【8】 一体、自分は何をしていたのか。 セイネリアは呆然と思う。 何処で間違ったのか、何故気づかなかったのか。考えればそれを分析する事は出来るのに、気づけなかった自分の愚かさには怒りしかない。 こんな事になった原因はただ一つ……自分が臆病だったからだ。 彼を失う事が恐ろし過ぎて、何もかも見えなくなっていた。 一番大切な事は彼を失わない事、彼が傍にいてくれること……それ以前に、彼の存在それ自身が一番大切な筈だった。それなのに、自分は恐怖に怯えるあまり確かに彼を見ていなかったのだとセイネリアは思った。 眠るシーグルの顔は明らかに頬の肉が削れ、目の周りも少し黒ずんで落ち窪んでいる。掴んだ腕から筋肉が落ちたのが感触で分かる。抱きしめた体の抵抗の弱さに歯を噛みしめる。何故彼がこんな状態になるまで放っておいたのだと、ひたすら自分に腹が立った。 彼が死んだと思った――その恐怖に、自分の視野はとんでもなく狭くなっていたのだとセイネリアは自覚する。一度死なせなければならなかったというその事に思考が止まってしまって、自分のミスと無様さを冷たく見下ろす事しか出来なかった。自分の感情を抑えつけるのに精いっぱいで、彼がそこに至るまでにどんな目にあったのかも、彼が本当に大丈夫なのかも考えなかった、彼に近づくのが怖くて確認しようとさえしなかった。 ――つまり、本当に俺はポンコツだった訳だ。 今更ながらにそう思う。自分の感情を守る事に必死で、一番大切なものを見ていなかった。 セイネリアは眠るシーグルの顔を見つめると、体をそのままそっと抱きあげた。それから奥の寝室へと向かえば、そこにはサーフェスの助手であるホーリーがいた。彼女は笑ってお辞儀をするとセイネリアと入れ替わるように部屋を出て行く。セイネリアはシーグルを抱いたままベッドの上に乗りあがると、彼の足だけをベッドにおろしてそこに上掛けを掛けてやった。 それから、仮面を取って傍に置くと、改めて彼の顔をじっくりと見つめる。 眠るシーグルの瞼は濡れていて、涙はまだ流れていた。 それを唇で吸い上げて、そのまま彼の目元にキスを落す。それから額に、頬に、髪の生え際にキスをする。そうすれば鼻には彼の匂いを感じて、今自分は彼を抱いているのだと実感する。それだけで心が内側から温かく満たされていくのが分かった。 「俺は、何を恐れていたんだろうな」 唇を歪めて、セイネリアは呟く。 彼を失う事が恐かった、自分の感情が暴走して彼を壊すかもしれない事が怖かった。だから彼に触れないようにした――確かに、全部臆病な自分を守る為の決断だったと言われても仕方ない。 一番大切なのは彼自身。彼が彼であること。なら――彼の声を聞かなくてはならなかった。彼の望みも、彼の判断も、彼の意見も聞かなければ彼という人間を無視しているのも同じだ。 なのに自分は彼の声を聞かず、彼を見さえせずに、ただ自分の為に彼を失わない事、彼が傍にいてくれる事だけを考えた。 考えれば考える程自分の臆病さに腹が立った。 身体は不死身で最強の化け物になったクセに、ここまで弱くなっていた自分の心に憎しみさえ湧く。 彼の心が分らなくて、彼が自分の傍に居てくれる自信がないから、彼を縛ってしまう事しか考えられなかった。彼が傍にいる保証が欲しくて、彼が自分と共にいる為の理由を作った。それは確かに彼が自分を愛していると言ってくれたから決断した事ではある、だがそれこそが……。 ――俺が、お前に愛されている自信がなかったという事か。 人を愛する資格がないとはよく言ったものだと、エルの言葉を思い出してセイネリアは軽く喉を揺らす。確かに自分は人を愛する資格がないのだろうとそれを肯定する事しか出来ない。愛する者が欲しくて、離したくなくて、離さなくていい状況を作り上げた――それは裏返せば、彼が自分から傍に居てくれるという自信がなかったからだ。それが、不安だったからだ。 「自信がない、か……」 本当に、そんな状況になったのが初めてだったからどこまでも臆病になってしまったのだとセイネリアは思う。自分の事であればいつでも覚悟が出来た。成功しても失敗しても、どうなっても最悪自分が死ぬだけだと思えば何も怖くなどなかった。 絶対に失敗をしてはいけないと、そう思ったのも考えれば初めてだったのかもしれない。自分の事だけであれば失敗が恐いなどという感情が湧く事はなかった。 そこでセイネリアは初めて気がついた。 傭兵団で自分と契約している者達、願いを聞く代わりに自分の部下となると言った者達……彼らの願いは他人の為のモノである事が多かった。それはセイネリアが『使える』と認めた程の者なら、自分の事は自分でどうにかするだけの人間であるからだとそれは分かっていた。 けれど初めて、彼らが何故、絶対的な主従契約をしてまでその願いを叶えたかったのか、それが今、感覚として分かった気がした。 契約をした者は誰もが優秀だった。自分の事なら自分でどうにでもする、失敗したならそれはそれで自分の力が足りなかったのだと諦めてもいい――けれど、愛する者の為ならそれでは済まない。