冬の童話





  【後編】



 この街の領主である貴族の屋敷は、街の活気を考えればその領主とは思えない程に簡素なつくりになっていた。
 もちろん、敷地は広く、屋敷は大きく、手入れは行き届いている。けれども、屋敷の中には貴族らしい華美な装飾や豪奢な家具等は殆どなく、必要なものだけが実用的に置いてあるだけで、ある意味殺風景ともいえる風景が広がっていた。

『あの家はまるで騎士団の中のようだったよ』

 子供の頃からここで暮らしていた彼女の夫は、よく、貴族らしくない質実剛健な実家の様子をそう言っていた。
 実際、年末の所為なのか、いかにも騎士といった出で立ちの客人とその付き添いを屋敷の中ではよく見かけ、夫の言葉通りの印象を彼女にも与えた。
 彼女がこの屋敷に足を踏み入れたのは2度目であるが、前の時は建物の中まで入っておらず、中の様子までは知り得なかった。
 だが今、こんなただ広いだけの寂しい場所で我が子が一人でいるかと思うと、それだけで彼女の心は痛む。前を行く魔法使いの後ろに静かにつき従いながら、心中では早く子供の部屋へと走り出したくなっていた。

「落ち着いて、焦らないで」

 彼女の後ろを歩く少年が、小声で彼女に言う。
 彼は、魔法使いの弟子の魔法使い見習で、レーリィと名乗り、彼女の一番上の子供と同い年だと言っていた。

 約束通り、翌日、魔法使いに再び会えば、彼は彼女に修道女のベールを被せ顔を見えないようにさせた。更に、言われるまま彼の出した薬を飲めば、声が自分のものではないように変わった。
 そうして、前日に言われた通り、魔法使いの助手として屋敷の中に入り込む事が叶った訳だが、先ほどから、早く子に会いたいと思う余り彼女が少し急ぎ足になってしまうのを、後ろの少年に何度か諌められていた。
 落ち着きがないその様子を、案内の使用人に何度か不審に見られる事もあったが、それは魔法使いがフォローをしてくれた。

「申し訳ありません、彼女は普段修道院に住んでいるので、このような場所は初めてで落ち着かないのですよ。だから早く用事を済ませたいと思って気が急いているのでしょう」

 使用人はそれに明らかに不快な表情をしたが、それでも納得したのか、以後明らかな不審の目を向けて来る事はなくなった。

 長い廊下を歩いていけば、次第に他の人間に会う事がなくなっていく。
 それから何度目かの角を曲がり、建物の隅にある部屋の前で使用人は足を止めた。
 彼女の鼓動が跳ね上がる。

 この中に、奪われた我が子がいるのだ。
 夫が家族と共にいる事を許す代わり、この家に取られ、二度と会わない事を約束させられた彼女の息子が。

 使用人はドアを開け、魔法使いの一行を部屋の中へ招きいれる。
 焦る心を必死に抑え、静かに入って中を見回そうとした彼女は、だが、部屋の中央で頭を下げた騎士の姿を見て固まった。

「ようこそ、ウォルキア・ウッド師」

 この屋敷の主であるシルバスピナ卿の、忠実なる部下。
 何度も彼女を追い返した、彼女の顔を確実に知っている存在。
 顔を見られたら、彼女を追い出すだろうその男を見て、彼女は背筋に冷たい汗を流す。

「大丈夫、分かりませんよ」

 少年の囁きに、彼女も胸を押しつぶそうとする不安を押し返す。
 神に操を捧げた修道女の顔を見ようとするなど、この憎らしい程騎士らしい騎士の男がする筈はない。今の彼女は声が違う、分かる筈はないのだ。

「今日は一人多いようだが……」

 いいながら、彼女を良く見ようとしてくる男に、魔法使いは笑みを返す。
 彼女は思わず体が引けて、魔法使いの背に隠れようとしてしまった。

「修道女をよく見ようとするなど、騎士のする事ではありませんね。彼女は今日、治療の助手として来てもらったんですよ」

 騎士はその言葉に従い、近づこうとしていた身を引いて、彼女に非礼を詫びる。
 けれどもその顔から不審感は拭えてはいなかった。

「だが治癒ならば、既にリパの高位神官様にも来て頂いております。症状が症状ですから、治癒術だけでどうにかなるものでは……」
「いえ、今日は少し変わった術を使う予定でね、念を入れて彼女を呼んだのです」

 魔法使いの口調はあくまで丁寧で穏やかだったが、その言葉には騎士の顔色が変わる。

「そんな危険な術なのですか? それならば……」
「いえいえ、危険ではありません。術の前に治癒を掛けてもらう事で、術単体よりも効果の出る可能性が高い、とでも思ってくれればいいかと」
「成る程……」

