愚かさと間違いの代わりに




  【10】



 目が覚めたら……目の前にはセイネリアがいた。
 かつては毎朝だったそれに、当然だがシーグルは驚いた。幸い彼の目が瞑られていた所為で飛び上がる程驚く事にはならなかったが、これだけ間近で彼の顔を見てしまえば心臓によくない事は間違いない。なにせ彼が自分と距離を置くようになってからはたまに一緒に寝る時も必ず彼が先に起きて部屋を出ていってしまっていたから、こうして間近で彼の顔を見るのなんて相当に久しぶりだった。
 外は夜のようだったが、部屋のランプ台に弱いながら明かりがついていた所為で彼の顔はちゃんと見える。彫りの深い彼の顔はこんな明かりの下だとより陰影がくっきりと浮かび上がって、男らしい堅い顔の輪郭は正直羨ましいと思ってしまう。確か彼は自分の8つ上だった筈だから本来ならもう三十は過ぎている筈で、だが肌の感じは確かにそうは見えない……いつから、彼の年齢は止まっているのだろうと考える。

 彼の顔を眺めながら、眠る直前の事をシーグルは思い出していた。

 セイネリアは明らかに狼狽えていた。狼狽えて何度も謝るセイネリア・クロッセスなんてまず見れるものじゃない。よく眠れた所為か流石に頭もすっきりしていて今のシーグルは冷静に考える事が出来る。彼の寝顔に、馬鹿め、なんて呟いてしまいながら笑ってしまう。
 起きない彼に自然と笑みが湧いて、シーグルは僅かに逡巡した後に自分から彼に体を摺り寄せて目を瞑った。彼の体温が心地良くて安心する、鼻に彼の匂いが届いて体から力が抜ける。我ながら自分はそんなに彼に依存していたのだろうかと思うくらい、こうして彼の気配に包まれていると安心する。流石に十分寝た筈だと思ってもこうしていればいつの間にかうとうとしてきて、どれだけ眠かったんだ自分はなんて思ってしまう。だが、そうしていれば背にあった彼の手が僅かに動いて更に引き寄せようとしてきたから、シーグルは思わずクスリと笑ってしまった。

「起きてるなら目を開ければいいだろ」

 そうすれば彼の瞼が微かに動いて、色素の薄い金茶色の光が現れるのをシーグルは見つめた。

「まだ寝てても構わんぞ」

 薄くしか目を開けないまま彼が呟いて、シーグルは自然と湧いてしまった笑みのまま呆れたように息を付いてみせた。

「俺は結構寝たぞ。お前の方が寝足りないんじゃないのか?」

 言えば彼はまた目を瞑ってしまって、それでいてちゃっかり腕が更にこちらの体を引き寄せようとしてきたからシーグルは笑いが止まらなくなる。

「お前を抱いていればいくらでも眠れる」
「……そう言えば、お前は俺といるとやたらと寝汚くなるんだったな」
「こうしている時以上に幸せだと思う事などないからな」

 目を閉じたままさらりと言ったそんな台詞には面食らうくらいに驚いて、けれども言った本人はしれっとした顔で寝ているのだからやはり笑ってしまう。

「……なら何故ずっと我慢していたんだ、馬鹿め」

 だから嫌味のひとつくらい言ってしまいたくなれば、彼の瞳がまた開いて、今度はしっかりこちらを見つめてくる。

「あぁ、馬鹿だと我ながら思う」

 その返事には声を出して笑ってしまって、本当に馬鹿だな、と呟いた。
 表情は変わらないままセイネリアの手がのびてきて、頬を撫ぜ、前髪を梳いて、顔の輪郭をなぞってまた頬を撫ぜてくる。こちらの顔を全部隠せそうな手の大きさは残念ながら勝てないけれど、撫ぜてくるその手の硬い感触は自分と同じだと思う。
 彼は無言のまま確かめるようにこちらの顔を飽きる事なく撫ぜている。ふと思い立ってその手を掴めば、思いの他簡単に止められてしまってまたシーグルの唇は笑みの曲線を作る。そうすれば彼と目があって、見つめ合えば自然と彼の顔が近づいてくる。
 キスされる、と思ったそれはだが額に彼の唇が触れただけの感触で終わってしまって、正直シーグルは困惑した。
 表情のなかったセイネリアの顔の中、唇が緩い笑みを浮かべる。

「……ここでまともにキスしたら抑えられる自信がない」

 それには目を丸くして、それから少しだけシーグルは顔を顰めた。

「なんだ、結局我慢するのか」

 セイネリアが今度は喉を震わせて笑う。

「残念だが、俺の意志ではなくドクターに止められている。せめてお前の体調が戻るまではヤるのはだめだとな」

 それでシーグルは今更ながらに自分の今の体調を思い出した。というか起きてからの彼とのやりとりで、自分が今どういう状態だったかを忘れていたといった方が正しい。考えればこうして彼の温もりを感じてその気配に包まれているだけで、嘘のように自分が感じていた不安や寒さがなくなっていた。

