記憶の遁走曲




  【15】




「油断したのはお前の方だ、俺が大人しくお前に犯されるのを待ってるとでも思ったのか?」

 冷たいシーグルの言葉も、だがアウドにはまともに聞いている余裕がない。興奮に膨らんだ男性器に膝蹴りをくらうという状況は、男として、その痛みはまさに言葉通り地獄の苦しみである。顔からはだらだらと油汗が流れ、恥も外聞もなく体を小さく丸めてのたうち転がるだけしか出来ない。

「自業自得だ、暫く転がって反省していろ」

 そんなアウドを冷やかに見下ろし、シーグルは起き上がって、乱れきった服を直す。
 汚れを払い、服の様子を確認し、一息ついたところでまた見れば、痛みは大分収まったのか、アウドは背を丸めて股間を押さえる姿のまま、のたうち回るのを止めていた。

「惨めだな」

 シーグルがその背に向けて呟けば、アウドが動かないまま、感情のない声で返す。

「……あぁ、惨めだ。……惨めで、無様で、本当に最低だ」

 平坦な声は、それでも最後は震えて自嘲の笑い声へ変わっていく。
 シーグルは、震える男のその背中をじっと見ていた。

「途中で止めて貰った事に感謝しろ、俺も、ここまでならまだ許してやる気になれる」

 体の痛みが去った分、自分の愚かさに打ちひしがれていたアウドは、そのシーグルの言葉に驚いて顔だけを上げた。

「あんた……まさか、ここまでやった俺をまだ許せるっていうんですか?」

 シーグルの顔は厳しく、見下ろす瞳は冷たいものの、その雰囲気から怒りはない。

「それはお前の返答次第だ。お前に許してやるだけの価値がないなら、貴族院へ報告でも、騎士団の規律違反としてでも、どちらでも好きな方で処分してやる」

 背筋を真っ直ぐと伸ばし見下ろしてくるシーグルの顔は、体の影になっていて暗いものの、そのどこまでも曇りない青の瞳だけはアウドにははっきりと見えた。

「質問に答えろ、アウド。どうして、ヴィド卿の部下である事を自ら辞めた」

 アウドはじっとシーグルの顔を見つめ、そして軽く笑うと、視線を外して顔を前へ戻す。シーグルが彼の背中だけを見つめる中、アウドは暗い地面を見つめて静かに話し出した。

「ヴィド卿直下の近衛兵ていうのは……聞こえはいいが、なってみれば、ヴィド卿の公に出来ない汚れ仕事専用のただの捨て駒だったんですよ。汚れ仕事を行う代わり、あんたを犯した時みたく、汚れ仕事だからこその美味い思いをさせて手なずけておく……っていうね」

 最初は勿論、アウドは事実を知って落胆した。
 それでも、ヴィド卿には期待していると言われ、実力が認められた事は確かなのだと彼は自分に思いこませた。

「権力者など皆同じ事をしている、やらなければやられるのだから奇麗事など言えないって、そう自分に思い込ませてた。……だけど、魔女の片棒を担いで、あんたを皆でなぶってて……ぶっこわれてくあんたを見てたら、俺は何やってんだって思ったんですよ」

 周りに染まり掛けていたアウドは、皆と一緒になって夢中でシーグルを犯した。だが、余りにも必死に、自分を保とうとしながらも縋りきれず、ただ絶望に落ちていくシーグルの姿を見ていたら、頭の熱が去っていってしまったのだ。
 途中からは見ていられなくなって、外の警備をしている者と入れ代わった。とにかく声さえ聞きたくなくて、アウドは逃げるように部屋を出た。

「俺だってあんたの事は多少は知ってた。シルバスピナの名は騎士団の現状を愚痴ってたやつらの間じゃ有名でしたしね。……俺が団で尊敬してたような連中は、あんたが騎士団にくるのを皆楽しみにしてたんだ。そのあんたをぶっこわして、それでヴィド卿の下でえばってて何の意味があるんだって。俺はこんな事をしたかった筈じゃないって、自分がやってた事全部がばかばかしくなって……だから、辞めたんですよ」

