微笑みとぬくもりを交わして




  【1】



 目に入る風景に、シーグルは呆れてため息をついた。
 セイネリアの寝室にははっきり言ってベッド以外に何もなかった。
 流石にベッドサイドに小テーブルくらいの家具はあるが、それ以外は本当にただ寝るだけの部屋なのだという感想しか出てこない。改装前の傭兵団時代の寝室はもっと戸棚やら作業机やらいろいろあった筈だが今は本当に何もなく、だから呆れるくらい生活感がなかった。

――仕事は全部執務室の方でするから、ここには何もなくていいという事か。

 確かに執務室の方は傭兵団時代よりもずっと広くなり、家具や道具類も格段に揃っていて仕事に関する事は何でもできるようになっている上、客人と話す為のスペースもあるからこちらで何かをする必要はないといえばそうだろうとは思う。
 だが……この部屋がここまで本気で何もないのは、当初予定ではここは滅多に使うつもりがなかったからなのだろうとシーグルは思った。なにせおそらく、本来ならこの部屋に置く筈のものは全部シーグルの部屋に置いてあるのだろうから。

「まったく、俺の部屋に来ない間ここで本当に寝ていたのかあいつは」

 それくらいに生活感のない部屋にシーグルは呆れるしかない。
 ただ、窓のないこの部屋は掃除中に換気はしていても割合空気が篭る為、彼の匂いを僅かに感じてやはり彼の部屋なのだと思いはする。彼の匂い、気配を感じれば、こうして部屋の中に一人でいてもあれだけ自分を追い詰めてきた幻覚も幻聴も感じないのだから不思議だった。

 ただ正確には、この部屋で一人でいる、という感覚がそもそもないのだが。

 ベッドに寝たまま耳をすましたシーグルは、隣の部屋から僅かに漏れ聞こえるセイネリアの声を聞いて苦笑した。
 セイネリアの執務室は基本防音の為の魔法結界が張ってあるそうだが、この部屋は執務室と同室扱いの為向うの部屋の音はよく聞こえる。彼の声一つで今来ている客人が何処の担当者か大体分かってしまうから、眠っていない時はそれを予想しながら彼の仕事ぶりを聞いていた。
 そうして、別れの挨拶と共に扉の締まる音が聞こえて、シーグルは客人が彼の部屋から退出した事を知った。
 となればすぐに椅子が引かれる音がして彼の足音が近づいてくる。それから、部屋のドアが開いて、光と共に黒い影が姿を現した。

「起きていたのか?」

 言いながら彼は嬉しそうに部屋の中へ入ってくるとベッドにまでやってくる。

「もう十分寝て睡眠は足りている。俺はそんなにいつまでも寝ていられる人間じゃない」

 傍までくればまた顔に2,3度キスをしてきて、それから最後に唇を合わせて舌を軽く絡ませてから彼はすぐに顔を離した。

「そうか、なら尚更今のうちに寝ておけ。その分夜付き合えるようにな」
「お前は寝ないつもりか?」
「お前が一晩中付き合えるというなら俺は寝なくても構わんが」

 流石にそれに返事を返せず表情だけで嫌そうにすれば、彼は笑ってこちらの顔にまたキスしてくる。その時にすん、とこちらの髪の生え際に鼻をつっこんできては匂いを嗅いできたりするからくすぐったくて堪らない。

「化け物め」
「体は寝なくてももつと言ったろ」

 それでシーグルは黒の剣の事を思い出し、思わず沈んだ声で、そうだな、と呟いてしまった。
 それでもセイネリアの顔から笑みは消えない。

「ただ寝ないでいると精神面では問題がある。もっとも、今はこうしてお前をいつでも触れるからどれだけ寝なくてもそっちの問題もないな」

 言うと彼はベッドの上、自分の横に倒れて込んできて、そのまま上掛けの上から腕を置いて抱きついてきた。

「鎧は着てないといってもそのまま上がってくるな」
「だから上からだけで我慢してるだろ」

 顔をこちらの頭に埋めて言ってくるのだから彼の声が近い。なんだかそれだけで顔が赤くなってしまってシーグルとしては何も言い返せなくなる。

「ボス、昼食の準備が出来ました」

 そこで開いたままだった扉の向こうにカリンが現れたから、シーグルは固まって、彼女と目があうと気まずそうに苦笑いをするしかなくなった。

「あぁすまんな、よしシーグル、メシだ起きろ」

 セイネリアが起き上がって、上掛けを剥がす。それから当然のように抱き上げようと背に腕を入れてくる。

「待てっ、自分で歩ける、俺はそこまでの病人じゃないっ」
「靴を履かせるのが面倒だ、どうせ食ったらまたベッドなんだから大人しく運ばれろ」
「寝間着のままで食えというのか?」
「俺しかいない、気にする必要はないだろ」
「気にする、朝ならともかく昼食だぞ」
「なら慣れて気にしないようにしろ」

