【8】 「さっさと逃げろっ」 そう彼の声が聞こえて、シーグルはシグネットを抱いたまま急いで立ち上がろうとした。だが足からがくりと力が抜けて地面に手を付き、仕方なくシーグルはシグネットを離して先に逃げるように言うと、自分はそのまま地面を這ってセイネリアの影から離れた。 だが……その、直後に。 「このっ、化け物めっ」 アウグ語でそう叫ぶ男の声が聞こえたと思った途端、木を担ぐセイネリアへ、アウグの神殿兵だろう男の体がぶつかっていた。いや、暗い中見上げたシーグルにはそう見えただけで、アウグ兵が持っていた剣は根本までセイネリアの体に突き刺さっていた。 直後に地面を揺らした振動は、彼の肩から木が落ちた為のもの。 更にそこへもう一人が向かっていくのを見たシーグルは、すぐに立ち上がろうとした。だが……力の入らない足は思うように踏ん張れず、その間に彼の背に兵の体が重なった。 「セイネリアっ」 血が跳ねて空を舞い、彼の体から飛び散って行く。 前後から串刺しにされた黒い騎士の体がぐらりと大きく揺れる、黒いマントがばさりと視界を遮る。 その光景を信じられない思いでシーグルは見ていた。 ――こんな事起こる筈がない。あいつがこんな雑魚に殺されるなんて、こんなところで死ぬ事なんてあっていい訳がない。 呆然と立ち上がり掛けた姿のまま固まってしまったシーグルは、だがその直後に彼の声を聞いた。 「大丈夫だ」 それはこんな状況に似つかわしくない穏やかな声で、シーグルは彼が何が言いたいのか分らなかった。 「問題ないんだ……俺の場合はな」 言うと同時に彼は吼えた。まるで獣の雄たけびのように夜空に向かって吼えたかと思うと、その動きさえどう猛な獣のように、剣を刺したままの体勢でいる目の前の男の頭を掴んだ。 「うわぁぁあっ」 掴んで持ち上げ、男の足が地面から離れた後にそれを地面に叩きつけた。それから次に振り返り、背後から刺した相手の頭をまた掴み、同じく地面に叩きつけるように投げ飛ばす。あり得ない方向に首がねじ曲がった状態で地面に落ちた彼らは、恐らく絶命したと見て間違いない。 けれど、その後訪れた静寂の中、シーグルは信じられない彼の姿を声も出せずに見ていた。 セイネリアは周囲に何者もいなくなると、自分を刺していた剣を抜いて地面に投げ捨てた。そこから血が噴き出すのが見えたのは一瞬だけで、すぐに彼から流れる血は止まる。ふらついて、荒い息を吐いて、明らかにダメージを受けているように見えたのも少しの間だけで、やがて彼は口元を拭うとすっと背筋を伸ばしてシーグルに向けて振り返った。その彼の姿勢も、足元も力強く、暗闇に立つそのシルエットでは彼が怪我をしているようには全く見えなかった。 セイネリアは何も言わなかった。ただ辛そうにこちらを見つめている事を気配だけで感じて、そこでやっとシーグルは呪縛が解けたように口を開いた。 「セイネリア、お前……何故、怪我は?」 セイネリアは兜を取って投げ捨てた。 そうして夜の闇の中、黒一色の男の金茶色の瞳だけが哀しそうに、苦しそうに、力なくシーグルを見つめてきた。 「俺は大丈夫だ。この通り、な」 その言葉の意味を今度は理解出来たシーグルは、だがそれにどう対処したらいいのか、彼に何と言えばいいのか分らずその場で立ち尽くしたままだった。 「しょーぐんっ」 シグネットが走ってセイネリアに飛びついていく。それを闇の中に溶け込むような黒い騎士は笑顔で抱き上げた。 「しょーぐん、しょーぐんっ、だいじょうぶ? いたくない?」 「あぁ大丈夫だ、お前は怪我はないか?」 「うん、だいじょうぶ、れいりぃがね、すごかったの。しょーぐんはぜったいくるからっていってね、こわかったけどまってた」 「そうか、無事で良かったな」 シグネットとセイネリアの会話をどこか遠い事のように聞きながら、シーグルはソフィアがキールとアウド、それにラークを連れてやってくるまでその場に無言で立ち尽くしていた。 港町ウィズロンは、もともとは良い漁場を近くに多く持つ古くから続く漁師町であった。ただクリュースに組み込まれた後はアウグをけん制する意味で騎士団支部が置かれ、その所為もあって常に多くの兵が駐留する国境の砦の街としての面も持つようになった。その為この街をぐるりと囲む塀は高く頑丈で、いざとなればこの街を拠点としてアウグと戦う事が可能なようになっていた。 