 辞めるのは思ったよりも簡単だった。口封じの必要は最初からなかったからだ。何せ、ヴィド卿を貶めようとやってきた事を話せば、アウドの方がまず裁かれる事になる。ヴィド卿以上に、アウドは重い罪に問われる事になる。しかも、ヴィド卿の絶大な権力を持ってすれば、全部の罪をアウドのせいにして事実をねじ曲げる事だって簡単だろう。
 だから辞めると言った時、ヴィド卿は口ばかりで、残念だ、と言った後、ここでの仕事を外で話したらどうなるかは分かっているな、とそれだけを確認してあっさり了承したのだ。
 もしかしたら、あの用心深いヴィド卿なら、その後アウドを始末してしまうつもりだった可能性はある。そうならなかったのは直後に彼が失脚したからで、運が良かっただけの話かもしれない。
 今となっては、それは誰にも分からない。だが、助かったとはいっても、セイネリアに自分の存在がバレるのではと思えば気が気ではなかったし、元仲間達からはあまりにもいいタイミングでアウドが辞めた事で、彼がセイネリアの手引きをしたのではないかと疑いの目を向けられる事になった。もちろんそれはヴィド卿の残った忠実な部下達からも同様で、彼は何時、何に狙われるかと常にびくびくする立場になった。
 だから、下手に逃げて、人知れず始末されるのを防ぐ為に、アウドは騎士団に戻ったのだ。アウドには家族がいない、死んでも誰にも気付かれない。だが騎士団に所属していれば、任期中は勿論安全な騎士団にいられるし、任期外でも希望すれば地方警備に飛ばしてもらって居場所を確保出来る。それに、逃げない事で、裏切ってはいないと主張も出来る。
 結局、保身の為にここにいるだけで、かつて、騎士になる時に胸に抱いていた希望も、騎士団を辞めた時に思っていた『見返してやる』という決意も、どこにもなくなって消え失せてしまっていた。

「何もかもばかばかしくなって、自分って人間は無駄に生きてるだけだって分かってて、それでも人間ってのは死にたくないって思うもんでしてね……意味なく生きてるくせに助かりたくて、馬鹿にしてた予備扱いで騎士団に戻ったんですよ」
「死にたくない、と思える事は重要じゃないか」

 静かな、けれど強い声に、アウドの声は止まる。

「俺は、死にたいと思った」

 言うシーグルの声に怒りはなく、悲しみも、苦しみもなく。ただ淡々と静かに言う彼の声は穏やかとも言えるもので、だからこそ、自分達が犯して堕とした時の、あの絶望に閉ざされた瞳の彼を思い出してしまう。

「だから、壊してくれと、もしくは殺してくれとある人物に頼んだ。そうしたら、そんな俺は殺してやる価値もないと言われたんだ。あぁ、確かに、その通りだと思ったさ」

 彼の、その声の穏やかさは、それだけ今の彼はその時の感覚を引きずっていないという事なのだろう。苦しく、辛かった時を冷静に話せるという事は、それを彼が今乗り越えているという何よりの証拠だろう。

「死にたくない、と思えるというのは、まだ、諦めたくないと思っているからじゃないのか?」

 ほんの僅か、笑った気配を彼がさせて、アウドは、背を向けているから見えない筈の、おそらく今自分に向けられているだろう彼の笑みを思い描いて胸が痛くなる。痛くて、苦しくて、胸を手で強く押さえて、きつく閉じた瞳がじわじわと熱くなってくる感覚を耐えた。