「だからさっさと体を戻せ、でないと俺が欲求不満で暴れる」
「それは不味いな……そうなったら被害甚大だ」
「そうだ、エルやカリンから泣きつかれるぞ」
「確かに、エルは泣きそうだが……」

 笑ってベッドを揺らしてしまえば、彼の顔がまた近づいてきて今度は頬と目元にキスされた。それからこちらの頭を引き寄せて完全に抱き込んでしまうと、頭の上で彼が安堵の息をついたのが分かった。
 彼の匂いが鼻一杯に広がる、彼の心臓の音が聞こえる。それがとても安心出来てしまって、なんだか泣きたくなるくらいに心地よかった。
 暫くそうして彼は無言で、だからシーグルも何も言わずにただ彼の心臓の音を聞いていた。十分寝た筈なのに、そうしていればやはりまたうとうとと眠気が襲ってきて、だがそれは硬い彼の声によって引き留められた。

「……怒っていないのか?」

 それがまるで子供が親に失敗の後聞いた言葉のように聞こえたから、シーグルは目を閉じたまま笑って答えた。

「怒っているさ、お前のとんでもない自分勝手さと傲慢さに」

 それで彼がまた黙ってしまったから、シーグルはなんだか楽しくなって声を出して笑ってしまう。

「なら何故笑う」

 それは憮然とした声で。あのセイネリア・クロッセスも自分のこの気持ちはわからないのだと思えば更に楽しくなる。

「笑うだろ、あのセイネリア・クロッセスがそんな自信のなさそうな声を出すなんて」

 彼が軽くため息をつく。ただそれは重いものではなく、僅かに彼も笑った気配があった。

「お前の事に関しては俺は何も自信がない。俺の心はお前がいないと生きていけないのに……お前が、俺を必要としてくれているのか自信がない」

 それは本当に自信がなさそうな自嘲の声で、だからシーグルは腕を彼の背に回して抱きついた。

「だから、俺を部下にしたのか」
「そうだ」
「だから、俺の家族を守ってシグネットを王にしたのか」
「そうだ」
「そうして……俺を契約で縛ったのか」
「そうだ」

 なんだ、この情けない男は――そう思ってからシーグルは考える。本当に、彼は自分がいないとだめなのだなと。
 いくら愛していると言われても、自分も彼を愛していると気づいても、シーグルがセイネリアを選べなかった理由は二つあった。一つは、シルバスピナ家当主としての義務と責任、部下達からの信頼を放棄できなかったという事、そうしてもう一つは……彼は強いから。ロージェンティやシグネットは守らなくてはならない存在で、セイネリアは何があっても自分の身を守れる立場の人間だからだった。
 だがどうだろう。
 自分がいなくても前を向いて強く生きていける家族達と違って、この男の方が本当に自分がいないとだめなのだ。
 だがそれも、本当は自分は分かっていたのだとシーグルは思う。
 死を覚悟する度、自分が死んだらどうなるのだろうと心配になるのはセイネリアの事ばかりで、家族達には申し訳ないと思うものの彼らはきっと立ち直ってくれると確信出来た。けれどどうしても、自分が死んだ後の彼の事は想像も確信も出来なかった。彼だっていずれ立ち直っていつもの最強の男に戻ってくれる――それは確信ではなく、ただの自分の希望的な想像に過ぎない。

 ならば自分はどうなのだろう。

 恐らく、大切な誰かが死んでも自分はいつか立ち直れるだろう。家族が死んでも、部下が死んでも、セイネリアが死んでも――嘆いて、後悔と悲しみを心に留めたまま、自分がやるべきことを見つけて生きていける……そう、多分、前までならそう言えた。

「お前は本当に、いつもいつも狡(ずる)いんだ。俺がお前しか選べないようにしてから俺に選択させる。俺はお前しか選べない、お前がいないとならなくなる」

 だが今のシーグルにはセイネリアしかいない。セイネリアにとってシーグルしかいないように、同じ時を生きて行ける存在は彼しかいない。セイネリアが死ぬ事はないとしても、彼が自分をイラナイと言えば長い時を生きる自分の存在は意味を失くす。
 そんな存在にしてしまった彼に憤るモノが何もないと言うのは気付いた今では嘘になる。けれど、それでもいいかと思えるくらいには……自分は彼を愛している。
 こうして彼に抱かれている事で全部仕方ないと許せるくらいには、今この時が幸せだった。



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 情けないセイネリアさんでした。
 



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