 引き下がった男を更に下がるように指示すると、魔法使いは彼女の元にやってくる。

「ではまず君は治癒術を掛けてくれないかな。失っている体力を補うように、熱が引くように、それだけを願ってかけるといい」

 言いながら魔法使いに背を押され、彼女はベッドの前へと歩み寄る。

 広い部屋の大きなベッド、その中には余りにも小さすぎる姿がぽつんとある。
 父親と同じ銀色の髪と、彼女の記憶よりはかなり成長して大人びた顔の輪郭。けれど、病気のせいか子供らしくふっくらとしている筈の頬はこけ、やせ細り、硬く目を瞑って苦しげな息を吐いている我が子を、彼女は今にも泣いて抱き締めそうになった。

「さ、治癒を……」

 魔法使いに促され、彼女は静かに子に向かって右手を伸ばす。
 左手はリパ信徒の聖石を握り締め、ありったけの思いを込めて彼女の神へ祈る。

「神よ、その慈悲深き救いの手をこの子に……」

 術による治癒は、目に見えて患部が分かる怪我には絶大な効果があるが、病気等、術者が治そうと思う箇所が漠然としていればしているだけ効果は低くなる。
 けれど、元々、治癒は彼女の得意な術であり、それに母親の愛情という強い思いが重なれば、彼女の力以上の効果が現れるのはある意味当然の事ではあった。

 癒しの光は痩せた少年の体を包み、荒い息を吐いて開いていた唇をゆるやかに閉じさせる。目に見えて苦しげな表情が穏やかになった少年の顔は、こけた頬の分があっても、あどけなくまだ幼い子供の表情であった。

 ほう、と感心した騎士の声が掛けられる。

「大したものだ。今まで治癒術だけではここまで効果が出た事はなかった。彼女は余程の力の持ち主と見える」
「だからこそ、彼女を連れてきたのですよ」

 汗で顔に張り付いた前髪をそっと払って、彼女の手が子供の額に触れる。
 そこまでの高熱ではなくなっているのにほっとして、彼女は6年ぶりに触れる事ができた我が子の頬を震える手で愛しげに撫ぜた。

 ――神様。

 彼女は祈る、この子の無事を。
 彼女は祈る、この子の幸せを。

 手を離せば、もう二度と触れる事が叶わないかもしれない、我が子の温もりを覚えておく為に、優しく、優しく、彼女は子供の頬を撫ぜる。
 唇では子を癒す呪文を唱え、心ではただ一心に祈る。
 ……今の彼女にはそれしか出来なかったから、それだけに母としての愛情の全てを込める。

 けれども、眠っていた我が子の瞼が僅かに震え、うっすらと深い青色が姿を表したのを見て、抑えていた彼女の感情は溢れてしまいそうになる。

「シー……グル」

 震える唇で呼んだ名が、他人に聞き取れる程の音にならなかったのは幸いだったのか。
 最早、呪文を唱える事も出来ず、口を押さえ泣き崩れそうになる彼女にいち早く気付いたのは、魔法使いの弟子であるレーリィであった。機転の利く少年は、騎士の視線から遮るように彼女の傍に寄ると、そっとその体を支えて彼女を外に出るように促した。
 彼女の心は勿論ここを離れる事を拒絶していたが、それでも自分がもう感情を抑えられなくなっているのも分かっていた。
 ベールに隠れた顔の中、涙の溢れる瞳で、愛しい子供の姿をしっかりと頭に焼き付け、彼女は少年に連れられて部屋を出て行く。

「彼女はどうしたのですか?」
「効果の高い術を使ったのでね、彼女側も負担が大きいのですよ。ですから倒れる前にね、うちの弟子が彼女の術を遮ったのです」
「では、術は途中なのですか?」
「いえいえ、十分、想像以上の効果が出ましたので、後は私の仕事になります」

 状況がわからず焦る騎士を宥めて、魔法使いはベッドの中の少年の顔を覗き込む。
 瞳を開いたもののまだ意識はちゃんと覚醒していないのか、その視点はあやふやで、こちらの顔を見返してくることはない。これでは、目を開いた時に母親の姿を見てはいないだろうと彼は残念に思う。

「目が、覚めたかね? ここが何処か分かるかい?」

 声を掛けられて、初めて少年が瞳に魔法使いの姿を映す。

「お医者様? ここは……俺の、部屋?」

 か弱い声がそう呟いて、魔法使いは笑顔を返してやる。

「そう、君はね、屋敷に帰ってきた途端、熱を出して倒れたんだ。聞けば向こうでも全然食べていなかったそうだし、熱で体力の消耗も激しくてね、病気自体はただの風邪だったけど、大変だったんだよ」

 少年の瞳は未だにどこか虚ろであったが、それを聞いても別段何の感情も浮かべはしなかった。病気の所為で気弱になっているのとは違う、その瞳には生きたいと願う生気が無いのだと魔法使いは思う。