「そんなの……単に死ぬのが怖いだけですよ。ただの臆病者の言い訳だ……」

 やっと絞り出した言葉は、まるで泣いているように震えていた。

「お前は騎士だろう、若い時は死人が出るような戦場にも何度か参加していた。死ぬかもしれない戦地へは行けるのに、死ぬのが怖いと思ったのか?」
「それはっ、戦場は別だッ、戦って死ぬならッ」

 振り向くように顔を上げて叫べば、シーグルの感情を消した、けれど強い瞳と目が合う。

「死ぬのは何処でも同じだ。死ぬ意味が違うだけだ。戦場には名誉や矜持があって、今のお前にはソレがないだけだ。……お前はただ、死ぬのが怖くて死にたくないんじゃない。今の自分のまま死にたくないんだ、惨めなまま死ぬのが怖いんだ」

 呆然と、美しい青年の、どこまでも強い深い青の瞳を見つめて、アウドは考える。自分はどうしてここにいるのか、どうしてこんなに彼の言葉に感情が揺れるのかと。

「まだ、諦めていないんだろう?」

 シーグルが、微かな笑みを口元に浮かべる。

「だから、俺に負けたのが悔しくてどうにかしようとしていたんだろう? お前が諦めない限りは終わりではない。生きてさえいれば、諦めない限りどうにでもなる可能性はある」

 青い瞳には曇りがなく、深海のように濃いその奥には、彼の強い意志と信念が宿っている。
 それが余りにも綺麗で、その中に惨めな自分の姿を映される事は、酷く恥ずかしく、申し訳ない事に思えた。だからアウドは、また彼の顔を見ていられなくなる。顔を背けて、彼にも、こんなみすぼらしい自分を見て欲しくないと願う。

「……全く、あんたは若いのに本当に大した人物ですね」

 アウドはシーグルに背を向けたまま、のろのろと起き上がり、まずは胡坐をかいてその場に座る。

「俺はあのとき、あんたの事を、もう終わりだって思いました。こいつはもう完全に壊れちまった、死んだも同然だと、そう思いました。だから、騎士団にあんたが入ってくるってのを聞いた時は、使い物にならなくなって廃人同然か、ぶっこわれておかしくなったあんたがくると思ってたんですよ。でも、あんたの前期での評判は上々で、俺はどうしても信じられなかった。なにせぶっこわした犯人の一人ですからね、あれは絶対に立ち直れないと思ってました。でも、あんたはちゃんとした騎士様として立ってた、絶対無理だと思ったのに、完全に、ちゃんと……」

 その彼を見た時の感情はなんといえばいいのだろう、とアウドは考える。最初はただ驚愕だった、それから感動して、尊敬して、そして嫉妬した。そう、最後に嫉妬したのだ、あれだけの目にあって、あれだけ壊れてしまったのに、誰も文句のつけようがない立派な騎士として在る彼の姿に。
 だから思った、あれは嘘ではないかと。見た目だけ、表面だけ誤魔化しているだけではないかと。

 よ、と掛け声を掛けてアウドは立ち上がる。
 そうしてやっと体毎シーグルの方に向き直ると、彼の顔を真っ直ぐ見返した。
 
「俺が団で最初にあんたを襲った時はですね、実は確かめたかったってのがあったんですよ。狂気を薄氷の中にかろうじて収めているだけか、それとも、本当に完全に立ち直ったのかをね」

 勿論、醜い色欲もあった。そしてもし、彼が狂気を隠しているだけなら、その狂気の部分を自分が支えて、立派なシルバスピナ卿である彼の一部になれればと思ったのだ。そうすれば、自分は最低の人間のままでも、彼が手に入れるだろう誇りと栄光の欠片くらいは感じられるのではないかと。
 嫉妬と、尊敬と、そして惨めな自分に対する馬鹿な希望が混じって、アウドはシーグルを襲った。

