【8】 琥珀の瞳は、シーグルでさえぞっとするくらいの圧力を掛けてくる。それでもシーグルは彼から瞳を逸らさなかった。 「それでもだ、セイネリア」 明らかにセイネリアは怒っている。声にさえそれが表れて、彼は椅子から立ち上がると、不気味なほどゆっくりとシーグルの傍に歩いてきた。 「同情か? それとも罪悪感か? まさか姫君を助ける騎士物語に酔っている訳じゃないだろ」 怒りを宿して見下ろす琥珀の瞳を、シーグルは真っ直ぐ見上げた。 「どうだろうな、そのどれでもないし、どれでもあるのかもしれない。だが、責任を感じたのは確かだな。他の何の意味もない相手と結婚するなら、彼女を選ぶべきだと思ったんだ」 セイネリアの手が伸びて、シーグルの服の襟を掴む。そのまま引き寄せられて、顔と顔がすぐ傍まで近づく。 「責任だと? ヴィド卿の末路はあの男の自業自得だ。あの家の失墜も、あの男がそれだけ反感を買う手で好き勝手をやってきた反動だ、お前が責任を感じる必要はない」 すぐ間近にある琥珀の瞳の圧迫感に、一瞬だけ息が詰まる。けれどシーグルはその瞳をじっと見つめて、はっきりとした声で告げた。 「けれど、彼女には罪はない。父親の罪を彼女が被って絶望する必要はない」 「父親の下で散々他人を蔑み贅沢をしてきた者としては、相応の報いだといえないか?」 「それを言ったら、裕福な家に生まれた人間はほぼ全て当てはまる。いや……そう思う事を否定はしないが、それでも、今の彼女の境遇に値するだけの罪があるとは思わない」 シーグルはじっとセイネリアの瞳を見返す。 同情なのか、罪悪感なのか分からなくとも、それでもシーグルは自分の立場で彼女を助けられると思った途端、彼女を選ぶしかないと思ってしまった。 それほど、ヴィド家の凋落ぶりは酷かった。 元々、ヴィド卿の強引なやり方には反感を持つ者も多く、脅されている者もかなりの数がいて、彼が死んだ途端、あの家は一気にそれらの者達から報復を受ける事になった。更に、対立していたグスターク王子に取り入る為、宮廷貴族の皆が皆、言葉通り掌を返してあの家との繋がりを断ち、離れて行った。 血筋的には今でも王家に準じる家でありながら、今では宮廷にヴィド家の居場所はないといってもいい。 「俺はずっと、結婚する相手はどうせ祖父が選ぶから誰でもいいと思っていた。だから、どうせなら、俺が結婚する事で助けられる人を選ぶべきだと思ったんだ」 シーグルにとって、結婚はただの義務だった。相手が誰かという事に何の意味もなかった。だから、意味のある相手を選んだ、それだけの話だ。 「一時の同情でお前は家を潰す気か? この状況でヴィド家と更に関わりを深めるのは自滅行為だ。家の事を考えるなら、逆にグスターク王子派の家の者か、まだ害にもならない何処かの田舎貴族の娘とでも結婚すべきだろう」 「あぁ、確かに、本来ならそうなんだろうな」 「なら何故だ」 セイネリアの言う事はもっともだろう。家の為ならそうするべきだとはシーグルだって分かっていた。けれども、シーグルにとっては、彼女を選ぶ事に意味があった。 「お爺様は……俺に選べと言って3人の女性を提示した。だがな……あの人は分かっていた筈なんだ。シルバスピナ家が家訓を守るなら、彼女との結婚だけは避けなくてはならないという事も、俺なら彼女を選ぶだろう事も。分かっていて、あの人は候補の中に彼女を入れた。その上で、好きに選べと言ったんだ」 セイネリアが瞳を細める。 彼女を選んだ理由の第一は、自分が選べば彼女を助けられると思ったからなのは確かだった。 だが第二の理由は、シーグルは知りたかったのだ、彼女を選べば、家の立場は尚いっそう悪くなる、それでも尚、選ぶ事をあの祖父が許すのだろうかと。