今、その街の南北にある門は改装されて、南の門にはクリュース、北の門にはアウグのと、それぞれの国の為の警備と監督官が常駐する為の検問所でもある建物が立てられていて既に人も配置されていた。ウィズロン自体はクリュースであるのは変わらない為騎士団支部はそのままだが、アウグの兵が一時的に滞在する事も許可を取れば可能であった。実際式典の為に通常時より多く来ているアウグ兵達は現在、騎士団支部に寝泊まりしているそうだ。 そしてなにより、港を見ればアウグの軍船とクリュースの軍船のどちらともが停泊していて、人々に新しい時代が始まる事を実感させていた。 両国の貿易の窓口として生まれ変わる街の歴史的瞬間を見ようと、集まる人々で賑わう街の総監督官、つまりラタの住居となる建物の客室で、シーグルは夜でも騒がしい街の喧騒を眺めていた。 「……聞きたい事があるんだろ?」 セイネリアが口を開いた事で、シーグルは窓から離れて彼が座っているテーブルの向かいの席に座った。 「あぁ、聞いていいなら聞きたい。お前が話す気があるならお前が隠している事を全部教えて欲しい。お前が前に『いつかは教える』と言ったその『いつか』は今ではないのか?」 言えばセイネリアはテーブルに置いた酒の入ったグラスに手を伸ばして苦笑をうかべる。勿論、今の彼――ついでに言えばあの襲撃から野営地まで戻ってこのウィズロンにつくまで彼の体に異常は見えない。大けがをしている素振りなどないし治療を受けたところさえ見ていなかった。 「あぁ、そうだな。お前が自分の異変に気付くまではと思っていたが、もう話すべきなんだろうな」 「俺の異変?」 「そうだ……まぁそれは後でいい、まずは俺の話からだな」 いつでも自信に満ちて人を威圧していた琥珀の瞳は力なく、自嘲と苦しみ、それに絶望を浮かべていた。彼はそこで一度グラスの中身を喉に流し込むと、逆に顔から一切の表情を消して淡々と話し出した。 「魔法使いギネルセラに懐柔された騎士は、最高の肉体を持つ人間に自分の技を与えたいと願った。そうしてそれと同時に、その肉体が最高の状態から劣化する事なく変わらぬままである事を願った」 だから怪我が治るのかと単純に考えてから、その『変わらぬ』事の意味がどこまでを言うのかシーグルは考えた。 そのシーグルの様子をちらと見てから、セイネリアは静かに目を閉じて言葉を続けた。 「まぁ考えれば分からない事もない。病気で戦えなくなった悔しさと衰えていく自分の肉体に絶望していた騎士は二度とその思いを味わいたくなかったんだろうさ。それがどういう事かもわからず……いや、分っていても望んだのかもしれないな、既に魔剣に入った段階で騎士の魂はおかしくなっていたようだからな。……そうしてその願いは呪いとなった」 セイネリアは最後の言葉と共に瞳を開く。シーグルは思わず聞き返していた。 「呪い?」 「あぁ、呪いだ、少なくとも俺にとってはな」 言いながらセイネリアが僅かに笑みを浮かべてシーグルの顔を見る。微笑んではいてもセイネリアの琥珀の瞳には憎しみが見えて、シーグルはその無機質な彼の笑みにぞっとした。 「黒の剣の主となった時、その騎士の願い通り俺の体はその時点で固定された。そこから変わる事がなくなった。歳も取らない、怪我をしようが体の一部を失ってさえ元に戻る。ずっと寝て暮らしていても筋力が落ちない代わりにいくら鍛えてもそれ以上力をつける事も出来なくなった。……それが呪い以外の何物だというんだ」 そこで初めてシーグルは彼が絶望した本当の理由を理解した。彼の置かれた状況の絶望の深さが理解出来た。強くなる事、強くなって自分の価値を掴もうとしていた男にとって、それは彼の意志を無視し、努力してきた時間を嘲笑った上に未来を奪う最悪の呪いだったに違いない。 「騎士は満足だったろうさ、ただ自分の技能を自分が気に入った肉体で使いたいだけだったのだからな。魂だけとなってこれ以上技能が上がる事がない騎士にとっては俺がそこから更に強くなる必要なぞない、衰える不安もない気に入りの肉体が自分の技能を振るうのをただ悦に入って見ていただけだろう」 セイネリアは口元だけで笑っていた。瞳を憎しみと絶望に沈め、全く抑揚のない声で。シーグルはそれに何かを言う事も出来ず、ただ彼の話を聞いている事しか出来なかった。 --------------------------------------------- セイネリアさんの告白。シーグルに関しては次回。 |