【2】 その夜、全てが終って首都の傭兵団の館に戻ったシーグルは、団内ではいわゆる西館と呼ばれている建物の庭にある東屋に一人で座っていた。 ここは昔、熱のあるまま仕事に出た時にセイネリアが来て団に連れてこられ……そうして回復してから帰る時に彼と会った場所だった。懐かしく思いながらも、あの時は見事に咲いていたバラ達がいない殺風景な風景を眺めて、シーグルはしんと静まり返った一人だけの状態にほっと息をつく。 この西館はもとから裏の情報屋の仕事をする面子のための建物で、一般団員は入れない事になっていたそうだ。ただ今はそちらの面々は留守の者が多い為、こちらには殆ど人がいない。 首都に入った後、傭兵団の面々は西区にあるこの古巣へと帰ってきていた。勿論ロージェンティ達は城住まいとなったが、傭兵団の人間と、ついでにアッシセグから連れてきた兵の一時的な兵舎として現在ここの西館以外は使われていた。 春になれば、ここは大改装して将軍府を置く事になっている。セイネリアが将軍となる事で設立された軍部の最高機関だが、そうなれば傭兵団の者は皆そこに所属する事になる訳で、その為の準備も書類上ではもう既に始まっていた。新政府の予定としては、冬の間に会議や書類手続きに関する事を出来るだけ終らせ、春になったら一斉に新政権による改革の実地を行えるようにするつもりらしい。ここ数日でも既に目が回るような忙しさだったが、これから更に忙しくなるだろう。 シーグルは寒さに少し震えながら本館の建物から漏れる明かりを見つめ、あまりここに長居するのもよくないかと苦笑する。魔法鍛冶の鎧を着ていた時は多少の寒さは感じなかったが、流石に今、冬場に鉄の塊を身に付けていれば厚手のマントがあっても寒くて当然だ。セイネリアがいればお前は馬鹿かと言われそうだと、吐く息が白くなるのを見て笑みがこぼれる。 セイネリアは今は城に行っていて今日の帰りは遅くなる。本来なら役目的にシーグルはついていかなくてはならないのだが、今夜の席はシーグルと親しかった者が多くいる為カリンがついていっていた。 ――早く帰る、とは言っていたが無理に決まっているだろうな。 面子を見れば、晩餐の後にちょっとした話し合いが始まるのは確実だろう。自分を置いていかなくてはならない場合はとにかく不機嫌そうな彼は、カリンに小言を言われながらも嫌々という顔で出かけていった。 彼は自分に関しての事だと意外に子供っぽい反応をする……そんな事を考えて、不機嫌そうなセイネリアの顔を思い出してクスリと笑ったシーグルは、ふと、もの音に気付いて思わず身構えた。 人影が、見える。 とはいえその人物は別に隠れる気はまったくないようで、気配を消す事も、物音を立てずに気をつけることもせずに近付いてくる。そうして東屋の前まで来たその人物は、丁度月明かりで顔が見えるところで帽子を取り、その場で深深とお辞儀をして見せた。 「いい月夜ですね。どうです? 一曲聞いてくださいませんか?」 お前は、と声を出さずに唇だけで呟いてから、シーグルはその人物の顔を記憶から引きずりだした。 職業的に珍しい、黒い服の吟遊詩人。昔一度だけ騎士団の厩舎裏で会った事がある。確かケーサラー神官であるとも言っていた詩人は、まるで見てきたようにシーグルの過去を歌い、問いかけて去って行った。最後に、未来を示唆するような言葉を投げ掛けて。 シーグルは瞳では詩人を睨んだまま、口元だけで苦笑する。 「そういえば、『先に向うで待っている』と言っていたな。俺がここへくる事を分っていたという事か」 詩人は別れぎわ、これからセイネリアのもとへ行くと言っていた。その時に続けたのだ、先に行って待っている、と。 「そうですね、多少は見えていました。でもまぁ私の見える未来は確定されたものではないので、あくまで可能性が高い道が分かる程度です」 そこまで言ってから詩人は、今度はにこりと笑って見せた。 「でもですね、実際、セイネリア・クロッセスに会ったらそんなモノ関係なく、諦めずにいつか貴方を手に入れるだろうって分かってしまうじゃないですか」 口調さえも軽くなった詩人につられるようにシーグルも笑う。自嘲じみてはいたものの、今度は瞳の険もとれて肩の力も抜けた。 「そうだな、あいつならいつか絶対望みを果たすと、そう、思ってしまうだろうな。……つまり俺は、あいつから逃げられない事は最初から確定だった訳か」 すると唐突に、ポロ、と優雅な手つきで、詩人は持っていた竪琴を鳴らした。 シーグルが黙ってそれを見ていれば、やがて指先から流れる音はさざ波のように押し寄せる旋律となって、詩人の声が添えられていく。 ――最強の男は、本当に最強の力を手に入れた時から絶望に囚われた。 