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【１・真実】 目が覚めたら、夢だと思うくらいに幸せな時間は現実のままだった。 起きた直後は部屋の中には一人で、だから一瞬不安になったシーグルだったが、机の上に置かれたリボンのついた瓶を見て安堵と共に笑みが湧く。 あの瓶は昨日、ウィアがジュースだといって飲ませた酒の空瓶に『仲直り記念』と書いたリボンを掛けて飾っていったものだ。 『折角だ、仲直り記念で飾っておこうぜ』 『ウィア、流石にこの部屋に空瓶を置いておくのは……』 『べっつに記念品なんだから、見栄えしないもん飾ったっていいだろー』 『でもここに誰か来た時、これは何かと聞かれたらシーグルが困ると思いますよ』 『……いや、別に俺は構わないが』 『だろー、こうして形としてモノがあるとさ、また喧嘩でもした時にこれ見て今を思い出せば仲直りしなきゃって気持ちになったりするかもしれねーじゃねーか。こーゆーのがどこで役に立つかは分からないもんだぜ』 『ほんと、ウィアってお気楽思考だよね。そんな単純に話が済む訳ないでしょ』 『おっまえ、年下のクセにほんっきで可愛くないよな』 『それはそれは、どーせ俺はウィア程可愛くないからね』 そこから起こる、ウィアの怒鳴り声と、ラークの言い返す声の応酬。 それを見て笑うフェゼントとシーグル。 思い出したシーグルは口元を笑みに歪めたまま、くすりと鼻を鳴らす。――確かに、何処で役に立つか分からないとはよくいったものだ、と。実際のところ、まさに今役立ってしまった。もし、今あの瓶が目に入ってこなかったら、シーグルはベッドを抜け出してフェゼントを探しに行ってしまったかもしれない。 シーグルは安堵と共に、起き上がらせていた体を再びベッドに預ける。 熱はほぼ引いているのだが、体のあちこちが悲鳴を上げている上に、全体的に怠さが取れない。もしかしたら体調が悪いところで酒を呑んだ所為もあるかもしれないが、それに関してはウィアを責める気はなかった。特に急ぎの用事がある訳でもないし、これならばまだ今日は大人しく寝ていた方がいいだろう。 それに、今はこの幸せを噛み締めたまま、静かに休んでいたい気分でもあった。 シーグルは目を閉じる。 ウィアが来て、仲直りの乾杯をしたのはつい一昨日のことだ。 乾杯で飲まされた『ジュース』が酒だったのには頭がぐらりと揺れてから気付いたものの、体調のせいも相まってシーグルはあっさりとベッドに倒れ込んでしまったらしく、呑んだ後の記憶が全くない。 それで目が覚めれば隣にはフェゼントが寝ていて、気恥ずかしくはあっても正直嬉しいとシーグルは思った。暫くすれば彼も起きて、互いに照れながら笑いあって、子供の時のようだと言い合った。 ただ、それで起き出してみれば、ベッドの下ではウィアとラークが眠っていて、今度はその二人もベッドの上に持ち上げる事になったのだが。 いつも一人で寝ていたベッドの上は、やけに賑やかなぎゅうぎゅう詰め状態になって、フェゼントとシーグルは彼らを見ながら、たくさん、たくさん、話をした。 互いに、離れてから起こった事。 シェンから聞いた事。 自分がいなくなってからの母親のことを聞いた。 毎年毎年、シーグルの分も母親が靴下を編んでいたことを聞いた。 心が壊れた母親が、シーグルに会わせろとずっと言っていた事を聞いて涙した。 シーグルは迷いながらも、シェン・オリバーから聞いた両親の話を伝えた。 母親がずっと、フェゼントを父の子でないのではと悩んでいたことを話した。 彼はやはりと顔を沈ませたものの、それでもちゃんと彼も父の子であるという事も話した。 二人でたくさん泣いた。 そして、最後には笑顔で名を呼び合った。 