【5】 昼の休憩時間になって、シーグルは自分の執務室に戻った。 そして、戻った途端にこやかに迎えた二つの顔に、思わずドアを開けたまま中に入れずにその場で立ち止まってしまった。 「お疲れさまです〜シーグル様」 「お疲れさまです、シーグル」 一人は勿論、午前中ずっとここで仕事をしていたキールであるが、もう一人はここにいる筈がない人物である。 「兄さん、何故ここに……」 だが呟いてからシーグルは、今日は兄が昼を届けにくると言っていたのを思い出した。 「少し早く来てしまったので、人に聞いたらこちらで待っているように言われました」 「いやぁ、おにーさんには、昨日シーグル様に昼食を抜かせてしまったことを怒られてしまいましてねぇ。大丈夫です、今度から時間を忘れませんので」 それに、お願いします、とフェゼントが笑顔でキールに言った後、キールが調子よく返事をして、二人して会釈を交わしている。 ……正直、シーグルにとっては頭が痛い。 昨日、昼食を抜いてしまったのも、そもそもは事故なのだ。 キールがいれてくれたお茶を飲んだ後、暫くして酷い眠気を感じたシーグルはその内寝てしまっていた。起きた時には既にかなり日が傾いた時刻で、キールが必死に謝っていたことを思い出す。 彼の言い分によると――茶を入れるのにとっておきのブレンドをしたら、どうやらリラックス効果がある成分が効き過ぎたらしい、という事らしい。 だが、そんな強い効果のものをそもそも茶になど使うな、とシーグルが言ったところ、彼は罪悪感もない笑顔でこう返したのだ。 『いやぁ、だめですねぇ、自分に合わせて配合しちゃったのが失敗だったようです。これでも減らした筈なんですよぉ。私なんかあの程度じゃまったく効かなくて、普段はもっと濃くいれるんですけどねぇ』 『それは……お前が飲みなれている所為じゃないのか?』 『あぁ確かにそうなんでしょうねぇ。確かに同じものをずっと摂取していれば、効きが悪くなるのは道理です。……あぁそういえば、もしかしてシーグル様は酒を飲まない方なんじゃないですか? こーゆー成分はですねぇ、普段から酒を結構飲む人だと効きが悪くてですねぇ、逆いやぁ飲まない人は効き易いんですよねぇ』 自分が極端に酒に弱いという自覚がある分、シーグルもそれ以上追求する事をやめた。つまり彼のいうところによれば、自分基準で成分を濃くしてしまった事に加え、シーグルの体質的に効きが良かった、という2重の理由で予想以上の効果が出てしまったという事だった。 とりあえず、彼自身反省し、シーグルが寝ている間にかなりの書類を整理して仕事を減らしてくれていたという事で、この件に関しては特に罰したりはしない事にした。 ただ流石に、以後の茶はそこまで特殊な成分を入れなくていいから普通のハーブ茶くらいにするように、という事だけは重々言っておいたのだが。 後は他にも、シーグルが出来るだけ訓練に参加できるよう予めキールが仕事を整理しておいて、極力シーグル本人が事務仕事をしなくて済むように協力する、という事で話がついた。 さて、困った事になったと思いながらも、シーグルは自分の椅子に座って、目の前に置かれた書類に目をやる。 「キール、手間のかかりそうな件はあったか?」 考え事をしながらも、目の前に仕事があれば反射的に手が伸びるのがシーグルの真面目すぎるところである。 「あーそうですねぇ、やっぱり午後は少しこっちで仕事してもらえませんかねぇ。今はまだ前の方が残してかれたモンと新規の手続き関係が多くてですねぇ……」 「やっぱりそうか……」 「あぁでも、午後一杯までは必要ないと思いますんで、午後一は向こうに出てですねぇ、中間の休息時間からこっちに戻って貰うって事でどうですかね」 「ではそうしよう、後、こちらのスケジュールは……」 と、話している内に、シーグルは刺さるような視線を感じて顔を上げた。 そして、笑顔なのに目が笑っていない、このまま無視したら後がいろいろと怖いフェゼントと目が合ってしまった。 「シーグル。お昼です」 「あぁ――うん」 そうなれば、今まさに封を開けようとしていた文書をそのまま山の中に戻すしかない。 「では、準備しますね。キールさんはお茶をいれてきてもらえますか?」 