目だけの連中がいるということか」 「はい、その通りでございます。実数はこちらの予想より少し多め程度でしょうかね」 「それは残念だな、人数はいればいるだけいいんだが」 「まぁそれでも十分な人数だと思います」 そこで続けられたセイネリアと魔法使いの会話には、他の面々も口を出せずにあっけにとられるしかない。常識で考えれば敵の人数を『いればいるだけいい』なんて言葉がでる筈がない、耳を疑うような事態だろうとは見ているシーグルも思った。 「そうだな、ギャラリーとしてはそれだけいれば十分か」 続くセイネリアの台詞には、きっともう訳が分らないと思っているだろうと、回りを見回しながらもシーグルはため息を付く。ただ勿論、シーグルはセイネリアの言葉の意味を正しく理解していた。 そもそもセイネリアは、これから戦をする気ではない。 彼がこれからしようとしているのは、自分の力がどれほどあるか、それを見せつけるためのデモンストレーションだと言ってもいい。運の悪い数百の命と引き換えに、セイネリア・クロッセスがどれだけ恐ろしいかを示すための見世物――ならばそれ以外の人間は等しく、それを見て、噂を広める為に集められたギャラリーと言える。 だから当然――。 「さて、やっと役者が揃ったようだからな。出るか、兵の準備は出来ているのだろう?」 立ち上がったセイネリアに、回りの者達が慌てて目を丸くする。 「まさか、いきなり貴方自ら出る気ですか?」 「当然だ、俺が前に立つ、出せるものは全員出せ」 「待って下さい、こちらは街で向かえ撃つのでは……」 「いや、出る。街内の守備に割り当ててある部隊以外は全部な」 「無茶苦茶だ、なんの為にここに来たんだっ」 それでもセイネリアの笑みは変わらない。自信に満ちた声で指示を出し、ゆるぎない足取りで貴族たちの前を直下の部下と魔法使いを引き連れて通り過ぎていく。 「カリン、兵の準備は終わっているか?」 「はい」 「魔法使いどもの配置は」 「こちらも終わっております、既に陣も引いてございます」 置いていかれて立ちすくむ貴族たちにちらと視線を向け、会議室を出る前にシーグルはそこで一旦足を止める。そうして、どうすればいいのか途方に暮れている彼らに向かって、深く頭を下げた。 「我が主はこの一回の戦いで全てを終わらせるつもりです。皆様方も速やかに、ご自身の役目を果たしてくださいますようお願いいたします」 シーグルが踵を返して主を追って部屋を出ると、慌てて部下に声を掛け、指示を出し、走り回る者達で会議場は一気に喧騒に包まれた。 --------------------------------------------- 次回は戦闘。ただし、勝負自体は早めに決まるかと。 |