それからいつの間にか、手を繋いだまま自分達もまた眠ってしまって、起きた時にはウィアに揶揄われた。 そこからフェゼントが部屋を片付け出して、それをウィアが手伝って、その時に転がっていた瓶にウィアがリボンを掛けだしたのだ――記念に、と。 「シーグル、起きてますか？」 うとうとと少しだけ微睡んでいたシーグルは、声の後にノックの音に気がついた。 即座に目を開けて、ドアの方に顔を向ける。 「あぁ、起きてる」 いいながら起き上がれば、ドアが開いてフェゼントとウィアが姿を現した。 フェゼントは両手で蓋付きの容器を持っていたから、また食事を作ってきてくれたのだろうと思って、自然、シーグルの頬が緩む。ウィアの方は、昨日は確か首都に帰った筈だから、今日はもうこんな時間からこっちにまで来たのだろうか。 「今日はなー、早起きして朝一の馬車に乗って、フェズの作った朝ご飯食べに来たっ」 少し不思議そうなシーグルの視線に、ウィアが胸を張って得意げに言う。 その様に目を丸くしたシーグルを見て、ウィアは不満そうに片眉を上げてその顔を覗き込んだ。 「なんだよー、ンな不思議そうな顔してさ。そりゃ俺は早起きは苦手だけど、フェズの作ったご飯の為なら気合で起きてみせるッッて来たんだぜ」 「まったくウィアは、気合で起きれるなら普段からもう少し早く起きて、朝の礼拝に行かないとならないでしょう」 「俺は神様の愛よりも自分の愛の為に生きてるのさっ」 「ウィア……」 呆れたように溜め息をついて手に持っていた容器をベッド傍の台に置いたフェゼントは、それを見て飛びついてきたウィアを見て、子供を叱る母親のような目で睨んだ。 「まぁ……フェズが言うなら……起きれるようにすっけどさ」 すこし落ち込んだ声でウィアが言えば、フェゼントの顔はにっこりと笑顔に変わる。 「それでは明日は大神殿の礼拝に行ってから来て下さいね、ちゃんと行ってきたらウィアの好きなモノ作ってあげますから」 「分かった、フェーズ大好きッ」 ごろごろと猫が懐いているようにフェゼントの背中に頬を摺り寄せるウィアの姿は、本当に子供のようだとシーグルは思う。 思わず二人のそんなやりとりに見蕩れていたシーグルは、唐突にウィアと視線が合って一瞬驚く。そこでまさに子供が悪巧みをするようなにっと含みのありそうな笑みを向けられて、この間の事もあって身構えてしまった。 「シーグル、羨ましいならお前もフェズに抱きつけよー。ラークだったら対抗して抱きついてくるぞ」 「いや俺は……」 なんだか恥ずかしくなってシーグルは視線を逸らす。 果たして、自分もああして兄に抱きつきたいのかと考えれば、子供じゃあるまいしと思う反面、頭から否定も出来なくて、むずむずと痒いようななんとも言えない気分になる。 「なんだよー、今ならシーグルにだけは特別出血大サービス！！ 期間限定でこの場を譲ってやってもいいんだぜ？」 びしっと指さしてくるウィアに、シーグルは何と返せばいいのか分からず黙り込む。 ウィアに抱きつかれたままのフェゼントは、軽く頭を抱えて言った。 「ウィア……売り物じゃないんですから……」 しかしウィアの言葉は止まらない。 「でもサービス期間終ったら譲ってやらないからな、フェズの事いっっっっちばん愛してるのは俺だからっっっ」 言いながら、ウィアはぎゅっと更に抱きついてみせる。 流石のフェゼントも振り向いて、その顔を諌めるように睨んだ。 「ウィーア、兄弟に対抗してどうするんですか？」 「えー、俺はフェズの事一番好き、愛してる。なぁ、フェズは？」 「ウィア……シーグルやラークとウィアでは意味が違いますから……」 「なぁ、俺の事愛してるよな、フェーズー」 だだをこねる子供のように抱きつくウィアに、フェゼントは顔を赤くしてシーグルの方を見ると、無理矢理作ったような笑顔を浮かべる。 