「はいはいっ、了解です〜」 見ている間に、シーグルの目の前に食事の準備が出来上がっていく。 一緒に生活してみて感心した事だが、兄はこの手の事に関して、専門である使用人達以上といえる程本当に手際がいい。 「はい、サンドイッチは、これくらい……なら、食べられますね?」 少し心配そうに、フェゼントはそう聞いてくる。 前に比べて食べられるようになったとはいえ、シーグルが歳相応の男としては食が細い事は変わらない。最初はその加減が分からなかった兄も、最近は大体シーグルの食事量を把握して、その上で少しづつ量を増やして行っているようだった。 兄が自分に食べさせる為に、相当に気を使って考えてくれているのが分かるから、シーグルは食事に関して兄には何も言う事が出来ない。ただそれは、昔のように祖父に監視されながら無理矢理食べようとしていたのとは違って苦痛を感じるものではなく、照れくささと申し訳なさが入り混じったような……どこかくすぐったいような、それでも胸が温かくなる感覚であった。 その証拠に、目の前に広げられた食べ物を見て、素直に美味そうだと思える。 だが、そうして表情を綻ばせたシーグルは、ふと思いついた事に、顔を上げて兄の顔を見た。 「そういえば、兄さんは、昼食は?」 「準備はしてきてありますので、帰ったら食べます」 それは予想通りの返事であったから、シーグルは申し訳なくなる。 兄が自分を気遣ってくれるのは嬉しいが、その所為で彼が犠牲にするものがある事をシーグルは望まない。 「ごめん……」 だから思わず顔を俯かせてしまえば、フェゼントはそんなシーグルの様子が可笑しいのか、くすりと笑みを漏らした。 「私は大丈夫ですよ。待たせてしまう二人には、その為につまみ食いを見逃しましたからね」 それを聞けば、シーグルも唇に笑みを作る。 彼の料理中に、二人が仲悪く(?)、つまみ食いをしている光景が目に見えるようだった。 「さて、では私は帰りますね。それくらいはちゃんと残さず食べてください。いいですね」 そうしてフェゼントは、帰ってきたキールと入れ替わるように部屋を出て行った。 「いやいや、お兄さまは可愛いらしい方ですね」 キールの言葉には苦笑しか返せなくて、いう言葉に困りながらも、シーグルは丁度今彼が持ってきてくれた茶に礼をして口をつける。 けれどもふと、いつもマイペースな魔法使いの文官の顔を見ればなんだか意味ありげな笑みを浮かべていて、シーグルは食べ始めようとしていたその手を止めた。 「何かあるのか?」 聞けば彼は肩をあげてまで、くくく、と不気味な笑いを返す。 「いやぁ、受付からここまで、お兄さまあの外見ですからねぇ、どうも女性と間違ったモンが結構いたらしくてですねぇ。で、まぁ、それでシーグル様を探してた訳ですから……ねぇ?」 兄が女性に見える、という事に関しては、身内ながら否定出来なくて、そういう者もいただろうとシーグルも思う。だが、キールの言いたい事は今一つ理解できなくて、シーグルはただ眉を寄せるしかない。 「いやぁ、ですから、女性がシーグル様を探しにきたって誤解した連中がですね、シーグル様と特別な関係の女性が騎士団までやってきたーとか、そういう噂話を流してる可能性があるんじゃないかなーと」 ……そういう事か。 シーグルは思わず眉間を押さえる。 自分がその手の事に鈍感だというのはわかっているが、それでもそこに思い至らなかったのは我ながら馬鹿だとは思う。 とはいえ、終わった事に気を病んでも仕方がない。ヘンな事を言い出す者がいれば正せばいいだけである。と、そう思う事にして、シーグルは嫌な予感を頭から消し去る。 こんな事で考え出したら、また食べる気がなくなる。兄の作ったものを食べずに残すなど、今のシーグルとっては絶対に出来ない事であった。 しかし、思っている以上に、騎士団というところでは噂話というものの及ぼす影響は大きい、という事をその後すぐにシーグルは実感する事になる。 午後の訓練が始まってすぐ、皆の妙な視線を感じたシーグルは、最初はそれが何だろうと疑問に思って、そして直後にそれに思い至って頭の痛い思いをする事になった。 いかにも『聞きたい事がある』といった彼らの顔に、だがシーグルはどうすべきかと思う。 