記憶の遁走曲




  【9】



 相手の男は、触れようとした手を伸ばした体勢のまま、止まる。

「……バレましたか」

 声は驚く程軽い。

「当然だ。バレたくないなら声は出さない方が良かったな」
「確かにそうですな。いやまったく、優秀なことで」
「ふざけるな、質問に答えろっ」

 つい先ほどまで呆けていた青い瞳は完全に強い意志を取り戻し、暗闇の中で動く男の影を凝視する。だが、部下の一人である筈の男の影は、暫くは笑ってただ体を小刻みに震わせているだけだったが、暫くすれば、思い出したかのように近づいてくる。

「触るなっ」

 叫んで逃げようとすれば、男は笑い交じりの声のまま言う。

「腕をほどくだけですよ」

 それでシーグルは抵抗をやめたが、男に触れられている間、嫌悪感で肌が粟立って仕方なかった。腕が解かれた途端、相手から距離を取り、力の入らない体をそれでもすぐ動けるように構えて、見えない暗闇の中、相手をじっと睨みつける。

「……相変わらず、と言ったんだ。前にも会った事があるんだな?」

 返ってくる気配は、やはり笑みだけだった。

「えぇ、会うどころか、あんたを抱くのも2回目です」

 それに、シーグルの顔が強張る。
 ぎゅっと掌を握って、それでも目だけは男をきつく睨み付ける。

「どこで……だ?」

 絞り出すようにゆっくりと言った言葉は、相手の男の笑い声の中に吸い込まれた。

「そうですねぇ……あんたは自分でも記憶力には自信があるんでしょう。そのあんたが自分を犯した憎い相手を覚えてないってのは、どんな状況だったか予想はつくんじゃないですか?」

 ならば、思いつくのは1つしかない。
 顔を青ざめさせるシーグルの、その表情をまるで見えているように男は笑う。声を上げて、低い喉だけの笑い声が狭い部屋に響く。

「そろそろ分かりましたか? ヴィド卿の屋敷ですよ。あの時はあんたも正気じゃなかったし、なにしろ人数もいましたからね。覚えてなくても仕方ない」

 シーグルは思わず自分の腕を固く握りしめた。
 背筋を駆け上がった冷たい感覚に、知らずに全身が震える。断片的とはいえ、あの時の状況を思い出せば、心が闇に飲まれそうになる。

「あの時の連中の一人なら、何故ここで普通に生活していられるのかあんたは不思議なんでしょう? ……俺はですね、あの日すぐにヴィド卿のとこを辞めたんですよ。だからあの屋敷にいなかった、それで助かったという訳です」

 シーグルは何も言わず、ただ、暗闇の中の笑う男の影を見ている。
 青い目を大きく開き、ただ目の前の男を凝視していた。

「とはいえ、どこでバレるか分かりませんからね。暫くは大人しくしとこうかって事で、こうして古巣に帰ってきた訳ですが……まさかあんたの下につく事になるとは思いませんでしたよ。世の中面白いものです」

 じっと腕を握り締めていたシーグルは、そこに爪を立てて痛みを感じる事で、気力をどうにか保ち続けた。

「それで……お前の狙いは何だ。俺を脅迫でもする気か?」

 言えば男は、一瞬だけ黙り、少しだけ困惑の空気を返す。

「いや……別に、あんたに害をなそうなんて思ってはいませんよ」
「馬鹿を言えっ、この状況でその言葉が信用できるかっ」
「いえ本当に、悪意はないんです」

 殺気を込めて叫ぶシーグルに、アウドはやれやれとため息を付いた。
 それから、暫くじっとこちらを見つめてから、再び溜め息と共に彼は言う。

「あんた、溜まってたでしょう?」

 シーグルは、最初、何を言われたのかわからなかった。
 だから黙って頭だけで考えて……気づいた意味に顔を赤くして叫んだ。

「何を言っているんだ、お前はっ」

 男の気配は変わらない。それに続いたどこか間延びした軽い声は、この状況としては異様な程、悪意を感じさせなかった。

「いや、事実でしょう。あんたは溜まってたんですよ。まぁ、男なら別に不思議な事じゃない。あんた……結構ご無沙汰だったんじゃないですかね? へたすっと真面目すぎて、自慰だってやってなかったんじゃないですか?」

 シーグルは顔を真っ赤にしたまま、いろいろ感情が昂ぶりすぎて何も言えなくなって口を閉じる。閉じたまま唇だけが震える。
 男がまた、溜め息というよりも、呆れたように息を付いたのが気配で分かった。

「おそらくあんたは、いつもある程度の間隔で誰かに手ェ出されてたもんだから、今までは意識せずにいられたんじゃないですか。ただまぁ、体の方はそれに慣れて欲求を溜めて、頭だけは何も知らない頃のままを通そうとした、その結果が今、という事じゃないですかね?」
「そんな事は……ない」