「あー……食事持ってきたんですけど、そういえばスプーンがありませんよね、貰って来ます。後、水も汲んできますね」 そう言って足早に部屋を出ていこうとするフェゼントに、ウィアは盛大なブーイングの言葉を掛けた。 「フェズー、フェズー、愛してるって言ってくれないのかよー。ベッドでならたくさん言ってくれるのにー」 「ウィアッ、だから人前でそういう話は止めましょう。……あの……そういうのは後で好きなだけ言います……から」 「約束なー、絶対なー」 やっとのことでウィアから放して貰えたフェゼントが部屋を出て行くと、途端に部屋はしんとなる。 騒音の大本であったウィアも、まだ体調がすぐれないシーグル相手に言葉をまくし立てる気はないのか、大きく背伸びをすると椅子に座って一息ついた。 だが、そこでぽつりと、シーグルがウィアに話し掛けるでもなく呟いた。 「愛してる……か」 余りにも小さい声だった為、聞き違いかと思ったウィアは、最初顔だけをシーグルに向けて、シーグルが俯いているのを確認して首を傾げた。 「愛してる、という言葉の……その気持ちは、俺には分からない」 「シーグル？」 今度は確実に彼の声だと思ったウィアは、椅子から乗り出して、下を向いているシーグルの顔を覗き見ようとした。 「……愛してる、とあいつは言ったんだ」 即座にウィアは返す。 「セイネリアが？」 シーグル自身、正確にはウィアに尋ねているつもりはなかった、自問の言葉だった。 それでも、ウィアに返された名を聞いた途端、顔を上げて彼の顔を凝視する。 驚愕に開かれたシーグルの瞳を見て、笑みではないが柔らかい表情でウィアは言った。 「セイネリアが、お前の事愛してるって言ったんだろ？」 「――ッ」 シーグルは唇を噛み締めたまま、それに言葉を返せなかった。 ウィアはそんなシーグルに笑いかけて、だがシーグルは何故かその顔を見ていられなくて顔を下に向けた。 「何故……」 シーグルが呟けば、すぐにウィアは答える。 「だって、あいつがお前の事愛してるのなんて俺すぐ分かったし。それに、あいつ以外に言われたんなら、お前がそんな辛そうな顔しないだろ？」 シーグルは下を向いたまま掌を固く握り締めた。 ウィアはそんなシーグルを見てからわざと視線を外し、部屋の中を見ながら明るい声で言葉を続ける。まるで、シーグルに言っているのではなく、独り言を言っているように。 「俺さ、不思議だったんだよな。なんであいつはシーグルの事すんなり返してくれたんだろうって」 「それは、あいつにとって俺は――」 ――もう価値などなくて、見放されたから。 そう、言おうとしたシーグルはそこで言葉を詰まらせる。 『愛してる』 何度も何度も囁いていた彼の言葉は、嘘偽りのない真実だった。 あれだけの男が、あれだけの想いで伝えた言葉を簡単に投げ出す筈は、ない。 シーグルの頭の中に、最後に彼に抱かれたあの時の光景が浮かび上がる。 本当に見捨てたのならば、彼は、自分に何も言う必要はなかった。 ただ、最後まで自分を嘲笑い、犯して、飽きたら捨てればいいだけだった。 わざわざ、あんな饒舌に自分を煽るようなことを言う必要はない。 ましてや、自分を迎えにこいと兄達に伝え、カリンに自分達を送るまでの指示をしておくなんて事はあり得ない。 今ならば、分かる。 抱きながらシーグルを非難した彼の声は、怒っていたのではないか？ あの何者にも弱味を見せない男が、本気で感情的になっていたのではなかったか？ ……部屋を出て行く前、自分をいらないといった彼の声は震えていなかっただろうか？ 『あんたは愛って奴を甘く見すぎてる』 灰色の髪の男が言った言葉が、思考の中に落ちてくる。 何度も何度も、シーグルはセイネリアに見限られたと思って来た。 