誰かの為の独奏(ソロ)




  【4】



「おはようございます」

 と、珍しく朝一番に執務室に入る前に会ったグスは、どこか難しい顔をしていて、シーグルもまた顔を顰めた。

「おはよう、どうしたんだ、グス?」

 聞けば彼は、じっと難しい顔でこちらを見つめた後、すたすたと目の前まで近づいてきて、シーグルは思わず身を引いた。
 更に彼は、身を乗り出してきて。

「少々、失礼します」

 と言って顔を近づけてくると、首元のところで鼻をすんすんと鳴らし、シーグルは驚いて首を手で押さえて後ずさった。

「何のつもりだ、グス」

 まさか彼に限ってヘンな事を考えているとは思っていないが、それでも昨夜の事もあって、妙に体が過剰反応してしまうのは仕方ない。
 グスはその場で深くまた頭を下げると、それからやはり難しい顔をして、シーグルの顔をじっと見つめるというよりも睨んでくる。

「本当に申し訳ありません。――実は、隊長は少し変わった匂いがする、という話を聞いたので確かめさせて頂いた次第です」
「匂い?」

 理由が分かったのはいいとしても、あまりにも意外なことを言われた為、シーグルはその場で顔を顰めたまま固まった。

「はい、ラナがそれで香水をつけているのかと思ったそうなんですが、それは違うと隊長が言ったという事で……」
「確かに、言った覚えはある。香水等、自分で何か匂いをつけたりはしていないが」
「えぇそれで、隊長の体臭なのではないかという話になりまして」

 シーグルはますます顔を顰める。
 屋敷に帰っている時は毎日湯浴みをしているし、何か匂うのだろうかと考えてから、昨日は湯浴みの後にそういう事をしたから、匂うかもしれないと自分の手を思わず嗅いだりしてしまう。……冷静に考えれば、本当に体臭の場合、ずっと嗅いでいる自分の匂いがおかしいと分かる筈はないのだが。

「いえその、体臭という言い方はよくないですな。誰も臭いなどとは言っていません。なにかそのいい匂いがする、という事で、俺も確認させて頂いただけです」
「それで、どうだったんだ?」
「あぁ、成程と」
「匂いがしたのか?」
「えぇまぁ、本当に微かなんですけどね」

 シーグルは再び腕や手の匂いを嗅いでみた。……やはり分かる筈はないのだが。

「何か少し甘い香りというか……ラナがいうところの瑠璃香鳥の香水に似ているそうなのですが」
「思い当たるものはないな」

 貴族らしい見た目と違って中身は生粋の武人であるシーグルは、香水など、そちらの方面に関して詳しい筈はなかった。ただ冒険者として、その鳥の名は知識として知ってはいた。
 確かに、その鳥を捕まえれば、羽もくちばしも爪も高く売れるとかで、それ狙い専門の冒険者は結構いるらしいとは聞いていた。生息地が特殊な為、その鳥狙いでなければ出会う事もないから、シーグルは見たことがなかったが。

「瑠璃香鳥に関する何かが屋敷にある事もないし……匂いがするようなもので毎日使っているものといえば、錆止めの油とかだろうが、甘い匂いではないと思う」
「えぇまぁ、それなら分かりますから」

 まったく、時折色気をだしまくっているくせに、日常生活に色気の欠片もない人だから……としみじみグスが思っていた事はいいとして、シーグルはやはり気になって自分の匂いを嗅いでみていた。

「とりあえず、納得は出来ました。ですから隊長は、むやみと首元とか胸元とか、匂いが嗅ぎやすいところに人を近づけないようにしてください」
「……当たり前だ。そんなところにそうそう人を近づかせるか」
「そうしてください。絶対ですよ」

 念を押してグスはまた礼を一つすると去っていく。
 シーグルは朝から複雑な顔をして、去っていくグスの姿を暫く見ていた。







 さて、朝からシーグルに複雑な顔をさせたのは、実はグスだけでは終わらなかった。
 いつも通り、朝の挨拶だけはどうにかして顔を出していくシーグルは、それが終わった後、会議室へ行く前にサッシャンに引きとめられた。

「申し訳ありません、隊長殿、少しだけお伺いしたい事があるのですが、お時間よろしいでしょうか?」

 ころっとした体系の青年は、やはりころっとした丸い目を向けてきて、少なくともそれに悪意がまったくないのは分かる。

「なんだ? 短く済む話なら問題ないが」

 そうすれば彼は、筒状に丸めていた紙をばっと開いて、シーグルに向けて見せた。

「これは本当に、隊長殿の兄上なんでしょうか?」

 シーグルは目の前に広げられたそれを見て固まった。
 深い青の瞳を大きく見開いて、その絵をただじっと見つめた。

「どうでしょうか? あの、グス殿がこの絵を見て、兄上のフェゼント様だと言ったのですがっ」

 フェゼントの名を聞いて、シーグルの一瞬どこかへ飛んでいた意識が帰ってくる。

「あ……あぁ、確かにこれは兄のフェゼントだ」

 言えばサッシャンは、気の抜けたような、安堵したような、やはり複雑な顔をして絵を持っていた手を下げた。
 シーグルは反射的にそれを止めようとしかけて、サッシャンに向けて口を開いたが、上手く言葉がまとめられなくて考える。しかも、あまりここで長々と話していれば、会議の始まる時間になってしまう事にも気づいて、どうするかと思った末に彼に言った。