 それには呆れてしまって何も返せない。そうしている内にセイネリアはさっさとシーグルを抱き上げて隣の部屋にきてしまっていて、シーグルは朝と同じく食事の準備がセッティングされている彼の仕事机を見て微妙な気持ちになった。

「将軍の仕事机に向かいあって座って食事は……おかしくないか?」

 いかにもこの将軍府の主の席、という立派な机の対面にわざわざ椅子を配置しているのは間抜けな図に見えて仕方ない。

「これが嫌なら俺の膝の上に座って食べる事になるが」
「俺は子供かっ」
「なら文句を言うな」

 そうして椅子に下されれば、シーグルとしてももう文句を言うだけの気力もなくなる。それから、自分の前に置かれた少量のパンと果物とスープだけの食事と、彼の前にある湯気の出ている料理皿達を見て虚しくなる。

「どうせ俺の分はトレイ一つで収まるんだ。向うの部屋で食べたって……」
「生憎ドクターから食事は必ずお前と一緒に取るように、と言われている」

 なんだそれは、と視線で彼に疑問を投げかけて見ても彼はすまして食事を始めるだけだ。シーグルも仕方なく諦めて、軽く手を組んでリパの祈りの言葉を呟いてスプーンを手に取った。

 それにしても、『なんだこの変わりようは』というくらいのセイネリアのべたべたぶりにシーグルとしては昨夜から調子が狂いっぱなしだった。セイネリアの部屋に移動したのは今朝の事で、そのまますぐ朝食になったからこの椅子のセッティングは仕方ないかとその時は思いはしたが、どうやらわざとであったらしいと今分かる。
 そもそも、この部屋には側近としてのシーグルの席がもとからあるのだ。
 なのにわざとそちらを無視してここへ座らされるという段階で、いくら文句を言っても無駄だと分かってはいるのだが……それでもこれは恥ずかしいではないか、と思ってしまうのは当然だろう。

「シーグル」

 食べているうちに唐突に手を止めてセイネリアが顔を見てくる。

「なんだ?」

 嬉しそうにこちらを見られるとなんだか癪で、シーグルの返事は少しきつい声になる。

「こちらの皿から何か食べてみないか? パンとスープだけじゃ飽きるだろ」

 飽きるだろと言われてもいつもの事で慣れているし……とは思っても、一口程度ならたべられない事もないかとシーグルは考える。

「なら、それを少し」

 指差せば、セイネリアはスプーンで一匙分だけそれをこちらのパンのあった皿の端に置いてくれた。

「どうだ、食えそうか?」
「これくらいなら……多分」
「美味いか?」
「美味くなくもない」

 そうすればセイネリアは声を上げて笑って、それから机に両肘をつくと手を組んでそこに顎を乗せ、こちらをじっと見つめてくる。

「シーグル」
「なんだ?」

 彼にじっと見つめられていれば、こちらとしては気まずくて自然と目が逸れてしまう。

「今日はどうにか食えてるじゃないか」

 言われてシーグルは、はたと手を止めて自分の皿を見た。

「あぁ……確かに、そう……だな」

 考えれば、今朝も何も考えずに食事を出来ていたとシーグルは気が付く。ここのところ口にモノを入れると直後にくる吐き気がなかったと今更に思う。朝食はスープだけだったからあまり食べていたという認識はなかったのだが、言われれば今は確かに少量とはいえ普通に食べられている。
 実をいえば前にいるセイネリアを意識し過ぎていて食事にあまり気が行ってなかったという事情もあるのだが、なんだか自分でも自分のこの状態が馬鹿馬鹿しくなってしまった。
 あれだけ辛くて苦しかったのに、あっけない程元に戻っている自分に呆れてくる。

――それだけ……こいつがいるだけで安堵したのか、俺は。

 なんだそれは、と今度は自分自身に言いたくなる。自分はどれだけ単純なんだと笑いたくなる。本当はどれだけ彼に依存していたのだと皮肉に思う。

「俺は俺が思っているより単純で馬鹿らしい」

 呟けば、セイネリアも食べながらしれっと返してくる。

「俺もだ。俺は俺が思っているより馬鹿だったと自覚した」
「そうなのか?」
「あぁ、ミスもするし計算違いもある、感情的になって何も見えなくなる、自分の弱さを見たくなくて逃げもする……ごく普通の人間とあまり変わらないとな」

 それを澄ました顔で言うのだから、シーグルにとっては笑うなという方が無理な話だ。
 ぷっと吹きだしてしまえば、彼は手を止めてシーグルの顔を見て、見せつけるように笑ってくる。そして……。

「お前に触れないよう我慢している事自体が馬鹿だったと自覚したからな、今後は抑えない事にした」

 言葉の意味を考えて、シーグルは一瞬沈黙して、それからちょっと顔を引き攣らせた。

「それは、つまり……」
「お前に関してはしたいようする事にした、文句があるなら聞いてやる、が……まぁ、覚悟はしておけ」

 シーグルは目眩に襲われた。



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 なんだこのいちゃいちゃぶり。
 



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