わざわざ自分から言う程の事でもないし、そもそもプライベートを話す必要はない。だから今は放っておいて、後で聞かれたり、噂が余りよくないものなようなら言えばいいと思ったシーグルだったが、実際訓練が始まるに至ってはその結論を覆す事になる。 明らかに隊員達の集中が欠けていて、じろじろと、午前中とは違う意味で視線がシーグルに集まっている。 これではマトモに訓練にならないと思ったシーグルは、だから諦めて隊員達に向かって言った。 何が聞きたい事があるなら聞け――と。 途端。 顔を見合わせた隊員達は、一瞬ざわつく。 だがすぐに一人が手を上げて発言した。 「隊長殿は、婚約してらっしゃるのでしょうか?」 「……いや、まだだが」 ざわり、と皆がまたざわつく。 発言としては、別段おかしいことはいっていない筈だとシーグルは思う。否定はしても恐らくそろそろ婚約はする事にはなるとは思うし、相手に関してはシーグルはまだ知らなくても、祖父が既に決めているかもしれない。 「その、隊長殿のお知り合いが昼に騎士団へいらしたという事ですが……」 「あぁ、そうだ」 再びざわめき。 だが流石にシーグルも、彼らの聞き方が遠回りすぎて、このままでは曲解をされかねない事に気付いた。 ざわつきながら、次は誰が聞くべきか互いに困っている様子の隊員達に、だからシーグルは言ってやる。 「昼に来たのは俺の兄だ、それで、他にまだ聞きたい事はあるか?」 直後、彼らは静かになる。それから2呼吸分の間があいて、今までで一番大きなざわめき、というよりどよめきが起こった。 「え? 俺女性だって聞きましたよ?!」 「まーたマニクの早とちりか」 「セリスク、お前も見たよな? な、女性だったろ?」 「おーし、賭けは俺の勝ちだな」 「テスタ、お前の予想は姉か妹だろ、賭けは無効だ」 溜め息をつきたい気分で彼らをながめていると、再び手を上げている人物をシーグルは見つける。 「なんだ、セリスク、まだ質問があるのか?」 「はい、あの……本当に兄上、なんですか? 姉でも妹でもなく……」 シーグルは肩から力を無くしながら答えた。 「兄だ。間違えたのは……仕方ないが」 質問自体の内容の無礼さは、この際、あえて無視をする事にする。初対面なら仕方がない、とシーグルにも思うところがある分責めるのは気の毒な気がしたからだ。 他の者達も今の二人の会話である程度を察したらしく、少なくとも間違えて報告をしたらしいセリスクとマニクを責める声は無くなったようだった。 代わりその後、別のざわめきが彼らの間で起こったものの、グスの一言でその話も終わりになる。 「ま、隊長の兄上だってんだから、そりゃー美人さんだろうしな」 だから間違っても仕方ない、と続いた言葉に各自が納得した様子をみて、シーグルは複雑な思いで溜め息をついた。 と、そんな時。 ここに一人、シーグルに声を掛けるべきかどうか迷いまくって苦悩している男がいた。 「うあぁぁあああ、ヤバイどーしよ、あいつだよ、そーだシーグルって名前だし、あの女の子みたいなにーちゃんも間違いないし絶対あいつだ。てか何で貴族様なんだ? 俺の事覚えてっかなぁ……覚えてなかったらなんだこいつって顔で見られるよな、貴族様だしな……」 本来、悩む前に当たってくだけろが身上のこの男にとって、いくら考えてもいい答えが見つかる筈もない。 いや、逆に言えば結論は最初から出ているのである。 この男にとっては最初から、声を掛けて玉砕するか天国に舞い上がるか以外の道はないのであって、厳密には声を掛けるかどうかを迷っているというよりはどのタイミングで声を掛けるべきかを迷っている、と言った方が正しい。 「てか反則だよな……なんだよガキの頃のまま美人になっちまいやがって……うあーどうしたらいいんだーーーー」 当のシーグルが全く知らないところで悩む男は、このところこの所為で寝不足であった。 --------------------------------------------- 最後に出て来た登場人物が、この騎士団編ではかなり出番が多くなる(予定)の人です。 既に分かってる人にはアノ人だよーって人ですが。 このエピソードは、2回くらいで終るんじゃないかな。 |