剣は愛を語れず





  【14】




 部屋の中は、まるで、つい今さっきまでの光景が嘘だったかのような静寂に満たされていた。
 ベッドの上に投げ出されたシーグルは、天井を見つめたまま、ただ涙を流していた。
 セイネリアはベッドに座って、自分の服を身に付けていた。

「――どれだけ蔑まされても……」

 セイネリアの抑揚の無い声が、ベッドの上のシーグルを見る事なく紡がれる。

「……どれだけ最低の存在に堕ちたとしても、生きて動けるならそれを覆せる可能性はある。踏みつけられ泥水をすすってでも、自分の心が折れなければ、いつか自分を踏みつけた連中を逆に踏みつける側の立場になれる可能性がある」

 服を調え、立ち上がったセイネリアは、未だぴくりとも動かないシーグルを見下ろした。

「お前は、まだ動く体があるのに全てを捨てるのか? まだ剣を持てるのに、剣を投げ出して殺されたいと願うのか? それが騎士としてのお前の在り方か?」

 シーグルの瞳が大きく開かれて、セイネリアの顔を見る。
 瞳から流れる涙だけは止まる事なく、けれども、深く澄んだ青い瞳はハッキリとクリアな視線をセイネリアに向けている。

「お前がその程度の人間だというなら――」

 表情を変えぬまま、セイネリアの口が一度閉じ掛ける。ほんの一瞬その口元に浮かんだ迷いを、だがシーグルが気づく事はない。




「俺は、お前など、いらない」




 言うと同時に、セイネリアは彼に背を向ける。
 ばさりと、黒いマントがその背を隠す。
 
「……今のお前は、俺が壊してやる意味も価値もない。自分の始末くらい自分でつけるんだな」

 すべてを言い切った後、震える唇を強く噛み締めて。
 彼の体温を求める掌をきつく握りしめ、打ちひしがれる愛しい者を抱き締めたいと願う心を殺して、セイネリアは彼から離れる。
 その琥珀の瞳に、再び何よりも欲しい存在の姿を映す事さえなく、セイネリアは部屋を出て行く。










 セイネリアが寝室を出ると、隣接する執務室には、恐らくずっといただろうカリンが待っていて主に頭を下げた。
 彼女は、主の顔を見て何か言いかけ、そして口を閉じて下を向いた。

「カリン」
「はい」

 名を呼べば心配そうに見上げてくるその黒い瞳を見て、セイネリアは唇に自嘲を乗せる。今更彼女の前で取り繕っても仕方ないだろうとは思いながらも、セイネリアがセイネリアである為には、部下の前で崩れる訳にはいかなかった。

「シーグルに体を拭かせる用意をしてやれ。暫くしたら迎えが来るだろう」

 それだけを告げて、彼は忠実な部下の前を通り過ぎると、廊下に出る扉へと向かう。

「どちらへ?」

 思わず聞き返した彼女の声に、セイネリアは足を止める。

「暫く、西館の方にいる。あいつが行ったら部屋を片付けておいてくれ、悪いがな」

 それで部屋を出て行こうとする彼の背に、カリンは思い切って声を掛けた。

「待ってください」

 セイネリアは動かない。
 その声に振り向きもしない。
 だが、誰よりも強い男の背は、今、あまりにも痛みに満ちていた。

「本当に、シーグル様をこのまま帰して良いのですか? 本当に、このままで……これでは、余りにも……貴方が」
「カリン」

 言葉を止める、彼の声は強い。
 黒に覆われた長身、誰よりも強い男は確かにしっかりと背を伸ばし前を向き、この男らしく堂々と力強く足を地につけて立っている。その後姿には、痛みはあっても弱さはない。
 けれども、きつく握り締められた彼の拳は震えている。
 その拳だけは、彼の後悔、心を残してきたものがある事を知らせるように。

 カリンはそれ以上、何も言えずに主の背に頭を下げた。
 セイネリアもまた、それ以上何も言わずに部屋を出た。









 シーグルは泣いていた。
 まだ、流す涙が残っていたのかと、呆然とそんな事を思いながら。

 ――俺は、最低の愚か者だ。

 守れなかったなけなしのプライド。
 無力で、惨めで、無様な自分。
 所詮祖父の操り人形でしか無かったとしても、自分の意志で動くのだと、その意志だけを守ってきたのに。
 全てを壊されて、自分の中の何も守れなくて、何も残っていない。
 そんな自分が嫌で、全てを投げ出した。