「サッシャン、悪いんだが、後で話があるんだ。その絵の事で」
「はい?」

 少し焦った様子でシーグルがそう言った事で、丸い目をまた丸々と見開いて、サッシャンは間の抜けた声で答える。

「もしかしたら今日は、会議が時間内に終わらないかもしれない。その場合は明日で。急ぎではないからわざわざ終わるまでこちらを待ってくれる必要はないが、その絵を破棄したりはしないでくれ」

 それだけを早口で言って、サッシャンに別れを告げると、シーグルは急ぎ足で会議室に向かった。

「え、あ……どうしたんでしょう」

 部下の前では冷静なシーグルの妙に焦った様子に、サッシャンは首を傾げる。
 とはいえ、彼は別にその事を誰かに話したりはしなかったので、それが妙な噂話に発展したりする――という事にはならずに済んだのだが。







「どうしたんですか、ぎりぎりなんてらしくない」

 どうにか会議が始まる前に会議室に入る事が出来たシーグルは、席を取って置いてくれたエルクアに礼を言って、その席に座ると大きく息をついた。

「少し、隊の者と話をしていたんです」
「私はてっきり、とうとう何か『用事』を思いついて欠席されるのかと」

 くすくすと笑うエルクアに、シーグルは苦笑する。

「えぇまぁ、いい加減そうしたくもあったんですが」

 それでもやはり、他の貴族騎士のように『サボる』というのはシーグルの性格上出来なかった。与えられた仕事をこなさないで現状に文句を言う資格はない、というのがシーグルの意地というか自分の中で決めている部分だからだ。

「なんだか今日は、朝からいろいろあって予定がズレたんです」
「シーグル殿は部下にモテますからね」
「……もてる、と言う言葉はこういう場合は違うのでは……」
「このところ隊に顔を出していなかったら、寂しがって部下に引きとめられたんじゃないですか」
「いや、寂しがって、というのとは違います」

 妙に楽しそうに言ってくるエルクアに、シーグルは微妙に顔を引き攣らせる。
 席に着いたものの、会議が始まるのは順調に遅れそうな事もあって、シーグルは少し考えたものの、彼にグスから言われた事を話してみることにした。

「実は、どうやら私は変わった匂いがする、と言われまして」
「匂いですか?」
「えぇ、私自身は分からないのですが、どうやら香水に似た甘い匂いがするとかで」
「あぁ、気付いてなかったのですか?」

 その彼の返しには、シーグルはかなり驚いた。
 エルクアは確かにこういう席ではよく隣になるし、同じ立場として相談……というか愚痴を言うような仲ではあるものの、そこまで近しい相手という事はない筈だった。グスが言っていたような、匂いがわかりやすい場所を嗅げる程近づく事はそうそうにない相手で、だから彼がそんな事を知っているとは思わなかった。

 もしかして、自分が思っている以上に、匂いは強いものなのだろうか。

 自分がわからない程度なのだからそこまで強い匂いではないのだろう、と勝手に思っていたシーグルは、正直かなり落ち込んだ。
 それはエルクア側にも分かったらしく、彼は彼でシーグルの落ち込みぶりに驚いて、急いで言葉を付け足した。

「あぁその、私も聞いたんですよ。それで、本当かなと近付く機会があった時に、失礼ですが確かめさせて頂いたんです。あの……意識して嗅ごうとしたりしなければ、本当に体が触れるくらい近くに行かないと気付かないくらいの匂いですよ。えぇ、そんなに気にするものではないと思います」
「そう、ですか……」

 それでもシーグルにとっては、意外な人物まで知っているという事実もまた問題であった。グスの話ようだと、ラナ以外にも部下達の間ではそれなりに知っている者がいそうだし、エルクアが知っているとなれば、どの辺りまで広がっているのだろうと。
 これからは、人との接触にももっと注意したほうがいいかもしれない。

 そんな事を考えて悩んでいた所為か、幸い(?)、その日の下らない会議の間、シーグルは暇を持て余さずに済んだのだった。






 午前の会議は遅れて始まった割に、珍しくも午後は順調に予定が消化され、その日シーグルが解放されたのは、隊の解散時間より僅かに早い時間だった。
 それでぎりぎり解散時の夕礼をしているところに間に合ったシーグルは、それが終った後、約束通りサッシャンに話があると、彼をつれて執務室にまで戻ってきた。

