【3・乾杯】 ――それから、一月程がたったある日。 新しい黒の剣傭兵団の拠点としたアッシセグの街の外れにある屋敷の中で、セイネリアは今朝届いた荷物と親書を前にして口元に笑みを浮かべていた。傍ではカリンが、机の上にグラスを三つ用意している。 没落した貴族の別荘を買い取ったここは、建物は多少前より手狭だが、敷地だけなら前よりも広い。外を見れば、庭の木を切り倒して訓練場を作っている者達の怒鳴り声が聞こえてくる。そこから少し視線を離せば、かつての使用人達の建物を改装している連中の姿も見えた。 現状の傭兵団の人数は、首都にいた頃に比べ、その数は半数近くまで減っていた。それでも皆が契約した上での面子であった事もあって、裏の連中は一人を残して全員ここへ来ていたが。 ただ、今回は前のように、裏の情報屋連中専用の場所を敷地内に作る事をセイネリアは考えていなかった。 調査が主な仕事の者は、全て街の中に個別に部屋を借りて隠れて生活をする事にさせている。外に顔を出せない連中だけはこの建物の中の上の階に部屋をやったが、どちらにしろ前程秘密主義にしなくてもここでは問題がないだろうと思っている。 椅子から立ち上がって窓の外を眺めていたセイネリアは、部屋の扉を叩く音に気がつくと、口元だけに僅かに笑みを浮かべて椅子に座った。 程なくして入ってきた人物は、青い髪と青い瞳を持つこの団の副長である男だった。 「マスター、わざわざ呼び出しとは何か面倒事でもあったのか?」 庭の改装指示を担当している彼は、自分も力仕事を手伝っていたらしく、ただでさえ肌の上から軽く羽織った程度の服を更に片腕の袖を抜いて右胸を外気に曝し、顔の汗を手で拭いながら聞いてくる。 その姿を見たセイネリアは、思わず喉を震わせて笑った。 「結局、見てるだけじゃなくお前も手伝ってるのか」 「そらなー。指示してるだけじゃなんかもう面倒臭くなっちまってきたからな」 「それで、今日はもう抜けても大丈夫か?」 「あ?……あぁ、まぁもう今日は後は地面慣らすだけだしなぁ、俺がいなくても問題ないとは思うがね」 不思議そうに主の顔を見返すエルに、カリンがグラスを渡す。それを受け取りはしたものの更に頭を傾げて困惑している彼を見て、セイネリアはカリンに向けて顎で合図をしてみせる。 カリンはそれを受けて、机の上にある箱から酒の瓶を出した。 「少し、付き合え。……といっても、お前には礼代わりに一杯だけだがな」 「そりゃまぁ、そういう用事なら喜んでってとこだが……あんたにしちゃ随分ケチ臭い事言うじゃねーか。よっぽどいい酒なのか、それ?」 あまり詳しくないエルでも、瓶のラベルの細工を見て、安くない相当の高級品というくらいは分かったらしい。 カリンさえもがくすりと笑みを漏らし、彼女は瓶の栓を抜くとエルのグラスにその液体を注ぎいれる。 エルは首を傾げながらも素直にそれを受け、カリンに礼を言う。そんな彼に、セイネリアは何気ない口調で先程の彼の問いに答えてやった。 「いい酒だぞ。これ一本で、馬2頭は楽に買えるくらいのな」 丁度グラスの中身を試しに軽く啜ってみようとしていたエルは、それを聞いて顔を引き攣らせた。 「げ、そんなの簡単に開けるんじゃねぇよ」 セイネリアは酒の注がれたグラスを軽く掲げてみせ、それから美味そうに一口だけ飲むと、らしくなく穏やかな笑みを浮かべてグラスの中の赤い液体を眺めた。 「だから、味わって飲め。本音を言えば誰にもやりたくはないが、お前達だけはそういう訳にいかないだろうからな」 セイネリアのその表情とその言葉で、エルは事情を察する。 「もしかしてこれ……あの銀髪の坊やからか」 「あぁ」 「成る程、だから礼か……らしくねーな、マスター」 「あいつの事だと俺らしくないのは今更だろ」 「そりゃ、確かに」 くくっと喉をひきつらせるように笑い声を上げて、エルもまたグラスを軽く掲げるとそれに口をつけた。 素晴らしい香りと得もいえぬ深い味わいにほぅと息をつきながら、エルは何時になく機嫌のいい様子の彼の主の顔を見つめる。 「しかしまた、あの坊やも随分気前がいいモンだ」 言えばセイネリアも、喉を震わせて笑う。 「屋敷の貯蔵庫にあったそうだ。あいつの家系はどうやら酒が飲めないらしくてな、何代も前に褒美として王から貰ったモノがずっと放置されていたらしい。……どうせ飲めないで放置しているだけだから飲める奴にやると言っていたが、あいつがこの酒の価値をどれだけ分かっているかは怪しいな」 楽しそうに笑いながら、セイネリアは、ずっと笑みを浮かべたままの唇をグラスにつける。 エルもありがたく少しづつ味わって飲みながら、そんなセイネリアの顔を見て、このまま浸らせてやろうかと思いつつもやはり湧く興味は押さえられなかった。 「言ってた、っていうなら、親書の石の方も来たわけか」 「……あぁ」 思った通りの返事に、エルは少し身を乗り出す。 「なんて言ってきたんだ、あの坊や」 「主に、謝罪と感謝の言葉だな」 「それだけじゃないだろ、こんだけ経ってからって事はさ」 「後は……近況報告もな。騎士団に入る事にしたそうだ。まぁ、それについてはフユから既に聞いていたが」 裏の連中の内、フユだけは首都セニエティに残ってシーグルに関する報告役を引き続きやっている。