けれども彼は、いつでもシーグルを助けにきた。 あの時の最低な自分のことは、流石に見限って当然だと思ってその時は疑わなかったものの、よく考えれば、それも違う事が分かってしまう。 ――愛している、と彼は言った――。 何度も何度も、シーグルがいくら拒絶をしても、苦しげに、切実な声で、彼は囁いた。 誰よりも強いその手で、まるで壊れ物を扱うように優しく触れて、何度も、何度も、彼はただ言ったのだ、愛していると。 あれは真実だ。 ならば、何が真実でないのか、答えはすぐに分かるのではないか。 「だってさ、お前からあいつのとこ行ったんだろ？ ずーっとお前に嫌われてたのに、お前から自分のとこ来てくれたんならさ、俺なら離さないよ。相手の弱味につけこんでも、このチャンスに自分の物にしようと思う」 ――違う、ウィア。セイネリアにはその必要がなかったんだ。 体だけなら、彼はいつでも好きな時に自分を手に入れる事が出来た。 それなのに、あんなに苦しそうに自分に愛していると告げてさえ、彼は手を離してくれた。あれだけ辛そうに、それでも離してくれるというその事自体が、セイネリアがシーグルをどれだけ大切に思ってくれているのか、どれだけシーグルを壊したくなかったのかを伝えていたのに。 なのに、シーグルはセイネリアに言ったのだ。 「壊してくれと、俺は言ったんだ……」 シーグルの見開いた青い瞳からは涙が落ちる。 「これ以上傷つきたくなくて、失いたくなくて、だからあいつに体をやる代わりに壊してくれと俺は言ったんだ……」 彼が欲しいのは体だけではないと分かっていて、体だけしかやらないとシーグルは言った。一番彼が望だものを、彼自身に壊してくれとシーグルは頼んだ。 あの強い男があれほど切実に望み、大切に想ってくれたものを、壊して欲しいとシーグルは言ったのだ。 壊してくれと、その言葉を聞いた時、彼は何を思ったのだろうか。 いらない、と言って背を向けた後、セイネリアは二度と振り向かなかった。 けれども、すぐに立ち去ることもなかった。 何も言わず、立っていた時の彼は何を思っていたのだろう。 どうして気付かなかったのかと、シーグルは思う。 部屋を去っていった彼の背中は、同じだった。 何度もシーグルに拒絶され、それでも苦しそうに手を放して去っていく、その痛みを背負ったその後ろ姿と同じだったと。 「俺は……あいつを傷つけた」 誰よりも強く、何にも動じない筈の男を、取り返しがつかない程酷く傷つけたのだと、シーグルはそれを初めて自覚した。 何度も何度も、シーグルは彼を拒絶した。 その度に彼は傷ついていた、だがそれをシーグルはいつも見ない振りをしてきた。けれども、おそらく、壊してくれというあの言葉は、決定的に彼を深く傷つけた。 それでも彼は、最後まで、自分の望みよりもシーグルの心を救う事を願った。 どれだけ傷ついて、どれだけ苦しんでも、彼はシーグルが救われる可能性を選択した。 あの時、彼のベッドで泣いた自分よりも、立ち去った彼の方が辛かったのではないのだろうか。 「あのさ、シーグル。俺前に人に聞いた事があるんだ。自分の好きって気持ちを押し付けて相手に望むだけなら恋だけど、好きだから相手の為になりたいって相手に何か与えたいって思うなら愛してるだって」 考えるように言いながら、ベッドに座ったウィアがシーグルに笑いかける。 「セイネリアはお前の為になりたくて、お前に与えたかったんだろ、たとえ自分が傷ついても、さ……だからやっぱり、あいつはお前をホントに愛してたんだ」 シーグルの、深い海の中を思わせる濃い青の瞳からは、ただ、涙が流れた。 --------------------------------------------- セイネリアは？！という方へ。まずは、シーグルが気付くところからです。 |