「この絵が、欲しいのですか?」

 絵の事で話がある、更には絵を処分しないでくれと言っていた所為で、サッシャンはわざわざ絵を持ってやってきていた。

「あぁ、だめだろうか?」
「また、何故?」
「……出来ればあまり言いたい話ではないのだが」
「? ……いやまぁ、ならよろしいですが」

 きょろりとした丸い目をまたまるまると広げて、本当に不思議そうにしながらも、シャッシェンはあっさりとシーグルに絵を渡す。
 シーグルは筒のままもらった絵を広げて確認すると、普段表情の乏しいその顔を、嬉しそうに僅かに緩めた。
 だが、すぐにそんな自分を凝視しているサャッシェンの視線に気がついて表情を引き締めると、紙をまた筒に丸めてから姿勢を正した。

「ありがとう。だが、さすがにただとは言わない。何か代わりの礼をしようと思うんだが……」

 だが、そう言いかけたシーグルの言葉は、満面の笑顔のサッシャンの返事で途中までしか言う事が出来なくなった。

「なら、隊長殿の絵を描かせて下さい」

 にこにこと本気で嬉しそうなサッシャンの笑顔を受けて、シーグルは本気で困る。

「いやそれは……それだけの時間が……ある、か、難しいんだが……」

 どうにか別の礼に出来ないかと考えるシーグルの思惑を分からないのか……いや、それとも分かっていてわざとなのか、そこでお気楽なシーグル付き文官の魔法使いの横やりが入った。

「いーじゃないですかぁ、ここで貴方が書類仕事してる時にでも描いてもらえばぁ。だぁいじょうぶですよー、ここでなら暇な時に多少サボってても文句言う人もいませんしぃ。何せ隊長さん達の中には、ご自分で仕事中絵を描いてる方もいるくらいですしねぇ」

 その余分な横やりのせいで更に断れなくなったシーグルは、とりあえず、考えておくという言葉で返事を後に回すしかなかった。






 そこから更に数刻後。
 今度は執務室の外、廊下の一角で、シーグルはグスと話をしていた。勿論、この冬場に、わざわざ部屋の外で話していたのは、今回は余計な横やりを入れてくる魔法使いの青年に茶化されないためだった。

「なるほど、話の流れは分かりましたがね、どうしてそんなに絵を描かれたくないんですか?」

 笑いながら言うグスの言葉に、シーグルは本気で困ったように眉を寄せた。

「今までずっとそういう連中は一律で断ってきたんだ。例外を作ると、今まで断った者に申し訳ないし、次に断れなくなる」
「そりゃまぁ……筋は通ってますが……本当に貴方は真面目なんですなぁ」

 言いながらまた、グスは声を出してまで笑う。

「そんなおかしい事か?」

 だからそう抗議の目を向ければ、今度はその笑みを微笑みに変えて、この年長騎士はシーグルに父親のような顔を向けてくる。

「貴方の立場を考えれば、自分より地位の低い者にそこまで気を使うのがまずないですね。別に気分で嫌なら断ればいいだけの話、で終わりますからね」
「一応向こうは好意的に頼んできている訳だから……あまり無下に断るのも悪い、じゃないか」

 そこでまた、グスはクスリと笑みを漏らす。

「本当に貴方は、自分に好意的なモンには弱いんですねぇ。その見た目からすりゃ、好意なんて慣れすぎてて当然ってぇ性格になってても不思議じゃないんですが……」

 それにはシーグルも口ごもる。
 実のところ、冒険者になるまで、シーグルに対する周りの態度といえば、腫れ物に触るように慎重にか、出来るだけ関わらないようにかのほぼどちらかばかりで、後はただひたすら厳しい祖父がいるだけだった。
 だから実際のところ、シーグルは人の好意に慣れていないのだ。
 そのせいで冒険者になった当時は、下心のある連中にひっかかりそうになった事が多かったというのもあるのだが。もっとも騎士になって最初に、人の好意を簡単に信用してはいけない、という典型的な目にあった所為で、そちら方面狙いの連中には特に慎重にはなったが。

「ともかく、それはそれって事で。まぁ今回は、どうやって断ろうかって話なわけですね……」

 顎をさすって考えていたグスは、難しそうに顔を顰めた後、すぐに何か思いついたのかその眉間の皺が消える。

「んー……断るんじゃなくてですね、受けざる得なかった理由をちゃんと作るって方向はどうでしょうかね?」
「どういう事だ?」

 頭を疑問だらけにしてシーグルが聞き返せば、グスはにやっと人の悪そうな笑みを浮かべた。





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ちなみにシーグル、兄弟との和解前はもっときつくて無口でとっつき難くみえた為、立場的なこともあって、相当声を掛け難いタイプでした。
なんで、実際は好意的な人間はもっといたのに、声掛けてくる人間は少なかった、と。
今は兄弟と仲良く暮らしている所為もあって、かなり普段纏ってる雰囲気から角が取れました。



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