シーグル自身の意志を選ばせてくれるのだろうかと。 「バカバカしい。そんな事の為だけに冒すリスクじゃない」 「そう……だろうな」 本当にそれでいいのかと、何度もシーグルは自問した。けれど、ここで彼女を選ばなかったなら、自分はこれからずっと後悔するだろうと思ったのだ。 「言っておくが、相手も手放しでお前に感謝しはしないだろうよ。お前に情けを掛けられた……いや、断れない状況で申し込まれたと、脅迫されたように思っている可能性もある」 「……そうだな」 所詮は自己満足だというくらいはシーグルも理解している。彼女の為、というよりも、自分が今後、心のしこりを残して生きていくのを避ける為であるとも言えるからだ。 「事実を知れば、父親が死んだのをお前のせいだと言い出すかもしれない」 「あぁ、分かっている」 「結婚してもずっと憎まれるかもしれない」 「それも仕方ない、覚悟はしている」 「一生、その女に憎まれて、その女のせいで命を狙われてもか。それでお前に何のメリットがある? 背負わなくてもいい重荷を背負って、自分の立場を危うくして何の意味がある?」 セイネリアの声は、もはや感情を消す事を完全に失敗していた。怒りを宿す瞳は益々剣呑な光を強め、震える唇は感情を吐き出すように荒く息をつく。 けれど、常人であれば竦み上がる彼の瞳の奥に、怒りよりも深い不安が見えてしまったから、シーグルは口を引き結んで、ただ目を細めて彼の顔を見つめる。 ――すまない、セイネリア。 シーグルはそれでも、彼に謝る事しかできない。彼が受けないだろう謝罪の言葉を、心で唱える事しか出来ない。 「たとえ憎まれていたとしても、俺が彼女を愛せばいい。……俺は、彼女と結婚して、彼女を愛する。そうすれば、彼女に憎まれても、彼女のせいで危険な目にあっても、きっと幸せだと思えるだろう」 セイネリアの表情が、一瞬、固まる。 けれどすぐに、彼は顔を下に向けると、ギリ、と歯を噛み締めたまま黙った。 「セイネリア?」 彼は何も言わない。ただ、ずっと掴んでいたシーグルの服の襟を放し、ベッドに半分乗り上げてくる勢いだった体を引いた。 「……お前は、俺には何も返せないくせに、会った事もない女の事を愛すると言い切る訳か」 セイネリアがゆっくりと顔を上げる。薄い笑みだけを唇に乗せて、苦しそうに目を細めて見下ろす彼の顔を見て、シーグルは自分が彼を傷つけた事を知った。 それでも、これは彼には言わなくてはならない事だった。 「シルバスピナの家を継ぐと決めた時から、ずっと決めていたんだ。誰とも恋愛はしない、どうせ祖父が決めた人と結婚するのだから、その人だけを愛そうと」 セイネリアの口元が、笑みというよりも皮肉に歪む。 「あぁ、そうだったな。それでムカついたのを思い出した」 金茶色の瞳が、先ほどとは別の意味での怒りを宿したままシーグルを見つめる。 その威圧感に、体は自然と竦みそうになる。ぞくりと、背筋を走る悪寒に震えそうになっても、それでも、心は怯えはしない。シーグルは真っ直ぐセイネリアの瞳を見た。 「そうだな、それで、俺はお前に犯されたんだった」 初めて彼に犯された時、初めてこの体に屈辱を刻まれた時。 彼を友人だと思っていたシーグルは、彼が怒る理由が分からなかった。彼の変化に戸惑い、恐れる事しか出来なくて、結局彼に組み伏せられ、ただ嬲られた。 けれど今回の事なら、彼が怒るのは当然だと思う。そして、その彼の怒りをぶつけられたなら、体を差し出すくらいは構わないとも思っている。だから、恐れではなく、今シーグルの中にあるのは、ただ、彼に対して申し訳ないという気持ちだけだった。 セイネリアの瞳がじっとシーグルを見つめ、シーグルもまた、ただじっと見返す。 