「とにかく、君が元気になるには栄養が必要なんだ。少しだけでも、食べてくれるかな?」

 聞いた少年はどこか怯えた表情を浮かべる。
 まだ熱の残る顔で、小さく頭を振る。

「ウッド師、シーグル様は食事が取れないのです。元気な時でも殆ど食べられないのに今はとても無理かと。栄養剤でさえ、昨日は吐き出してしまったではないですか」

 そう、今回だけではなく、何度か彼の体を診ている魔法使いは知っている。
 この少年が極端に小食で、そのせいでこんなに痩せている事を。何度か倒れる度に栄養剤を飲ませていたものの、昨日はそれさえも吐き出して困りきっていた事を。
 けれども、今日の彼にはとっておきの秘策があった。

「だから、今日は特別な魔法の掛かった料理を持ってきているんですよ。きっと、これなら食べられる筈のね」

 そういって、彼はベッド傍の机の上に、ここにくる前に使用人に用意させていたトレイを置くと、そこに持ってきていた蓋のついた木の椀とスプーンを置く。
 そうして、何をするのかと騎士が不審気に見ている中、魔法使いは少年を上体だけ起き上がらせて、目の前にそのトレイを置いた。

「では、ここで最後の仕上げをしよう」

 小さく呪文を唱えて、魔法使いは杖でトレイ上の椀をこつんと叩く。
 それから椀の蓋を開ければ、中には暖かな湯気を立てたスープが現れた。
 少年が怯えた瞳でその椀の中身を覗き込む。
 魔法使いは少年の手を取ってその手にスプーンを持たせると、スプーンを椀の中に入れてかき混ぜさせた。
 ふわりと、柔らかな匂いが少年を誘う。
 この子供には、それで十分な筈であった。
 大きく開かれた深い青の瞳を見て、魔法使いは少年の手を離した。

「これはね、この世にある最も美しい物の一つを込めた、とても尊い魔法なんだ。君にとって一番必要なものが入った、君が一番食べたい料理だ。きっと、食べられる筈だよ」

 少年は、そっとスープを掬う。
 そうして、口の中に入れる。
 そのまま、吐き出す事は無く、少年は小さな唇をゆっくりと動かすと、やがてそれを嚥下した。

「おぉ……」

 騎士が歓喜の声を上げる。
 少年はゆっくりと、止まる事なくスープを口の中に入れていく。

 それと、同時に。

 少年の瞳からは涙が零れ落ちる。
 見開いた深い青の瞳から、ぽろぽろぽろぽろ、大粒の涙が溢れては落ちる。
 表情のない少年は、瞳だけで泣く。

「シーグル、様?」

 様子がおかしい事に気付いた騎士が、困惑して少年の顔を見ようとする。
 けれどもそれを魔法使いが制して、騎士の体が傍に寄るのを防ぐ。
 それから、彼はちらりとだけ少年の姿を見つめ、その口元が声もなく呟いた言葉を確認して笑みを深くした。

 『かあさん』と。

 食べ終わって、椀の中身を泣いたまま見つめる少年の頭を、魔法使いの手が優しく撫でる。

「忘れてはいけないよ、君はちゃんと愛されている事を。自らに呪いの言葉を吐くのは止めなさい。まだ君は幼い、目指すものを見失わなければ、きっといつか望みは叶うからね」

 痩せた少年の顔が、魔法使いの顔を見る。
 まだ幼い子供の容貌の中、少年は大人じみた悲しそうな笑みを浮かべた。

「ありがとう、ござます。……そう、伝えて下さい」

 その瞳から溢れる涙は止まる事はなく。
 けれども少年は嗚咽を上げる事なく、涙を流したまま笑った。








 窓の外は、今日も雪が降っている。
 フェゼントが外を見ていれば、見覚えのある女性のシルエットが家に向かって歩いてくるのが見えた。
 フェゼントは、傍らにいたラークの手を引っ張って走る。

「おかえり、母さん」

 ドアを開けて入ってきた人物に、二人は抱きついた。
 彼女はしゃがんで、二人の息子を抱き締める。

「ただいま」

 その時の彼女は、このところ見たこともない程、嬉しそうな笑顔を浮かべていた事をフェゼントは覚えている。
 声につられるようにやってきた父親までもが、その彼女を見て、本当に久しぶりに微笑んだ事も覚えている。

 それは、彼がいなくなってから、一番幸せで、穏やかな年末だった。



END

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BL要素がまったくなくて申し訳ないですが、特別突発企画という事でお許しくださると幸いです。
ちなみにウッドさんは誰かさんの師匠なんて設定があります。見た目通りの年齢じゃないです。
シーグルが両親と別れる事を約束させられるシーンは本編でそのうち。



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