「それで、お前の答えは?」

 シーグルの声はそれでも穏やかだった。穏やかに聞いてくる彼の声に促されるまま、アウドは泣き笑いのような表情を浮かべて口を開いた。

「わざわざ聞くんですか? そんなの決まってるでしょう。あんたは完全に自分を取り戻してた、もう、誰の助けもいらなかった」

 だが、シーグルはそれに首を振る。
 穏やかだった彼の表情が、そこで酷く苦しそうに歪んでいく。

「俺は、誰の助けもいらないような完璧な人間じゃない。いつでも助けられて、それを返せないでいる。俺が今こうしていられるのだって、俺だけの力じゃない。いや、殆ど俺の力じゃないんだ……」
「それでも、あんたは今ここにこうしている。それはやっぱりあんた自身の力ですよ、次代シルバスピナ卿」

 シーグルは少しだけ驚いたように目を見開く。
 アウドはそこで、晴れやかな笑みを浮かべると、突然、その場に膝を付いた。

「シーグル・アゼル・リア・シルバスピナ、数々の非礼、そして私がかつて貴方にした事は到底許されるものではありません」

 アウドは自分の腰から剣を抜き、剣の向きを変え、シーグルに向けて柄を差し出す。

「どうぞ、貴方の気の済むように。貴方にはその権利も理由もある」

 シーグルは、その青い瞳を暫く見開いて、それから、ため息と共に眉間を押さえた。

「剣を収めろ、アウド・ローシェ」

 その声は厳しく、鋭く、アウドは思わず持っていた剣を落としそうになる。

「収めろと言ってる、聞こえなかったのか」
「あ、ぇ……あ、はいッ」

 先ほどまでの穏やかな表情からは一変して、青い瞳は厳しくアウドを睨みつけてくる。
 その気迫に驚いて、アウドはぎこちなく剣を鞘に戻した。
 それに追い打ちのように、シーグルが深くため息をつく。

「死ぬ覚悟があるなら、お前が俺に願う事は違う筈だ」
「え?」

 アウドは本気で、シーグルの言いたい事が分からなかった。だから間抜けに口を開けて、厳しくも美しい深い青の瞳を見返す事しか出来なかった。

「死ぬ覚悟と他の者に遅れを取らない自信があるなら、お前は安全な後期の予備扱いに甘んじるのではなく、騎士としていつでも戦場に行けるよう、前期組への移動を俺に願うべきだ」
「い、いやでも、俺の足では許可が……」
「だから、俺に願えと言ったんだ。隊の責任者である俺の判断で大丈夫というなら、上も許可しない訳にはいかない。幸い、守備隊と違って、俺の隊では行進時の足並みが揃わなくても問題ないからな、実践での実力だけがあればいい」

 つまり彼は、もう諦めるしかないと思っていた、アウド自身の騎士としての誇りと自信を取り戻すチャンスをくれるというのだ。
 アウドはそれで、やっと、この青年が最初からそれを言うつもりだった事を理解した。自分にそれを言う為に、剣で完全に打ち負かし、自分を悔しがらせた。いや、それは少し違う。そこで自分が悔しがり、まだ騎士としての認められる事を諦めていないなら、その言葉を自分に言おうと思っていたのだろう。
 それを逆上してまた襲った自分を、それでも彼はまだ見捨てなかったのだ。

「……確かに、あそこで止めて貰ったのは感謝しないとなりませんね……」

 小さく、小さく呟いて、アウドは歯を噛みしめる。
 そうしていないと涙が出てきそうで、アウドは顔に思い切り力を入れて歯を噛みしめて、耐える。
 それに、シーグルは笑う。少し釣り目がちなきつい青の瞳を僅かに細めて。

「どうする? アウド・ローシェ」

 アウドは、美しく、強い、貴族騎士としては奇跡のような青年に、深く礼を返した。
 そうして、彼に強い声で答えた――前期への異動希望の言葉を。




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うん、ノリがBLじゃないですね……。でもこういうシーン書くの楽しい……。
シーグルがこのセリフを言えるのは、勿論セイネリアあってです。シーグルの成長が見えたでしょうか?



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