【16】 「シーグル……どうしたんです?」 見た途端その優しい顔に驚愕と不安を張り付かせて、クルスはシーグルの元に駆け寄ってきた。そうして傍にきてすぐ、尋ねた答えを聞くまでもなく状況が分かってしまった彼は、泣きそうな程顔を顰めて震える手でシーグルの体にそっと触れた。 「呼び出してすまない、見ての通りなんだ。治癒を頼めるだろうか」 けれどシーグルがそう声を掛ける前に、彼は既に呪文を唱え出していた。すぐに頬の痛みが消え、体全体がじんわりと温かい感覚に包まれていく。 「ありがとう」 その感覚に目を閉じてほっと息を付きながらも、シーグルは彼に礼を告げる。 そうすればぽたりと、掴まれた腕に感じた水滴に驚いて、シーグルは彼の顔を覗き込んだ。 「礼なんか必要ありません。それより何故貴方が……こんな目に……一体誰が……」 ぽたり、ぽたりと、腕には彼の落した涙が落ちる。 シーグルは苦笑して、どうにか起き上がると、腕を掴む彼の手の上に自分の手を置いた。 「それは聞かないでくれないか。すまない、だがこの状況で頼れるのは君しかいないんだ、どうにか……動けるようにしないとならない」 「分かりました」 言って彼はぐいと腕で涙を拭うと、精液に塗れたシーグルの体に嫌悪する事なく、患部と思われる個所に触れてそこに術を掛けてくれる。だが、そんな彼でも男達に犯された後孔を治療しようとした時にはその酷さに思わず息を飲んだ。 「酷い……こんなの……」 彼の声が震えて再び涙声になるのを聞いて、シーグルはあえて明るい声で言った。 「完全に治せなくていいんだ、出来る範囲で……痛みが誤魔化せるくらいまでになれば十分だ」 「何言ってんるですか、治しますっ、絶対に治しますっ」 そうして彼はその患部に触れるとまた術を唱えだす。今度は長く、なかなか彼の呪は終わる事がなかった。だがそれだけに、シーグルにはその部分の痛みが和らいでくるのが感じられた。 体勢的に彼の顔は見えないが、声だけでも彼に相当負担が掛かっているのが分かる。呪文の声は息継ぎが増えて途切れがちになり、触れている手が震えてくるのを感じて、シーグルは申し訳なく思いながらも今の状況に古い記憶を重ねていた。 初めて彼と出会った時――先輩の騎士に騙されて襲われたところを逃げてきたシーグルは、川で裸で体を洗っていた。そこにやってきた彼が、傷だらけのシーグルを見て、いいというのも聞かずに治癒の術を掛けてくれたのだ。その頃の彼はまだ神官見習いで、だからシーグルの怪我を治すのに気力も体力も使い切ることになってしまった。……どうにか傷が癒えた時には彼は動けなくなってしまって、だから彼が動けるようになるまで傍に居て、彼とたくさんの話をした。そうして彼が動けるようになった時、彼は友達になって欲しいと言ってくれたのだ。シーグルにとっては、シルバスピナを名乗るようになってから初めて出来た友達。それは大切な、大切な、思い出だった。 「どう……ですか? 傷は塞がったと……思うのですが」 その声で我に返ったシーグルは、そうっと下肢に力を入れておそるおそる立ち上がってみた。そうすれば、クルスの術は相当に効いたらしく、驚くくらいに痛みはなかった。 「あぁ、大丈夫だ、これなら動ける。ありがとうクルス、君の治癒術はやはりすごいな」 彼はリパ神官として前から治癒術が得意ではあったが、昔よりもその力は上がっているように思えた。なにせ元々、この手の内部まで続く怪我についてはリパ神官は得意ではないのだ。見えない部分を治す為には、力を絞れなくて術者は必要以上に消耗する。シーグルとしては、見える部分だけでも傷が塞がれば十分だと思っていた。 「それなら良かった……私が、すごいというより……最近、リパの力が強くなったらしく……リパ神官達は……皆、術の効きが前より良くなったと言っているんです」 「そうなのか?」 「えぇ……、ですからここまで治す事が出来て……良かった、嬉しいです」 あの時のように力をほぼ使い果たした状態のクルスは、息を切らせてその場にパタリと倒れた。だからシーグルもあの時のように、マントを羽織って彼の傍に座り込んだ。 「君にはいつも頼むばかりで……本当に申し訳なく思ってる」 「謝らないでくださいね、私は、貴方に頼まれるのが嬉しいんですよ」 言葉の通りに、優しい顔立ちの友人は嬉しそうに笑ってくれた。 「本当に君にはみっともないところばかりを見せるな」 その彼の笑顔を嬉しく思いながらも、シーグルの唇には自嘲しか浮かばない。 彼を突き放して置いて、こんな時だけ都合よく助けてもらって……それなのに、昔と変わらぬ笑顔で自分を見てくれる彼には申し訳ないとしか思えなかった。 そうすれば彼は、フフフ、と軽く肩を震わせて笑って、楽しそうにシーグルの顔を見上げた。 「そうですか? ……貴方はどんな状況であっても、みっともなくなんてないですよ」 「さすがに今回は酷いだろ。