 歯を噛み締めてから搾り出した声には、苦笑した気配が返る。

「いやでも、あんたさっき思いきり感じてたでしょう? 後ろに指入れただけで簡単にイクくらいにね。それが溜まってたっていう以外のなんだっていうんですか?」

 そう言われれば、事実は事実だ、シーグルに否定は出来ない。

「うるさいっ、だとしてもお前には関係ないっ」

 だから感情で拒否する事しか出来なくて、虚勢を張って怒鳴った声だけが虚しく響く。相手はただ呆れたように肩を竦め、ふぅ、とまた軽く息をついた。

「んー、関係ないというか、俺はは協力できると思ったのですけれどね」
「協力……だと?」

 男の余りにも緊張感も悪意もない言動が、シーグルには理解できなかった。こんな事をしておいて、害するつもりはない、と言う男の考え方も分かりはしなければ、それで協力などと言い出す意図が分かる筈もない。
 シーグルの混乱も怒りもまるで意味のないように、男の声は軽く、言動には蔑むでも馬鹿にするでもない単純な笑みさえ重なる。

「えぇ、ヴィド卿のとこで抱いたあんたは最高でした。だから俺はあんたを抱きたい。で、あんたは溜まった欲求を発散出来る。あんたとしたって、他の誰かに体を任すよりは、一度抱かれてもう隠す必要ない俺相手の方がいいんじゃないですか? あんたも俺もヴィド卿の屋敷での事はバレたくない、互いに共通の弱みがある。協力関係としてはかなり丁度いいと思うのですが?」
「何を言ってるんだ、お前は……」

 シーグルには本気で男の意図が分からなかった。そもそも、相手の理論の前提である、抱かれる事を欲を発散出来るというメリットとしてシーグルが考えられない時点で、話が通じる筈があるわけがないのだが。
 互いに話が平行線を辿る中、論点の違いに気づいたのは、どこまでも思考が潔癖なシーグルではなく、アウドの方だった。

「ふむ……つまりあんたは、こうして俺にヤられた事を、ただ犯されたって思ってる訳ですか?」
「それ以外の何がある」
「成程、話がかみ合わない訳だ」

 勝手に納得している男はあまりにも悪意がなく、シーグルは怒りのぶつけどころに困って、燻るような感情を持てあます事しか出来ない。

「それなら悪かったですね。こっちは半分親切のつもりだったんですが」
「な……」

 人を犯しておいて親切、などという相手の事をシーグルは全く分からない。あまりにもわからな過ぎて、相手の言葉がとんでもなさ過ぎて、シーグルは口を開いたまま出すべき声さえ失った。

「では言っておきますが、あんたは意識してなかったでしょうけど、溜まってるせいでそりゃーやばい気配を振りまいてたんですよ。そのままだと、俺どころかもっとヤバイ連中が一杯ひっかかりそうだったんでね、そんなら処理して差し上げましょうかとね。勿論、単純に俺もあんたを抱きたかったってのもありましたから、まぁ、丁度いいかなとね」

 男の声は先ほどからすれば真剣で、どうやら本気だという事だけは分かる。
 グスやキール、それにリーメリにまで散々言われていいただけあって、相手の言い分が少しわかってしまった時点で、怒りよりもシーグルは愕然とするしかない。

――つまり、このところ皆から誘っているとか色気を撒いてるとか言われていた原因は、俺が溜まっていたからだったのか。

 シーグルは顔を手で覆ってがくりと項垂れた。
 なんだか、もうアウドに対して怒ろうという気力もなく、ただ事態の馬鹿馬鹿しさに乾いた笑いさえ出てきそうだった。

「それでは、今日はここで引き下がりますよ。俺としてはあんたを抱けただけで満足ですし。あぁ、俺が必要ないっていうなら、ちゃんと溜まったらご自分で処理して下さい。あんな色気振りまいてる状況だと、見てるこちらがハラハラしますから。自慰の仕方が分からないっていうなら、教えて差し上げてもよろしいですが?」

 シーグルは項垂れたまま返事を返さない。
 立ち上がった男は、やはりまた肩を竦めてドアへと歩いていく。

「もし、相手が欲しくなったのでしたら、いつでも声を掛けてください。ちゃんと後に影響が出ないように、適度に楽しませて差し上げますよ。男同士のセックスなんてな、そこまで深く考えずに割り切って、楽しむとこだけ楽しんで発散させるくらいでいいんですよ、上手く立ち回る事を覚えた方がいい」

 そうして、部屋を出ていった男の背中を眺めて、その姿が消えてから、シーグルは呆然とした頭のまま、薄暗い天井を眺める事しか出来なかった。




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深刻(?)そうな流れでこのオチです。すいません。
オチだけ書くとシーグルがギャグ要員のようです(==;;。



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