 ――結局、ここへ来たのは甘えなのだ。

 今度こそ本当にあの男に見放されても当然だ。
 それでも、結局はまた、あの男に助けられたのも事実だった。
 結果だけを見れば今回の件も、ヴィド卿に脅される事になったのを、セイネリアの力でどうにかして貰っただけの事だ。

 何故、ここに来たのか、と自分に問う。

 ヴィド卿の屋敷。あの部屋で全てが終った後、治療をされ、体を丁寧に洗われ、自分が身に付けていた物一式は全て汚れを拭われて出てきた。見ただけではあれが嘘だったのではないのかと思う程に、いつも通りの変わらぬ姿に戻された。それはつまり、誇りを持ったままでいたいのならば自害しろと、その為に体の跡を消し去っておいてやったのだと、ヴィド卿からそういう意味での貴族としての情けを掛けられたのだとシーグルは理解した。
 そして即座に、これ以上生き恥を晒してヴィド卿の犬に成り下がるくらいなら、意志を曲げぬまま、立場だけは誇りを保ったまま死んだ方がいいと思った。

 けれども、その時に思い出したのだ。
 愛している、と言ったセイネリアの声を、抱きしめてくれた彼の体温を。

 あれだけの男が自分に言ったその言葉の重さを考えたら、自分で自分が殺せなくなってしまった。
 だから、全てを彼にやってしまおうと思ったのだ。
 いらなくなった自分を、ならばせめて欲しいのだと言ってくれた彼にやってしまおうと思った。
 心を殺して、廃人になってしまえば、ヴィド卿は何もしないだろう。
 死ぬのも壊れるのも、シーグル自身にとっては違いはなかった。
 愛している、と言った彼にこの身を渡せると思えば心が軽くなった。

 けれどもそれは、なんと身勝手で愚かな考えだったのだろう。

 セイネリアに見放されても当然だった。
 臆病で愚か過ぎる自分など、セイネリアにとっては意味のない存在だ。
 男達に抱かれて喘いだ無様な自分を受け入れたくなくて、逃げて、棄てたくて彼に縋った。自分で自分の価値を放棄したにも等しいこの身など、セイネリアが興味を無くしても当然だろう。
 シーグルの瞳からはただ、涙が流れる。
 何が哀しいのかも分からずに涙が止まらない。

「う……う、うぅ……」

 唇がわなないて、嗚咽が漏れて、胸を締め付けるこの感覚に耐え切れなくてシーツを手繰り寄せる。その中に顔を埋めて涙を拭えば、セイネリアの匂いが僅かに鼻を抜けた。
 シーグルは思い出す。
 泣いて縋った彼の胸の温もりを。
 力強い腕に抱かれて、思い切り泣いたあの時の事を。

 今、泣くシーグルを抱き締める腕はない。

 たった一人、あの時と同じ彼のベッドで、声を殺して嗚咽を漏らす。
 シーツを固く握り締め、歯を噛み締めて、ただ、この孤独に一人耐えなければならなかった。
 全ては自分の所為だから。
 弱い自分が悪いのだ、弱さに負けた自分が悪いのだ。
 だから、これは自分が耐えなければいけない事なのだと。








 その後、涙さえもが出尽くして放心していると、部屋にカリンが入ってきた。
 彼女は必要以上の事を言う事はなく、ただ、事務的にシーグルが体を拭く為の用意をし、シーグルの着ていた衣服や装備一式を置いて行った。
 それが暗に、ここを出て行けという事だと思ったシーグルは、全てを身につけ終えると部屋を出た。

「準備は宜しいでしょうか?」

 だから、部屋を出てすぐに彼女が待っていた事には何も驚かなかった。
 けれども、次に彼女が言った言葉は予想外で、シーグルを少なからず驚かせた。

「お迎えが来ております」

 セイネリアが祖父に連絡をしたのだろうか。
 シーグルは、シルバスピナの家からの馬車が来ていると思い込んだ。
 だから、迎えがいるという部屋に通された時、シーグルは青い瞳を大きく見開いて驚いた。

「シーグルっ、良かった、無事だな」

 急いで駆けてくるのはウィア。
 そしてその後ろから、ゆっくりと、安堵の笑みを浮かべて歩いてくるのは、間違いなく、彼の兄であるフェゼントの姿だった。

「なん、で……」

 それ以上は何も言えなかった。

「貴方を迎えにきました、シーグル」

 自分の姿を見た兄の顔は、10年前の幼い頃のように柔らかく微笑んでいた。






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セイネリアさん退場。次の出番はエピローグになります。
次回から最後までは、シーグルの報われる話が続きます。
後は安心してお読み下さい。


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