自分ではこれ以上なく無様な姿を見せたと思っているんだが……」 「酷いですけど、貴方自身はそれでも少しもみっともなくなんてないです。貴方はいつでも綺麗で、強くて、眩しくて……そんな目にあっていても、やっぱりそれは損なわれていません」 「それは褒められているんだろうか」 「さぁ? でも、貴方が貴方のままである事が私は嬉しいんです。私はそんな貴方がずっと好きでしたから」 その言葉には面食らって一度目を見開いてしまったものの、シーグルも穏やかに笑みを返す。 「ありがとう、そして……ごめん」 「本当に貴方は謝ってばかりですね。謝る必要などどこにもないのに」 言われた直後に、二人で顔を見合わせて笑う。 こんなやりとりを彼と仕事をしていた頃は何度しただろうか。それが懐かしくて、嬉しくて、シーグルは体の痛み以上に心を癒してくれた彼に礼を言いたくなる。 そしてまたクルスは、今言った『好き』という言葉の意味をシーグルが正しく理解できていない事を分かっていても、胸の痛みを忘れて彼にただ笑顔を返した。 雲の多い日の夜空に星は殆ど見えない。 ただ月が、風に流されていく雲達によって、ぼんやりと輪郭だけを浮かびあがらせたり、時折その姿を現して輝いたり、もしくは完全に隠れてしまって気まぐれに辺りを暗くしたりしていた。 人気のない暗い場所で座り込んで、クリムゾンを月を眺めていた。 これでもまだシーグルのいる場所からさほど離れていないから、彼らに何かあればすぐに動く事は出来るだろう。クリムゾンの今回の仕事はただ一つ、彼を守る事なのだからそれを放棄する気はなかった。 それでも、どうしてあの青年が犯されるのを黙ってみていたのか。 勿論、彼の命にかかわる事態になるなら、クリムゾンはすぐに助けるつもりではあった。だが逆に言えば、それまでは助ける気はなかった。 すこしくらい痛い目を見て動けなくなった方が無茶も出来ず守りやすいとか、これで彼が兵に見切りをつけて切りやすくなるだろうとか、自分の立場を思い知れだとか、そういう筋が通った『理由』があったと言えばある。 けれどもやはり一番の理由は、単純に彼が気に食わないからだろう。彼を自ら犯した時も、そして今も、クリムゾンはあの青年が気に食わないのだ。 その理由は明白で、彼という存在が主であるセイネリアを弱くしたからである。あの男にあれだけ求められているのにひたすら拒絶を返し、それなのに自分の身を守りきれなくて厄介事に巻き込まれてはセイネリアの手を煩わす……彼の心を煩わす。それに無性に腹が立っていたからだ。 セイネリアの命令は絶対的に従うとしても、シーグルが痛い目を見る事を内心『ざまぁみろ』と思ったのは確かだった。こんな弱くて甘い青年に、あの誰よりも強い男があれほど心を乱すのが気に入らなかった。この青年のどこに、主がそこまで心を注ぐのかが分からなかった。 けれどクリムゾンの中で、その考えは今、少しだけ変化を見せていた。 どこまでも甘いから弱いのだと――そう思っていた彼に対する評価は少しだけ今は変わっていた。 状況だけを見れば、はったりと気迫で馬鹿共を退けただけの話だが、あの状況で尚、心が折れず男達を圧倒した彼に少なからずクリムゾンは驚いた。そしてまた、自分をあれだけの目に合せた男達に恨み言の一つも言わず、彼らをどうこうするより自分が動けるようになる事を優先する彼にある意味感心していた。 更にもう一つ、あの神官を呼びに行ってクリムゾンは思った事がある。 見つけた時にぐったりと疲れきった顔をしていた神官が、シーグルが呼んでいるという事を聞いてすぐに瞳を輝かせた時――そして、彼の酷い姿を見た神官の反応に――あの神官はシーグルの為にここにいるのだという事を察した。考えれば、シーグルの部下も皆、彼の為には喜んで命を捧げるだろうと思える程彼を第一に考えている。たかが上官と部下という関係だろうに、彼の部下達がそこまでする理由がクリムゾンには理解できなかった。 だが、理解は出来なくても……シーグルがそれだけの存在である理由がクリムゾンはなんとなくわかったような気がしていた。『こんな奴に』と思っていただけの感情が、何故か今では納得出来てしまっていた。誰よりも強いあの男が、あれだけ彼を求める理由が感覚として理解出来たような気がした。 そうして、それと同時に思う。あの青年の代わりには誰にもなれない……自分には絶対に不可能だと。 見上げる空は薄雲が途切れる事はなく、月はそんな雲から透けてぼんやりと丸く周囲に虹を纏って輝いていた。 END. >>>> 次のエピソードへ。 --------------------------------------------- 良かったね、というの+何処となく不穏さをにじませたまま戦場編は次回エピソードへつづきます。 すいません、長すぎてどうしても戦場編は分割せざるえなかったんです。 |