ヴィド卿の件で責任を感じた彼が、自分から志願して残ったのだ。 エルとしてはどうにもはぐらかされている感じがして、少し眉を寄せて、彼の主に詰め寄った。 「いやまぁ、それ以外にさ、もっとあんたにとっちゃ重要な事を言って来たんじゃないのか?」 乗り気なエルに対して、セイネリアは全く視線を向けてこない。最強と呼ばれた男は、ただじっと口元に笑みを浮かべたままグラスを眺めるだけだった。 「まぁな、だが、そこまでお前に教えてやる気はない」 「えーそりゃねぇだろ」 「エル、流石に調子に乗りすぎかと」 カリンにまで言われては、エルは思い切り不機嫌そうに顔をしかめて黙るしかない。だが機嫌の良さそうな主の顔を見てからは苦笑して、大人しく引き下がってグラスの中身を堪能する事にした。 後は言葉を交わさず、三人は静かに最高の美酒に舌鼓を打つ。 目を閉じたセイネリアは、先ほどまで聞いていた、シーグルの送ってきた親書の言葉を思い出していた。 『……セイネリア、すまない、そして感謝している。俺があの時自害しなかったのは、お前の言葉があったからだ。お前が俺を愛してると言ってくれたから、俺は、俺を自分で殺せなかった。だが俺は、そんなお前に返す言葉も、俺自身の気持ちを言葉にする事も出来ない』 愛してると告げた言葉は、間違いだけではなかった。 自分の想いは、彼を追い詰めただけではなく、彼の命を繋ぎとめる最後の糸たり得たのだと。 その事を実感した途端、セイネリアは久しく忘れていた、瞳に熱い感触が広がっていくのを感じていた。 自分にこれを告げる為に、彼はどれだけ悩んで考えたのだろう。 迷いはあってもはっきりとした彼の声に、あの強く深い青の瞳が思い出されて、セイネリアはそれだけで胸の中が暖かく満たされていくのが分かった。 だから、まるで酔うかのように満足げに口元に笑みを浮かべ、その後に続けられた言葉を心に刻む。 『だから、強くなろう。お前の目をはっきりと見て、迷わずにお前に言葉を返せるくらいに。約束する、いつか必ず、お前の前に立てるだけ強くなってお前に会いにいく事を。今の俺にはそれくらいしか、お前のしてくれた事に返す事が出来ない』 真面目すぎる彼は、きっと律儀に約束を守るだろう。 たくさんの挫折と絶望を知っている彼ならば、きっと次に会う時は前以上に強い瞳で自分を見る事だろう。 約束を違えず、強くなって、もっと揺るぎない心と瞳で、自分の前に現れる。 だから、焦らず待っていればいい。 たとえどれだけ待たされたとしても、今は彼を手放したあの瞬間の後悔と葛藤に苛まれずに済むのだから。 ――抱きしめて、キスをして、愛していると囁く代わりに、犯して、嘲笑って、突き放した。 感情のすべてを注いで愛する存在を、ただ踏みにじった。 大切で大切で、何を捨てても欲しかったその存在に、背を向けていらないと言わねばならなかった。 この腕に抱いたままでいれば彼を手に入れられる事が分かっていて尚、手放さねばならなかった。 いくら自分の選択は正しかったのだと言い聞かせても、あのまま彼を手に入れてしまえば、この腕の中にいつまでも彼を抱いていられたのだという思いに何度も後悔しそうになった。例え、彼が壊れてしまっても、完全に彼を自分のものとして二度とこの腕の中から手放さなくてよくなるのだという誘惑は、あまりにも甘くセイネリアの意志を溶かそうとした。 彼の声やその腕に抱き締めたぬくもりを、唐突に思い出しては歯を噛み締めた。 殺しても殺しきれない感情を抑えつけるのに、どれだけ苦しまねばならないのかと途方に暮れた。 自分の弱さを思い知った。最強と呼ばれても、これほどに心は脆く揺れるのだという事が分かった。 だからこそ、今は待てる。 二度と彼に触れる事も、その姿を見る事も、声を聞くことさえもないのかもしれないと覚悟して彼に背を向けたあの瞬間を思えば、今のセイネリアは待つ事ができる。 彼を手放し、代わりに残った希望に懸けたセイネリアは、今度こそ自分は間違わなかったのだと、これ以上なく甘露な酒で喉を潤したあと、満足げに深くため息をついた。 陽が完全に落ちた夜の静寂の中、空に浮かぶ銀色の月を窓から見て、セイネリアは傍にいる彼の忠実なる部下に向かって呟いた。 「カリン、賭けをしないか。俺が耐えられなくなるのが先か、あいつが来るのが先か」 声に気付いたカリンは、主の傍に近づいていって、彼女もまた、空に浮かぶ凛とした光を放つ美しい月を見上げた。 「らしくない言葉ですね。耐えられないと思っているのですか、貴方が?」 「俺も随分弱くなった、正直あまり自信がない」 冗談めかした口調で穏やかにそう答えた主に、彼女は赤い唇を鮮やかに釣り上げて笑う。 「いいえ、弱さを知った貴方はきっともっと強くなりました。貴方が、お気づきになっていないだけです」 END --------------------------------------------- お疲れ様でした。ここまで読んで下さって本当にありがとうございます。 二人が再会する話……も意図的に書けるようにしてますが、一先ずはここで完結とさせて下さい。 こんなんじゃセイネリアの救いにはならないわーと憤慨してらっしゃる方がいたらすいませんorz こ、この話の時点じゃ……二人はくっつかない代わりに互いに強くなる、という終わりなので……す。 |