何があっても失敗してはならない、自分の力で出来なかったでは済まない、済ましたくない――だからこそ自分の人生を差し出しても他人(セイネリア)の力を頼ったのだと。 飽きる事なく彼の顔のあちこちに唇で触れながら、自嘲に喉を震わせてセイネリアは呟く。 「やはり俺は人として当たり前の部分が抜け落ちていたらしい」 多分、その感覚は人間であれば皆当たり前に感じるモノなのだろう。不安だと感じる事も、自信がないと恐れる事も全部、人なら当たり前に感じたことがある筈だ。昔、母親に『誰』と呼ばれた時点でそんな感覚を全部捨ててしまったセイネリアにとってはシーグルと会って初めて感じるものだったというだけで、本来なら当たり前すぎてそれに毎回怯えて足を止めてなどいたら全く前に進めなくなる。 眠るシーグルの髪を指で梳いて、久しぶりのその感触に目を細める。やつれた彼の顔はそれでも穏やかで、彼が自分の腕の中で安心しているのだと思えばそれだけで喜びに胸が熱く疼く。幼さの残るその寝顔が愛しくて、けれど前と違う少しガサついた頬の感触に怒りと後悔が湧く。 「すまない、シーグル」 彼のやつれた顔を見れば、自然と謝る言葉が口を突く。だがその言葉は彼に許して貰いたい訳ではなく、彼を苦しめて傷つけた事に対して出てしまった後悔の言葉だ。 考えれば、仕事上の形式や礼儀以外で謝罪の言葉を言う事などセイネリアは今までなかったかもしれない。 悪いのは自分だと分っていた事は何度もあったが、それで相手に謝罪したいと思った事などなかった。そもそも分っていてやっている事で謝罪すれば済むような事でもないから謝罪など意味がないとしか思えなかった。恨むなら恨めばいい、憎むなら憎めばいい、自分がした事に後悔などしない――そうとしか考えずに生きてきた。 だから多分、こうして心から申し訳ないと思う気持ちもセイネリアにとっては初めてのものだった。自分のした事を悔いて、相手にそれを伝えたいと思った事は初めてだった。……おそらくこれも、彼に会い、彼を愛さなければ知らなかった感情なのだろう。 「すまない……」 大切だった、傷つけたくなかった、失いたくなかった。それは相手の為の感情であった筈なのに、何時の間に自分の為のモノになっていたのか。どうして自分は彼を見失っていたのだろうと後悔しかない。 だが、そこで。 ふと人の気配に顔を上げたセイネリアは、本人の姿が見えるより早くその魔力の見え方でやってきた人物が誰なのか分かって唇を歪めた。 「うん、無事納まるとこに納まったってところかな?」 おそらくホーリーから聞いてやってきたのだろう、サーフェスは両手を腰にあててにこりと見せつけるように笑っていた。 「お前の計画か?」 聞けば、彼は悪びれずにあっさりと肯定した。 「うん、そうだよ。医者としてね、患者にとって一番いい治療をしたつもりなんだけどね。ついでに貴方にとってもね」 「……確かにな」 今度は視線をシーグルの寝顔に落として、自然と湧いた笑みのままセイネリアは呟いた。 「一応、感謝はしておく」 「一応、ね。まぁいいけど。……でもさ、あーだこーだ頭で考えてたのなんて、そんな坊やの姿みたらふっとんだでしょ? 貴方は考えすぎたんだよ、人を好きになるのなんて……もっと感覚と感情で動いちゃってもいいと思うんだけどね」 「そうもいかんさ、俺の場合……やり過ぎたら誰も止められない」 セイネリアはそれが怖かった。自分という人間に力があり過ぎるが故に、自分の理性が飛んだら誰も止められない、だから自分に枷を嵌めるしかなかった。 サーフェスはそれに片眉を跳ねあげて、少し身を乗り出すようにした。 「本当に? その坊やが止めても?」 「……止めようとしたこいつを殺すかもしれない」 サーフェスはそこで思い切り顔を顰めた。 「らしくないね、前までの貴方なら言った筈だよ。何があっても彼の為なら自分を抑えてみせるってさ」 「そうだな、だが一度俺は俺を止められなかった」 「それはその坊やも止めなかったのが悪いかな。でも貴方は最悪の事態になる前には正気に戻ったじゃない」 「次も戻れるとは限らない」 険しい顔をしていた医者の魔法使いは、そこで大きくため息をつくと腕を組んで表情を急に笑顔に変えた。 「じゃ、一ついい事を教えておこうかな。これはまだ僕の仮説っていうか予想ではあるんだけど、黒の剣の魔法使い――ギネルセアはさ、負の感情しか暴走させる事は出来ない筈なんだよ。だからね、その坊やに対して負の感情を抱えてる時には触らないようにしといた方が確かにいいけど、そうじゃなくて……彼を愛しいと思う感情ならギネルセアが付け入る事は出来ないから暴走なんて起こらないんじゃないかな。どう? ……それを注意すればそんなに自分の感情を怖がらなくていいと思うけど」 言われれば確かに、あの時暴走したのは自分の中での苛立ち――彼が捨てた筈の家族や仲間に残した想いに苛立ち、嫉妬や不安が膨れ上がった結果だと考える事は出来る。 --------------------------------------------- セイネリアさん反省モード。 |