空虚な心をただ抱えて、だがそれを埋める方法も分からず諦めていた。 その男にとって、初めて心を満たした想いはなによりも大切で。 その男にとって、初めて感じた強い感情はなによりも彼に生きている事を実感させてくれた。 「あいつは、絶望していたのか?」 呟けば、詩人の指は止まる。再び静寂が訪れた月夜の空を眺めて、旋律のない詩人の声だけが紡がれる。 「本当に絶望する前に、既にあの男の心は麻痺していました。だからこそ絶望をしていてもまだ堕ちる事はなかったのでしょうけど……一度満たされる事を知ったあの男ならば、それを失った時の絶望には抗えないでしょうね」 今のセイネリアが恐れる事はシーグルを失う事。だから自分の身を何があっても守らなくてはならないというのは痛い程分ってはいる。それでも、何かは起こり得る。絶対に、なんて言葉を彼に言ってやれはしない。 「貴方は……あの男に会わなければ良かった、と思いますか?」 前の時にも聞いた言葉を、詩人はそこでまた聞いてくる。 「俺に会わなければ、あいつは強いままでいられたのに……とは思う」 そうすれば、彼が恐れるモノはなかったろう。セイネリア・クロッセスはずっと最強の騎士のままでいられたかもしれない――空虚な心のまま、絶望したまま――彼にとってはどちらが良かったのだろう。 詩人の指が再び動き出す。再び響くメロディーに自然と目を瞑ったシーグルの耳に、優しい詩人の歌声が流れてくる。 ――二人が会わなければ何もおこらなかった。 空虚な男が人を愛した事で全てが動き出した。 たくさんの人々の運命と願いが行くべき道を歩き出す。 今まで起こりえなかった事を起こし、ありたいと願った道へと舵を取る。 静かに始まった声はだんだんと強さを増し、最後、高らかに歌い上げると、詩人は指を止めてその場でお辞儀をした。 歌を終えた詩人に向けて、シーグルは力なく笑いながらも拍手をした。 「俺がここにいる事で、今が良い方に向かっている、と思っておこう」 月の光を受けた詩人は、にこりと笑って帽子をまた脱ぐとそれをくるりとひっくり返し、まるでそれで月の光を受け止めるかのように両手にささげ持って空を見つめた。 「何かの願いを叶えたい時に、まったくリスクのない道は選べません。何かを願うならば、危険と涙を越えなければなりません」 「……そうだな、それは道理だ」 「えぇ、願いがあるなら相応の労力と犠牲を払わなくてはならない、それは世の中の道理です。ただしそれでもその『願い』が叶うかどうかは分からない。困難な願いであればあるだけ、全てが無駄になる最悪の可能性の方が高い」 「そうだな」 そうすれば詩人は一度黙り、月の光を掬い上げたようにしてその帽子を再び頭に乗せてからこちらに顔を向けてくる。ただしシーグルには帽子の影でその顔は見えず、僅かに口元だけが笑みを浮かべているのが分かる程度だったが。 「それでも、まずはその為に動かなくては『奇跡』なんてものは起きないのですよ」 言ってすぐにくるりと踵を返して後ろを向いてしまった詩人に、思わずシーグルは立ち上がった。 「奇跡、とはどういう事だ?」 「さぁ? でも奇跡がなければ、あの男は本当には助からないのです」 「セイネリアがか? お前は何を知っているんだ?」 「何も知りませんよ。未来に関しては、私は可能性をぼんやり予測する程度にしか知り得ません。知りたいのなら、貴方があの男に聞くべきでしょう」 返事をしながらも歩いていく詩人に、シーグルは追いかけるべきかを迷うものの、足が動かずにその場で立ちすくむしなかった。 「……あぁ、私は今はここの団の一員になってますので、会いたければいつでも会えますよ。今まではちょっとお仕事で留守してましたけど、これからは夜の食堂にくれば大抵歌ってますので、そのうち聞きに来てくださいね」 それを聞いて、シーグルはまた東屋の椅子に腰を下ろした。 ――聞かなくてはならない、と分っているんだが。 セイネリアが背負っているだろう黒の剣の秘密、剣が彼に与える影響を。彼が絶望したその本当の理由を。分ってはいるのに言い出せないのは、単に自分が怖いだけだとシーグルは理解している。彼が自分を大切に思ってくれればくれるだけ、シーグルは自分という人間の存在の重さに怖くなる。彼の秘密を知った時、自分がその恐怖に耐えられるかが不安だった。だから、彼が自分に知られたくないと思っていると、それを免罪符にして自分は逃げているのだろう。 --------------------------------------------- 詩人とシーグルが前にあったエピソードは騎士団編の「吟遊詩人は記憶を歌う」です。 細かく言うとそれの4。読まれてない方で気になった方はそちらをご覧ください。 |