けれど、驚くべき事に、表情を崩し、視線を逸らしたのはセイネリアの方だった。 彼は自嘲気味に軽く嗤うと、突然、ベッドの上にいるシーグルの上に被さるように倒れ込んでくる。自分より大きな相手の下敷きになれば、シーグルは起き上がる事は勿論、逃げる事も出来なくなる。 「おい、セイネリアっ」 焦って名を呼べば、彼は小さく、溜め息混じりの掠れた声で呟いた。 「お前は、俺の事を欲しいと言ってくれても、このまま俺と共にいてはくれない」 彼の顔は、シーグルの耳元の少し上でベッドに突っ伏しているため、その表情を見る事は出来なかった。それでもシーグルには彼の顔が想像出来てしまって、言い返そうとした唇を開くのを躊躇った。 けれども、一度強く歯を噛み締めて、軽く息を吸ってから、出来るだけ強い声で彼に言う。 「そうだ、お前と共にはいられない。俺にはすべき仕事と果たすべき役目がある」 言い切るまで、真っ直ぐベッドの天井を見つめていれば、微かな笑い声とベッドの揺れで、彼が笑っている事を知る。否、それは、笑い声というよりも嗚咽のようにも聞こえて、シーグルは驚いて咄嗟に口を開いた。 「セイネリア、俺は――」 けれども、言いかけた言葉は、頭ごと顔を彼の胸に押し付けられた事で最後まで言い切れなかった。 「……黙ってろ……」 セイネリアは、シーグルの頭を胸に抱きかかえながら、その横に寝転がった。流石に鎧は付けていないが、黒い服装のままシーグルの隣に身を横たえ、そしてそのまま目を瞑る。 「どうせお前は、ロクでもない事しか言わないんだ。もう黙ってこのまま大人しくしていろ」 そうして、朝の時のように、またシーグルを抱きしめたまま、彼は寝てしまおうとした。 「おい、セイネリア。まさかまた寝る気か?」 「別に、寝ていなくても、こうしているだけでいい。大人しく俺の抱き枕になってろ」 抵抗するのも無駄なので好きにさせるしかなかったシーグルだが、本気で彼から寝息が聞こえてくるに至っては、流石に焦って彼の顔を凝視した。そうすれば、ちらと彼が薄目を開けてきたので、それには正直安堵する。……なにせ、いくらなんでもこれ以上は、シーグルも一緒になって眠る気にはなれなかったので。 セイネリアの腕は完全にシーグルを抱え込み、シーグルの頭の上に、セイネリアの頭がある。 シーグルの頭に顔を埋めるようにしながら、彼が小さな声で囁く。 「シーグル、最後にこれだけは覚えておけ。もし、お前の力でどうにもならないと思ったら、迷わず俺を頼れ。相手が何者かなど考えなくていい、その時は状況も何も無視していい、ただ俺に言え」 「セイネリア、だが、俺はお前に何も……」 言いかけた言葉は、セイネリアの大きな手でふさがれた。 「いいか、正確には、お前を助けるという事は、俺がお前の為にする事じゃない。俺自身の為だ。お前に何かあったら俺が耐えられないからだ。だから俺に頼るのに、お前が負い目を感じる必要は少しもない。却って、俺を頼らずに、お前に何かが起こった方が、俺には……辛い」 少しだけ掠れた声は、彼にしては感情を抑え切れていなくて、シーグルは口を塞がれるまでもなく黙る事しか出来なかった。 最強である筈の男の声は、更に小さく震える。 「俺に少しでも悪いと思うのなら、ちゃんとお前自身を守れ。簡単に、人の為に自分を差し出すようなマネだけはするな。俺は、お前が失われる事だけが……怖い。お前という存在が消えることを考えたら、怖くて、怖くて、堪らないんだ」 シーグルはそれに言葉を返せず、代わりに、自分を抱き締めるセイネリアの腕を強く握る事しか出来なかった。 --------------------------------------------- ふたりのやりとりはこれで終わり。次からは樹海へ。 |